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源平特集
源義経の生涯 (前)
源義経の生涯 (中)
源義経の生涯 (後)
源義経の生涯
 源義経の生涯 (後)
  文治と改元された八月末、義経は伊予守に任官した。十月には、ついに頼朝と対決する決心をし、前々から頼朝と対立していた叔父の行家と結んで、後白河法皇に頼朝追討の宣旨の発給を願い出る。そして、同十五日、頼朝の命を受けた土佐房昌俊の軍平に堀河の自邸を襲撃されるに及んで、後白河法皇に強要し、ついに十八日、頼朝追討の宣旨を獲得するのである。 しかし、鎌倉方では義経謀反に備えて既に軍兵などの準備を進めており、二十五日には第一陣が京都に向けて出発した。この情報に、軍兵などの準備が進んでいない義経と行家は、いったん西海に逃れ、そこで軍勢の再興を図ることを決意し、十一月六日、大物の浦(尼崎)から船出した。しかし、船出した直後に暴風雨に襲われて船は転覆し、従者は四散してしまう。九死に一生を得た義経は住吉の浦に漂着し、武蔵坊弁慶ら、わずかの手勢を引き連れ、畿内各地を転々と逃亡した後、辛うじて吉野山の奥に逃れ、行方をくらますのである。


  この義経の吉野潜行については、『義経記』が詳しくエピソードを伝えているが、吉野衆徒の追及に手を焼いた義経は、愛妾・静を捨て、身替わりを買って出た佐藤忠信の奮戦によって虎口を脱し、諸所を転々とした末、山伏姿に身をやつして再び奥州平泉に落ちて行ったという。 いっぽう、頼朝は、逃亡した義経・行家の探索のため、十一月二十五日、急遽上洛させた北条時政を通じて、義経に与えた頼朝追討の宣旨を撤回させ、逆に義経・行家両名追討の宣旨を発給させるとともに、その探索と称して守護・地頭の任命権を獲得し、鎌倉政権の基盤を飛躍的に拡大することに成功する。 その後、行家は翌文治二年(一一八六)五月、和泉国で発見されて討たれたが、義経については、静が吉野山中で捕えられただけで、まったく行方がつかめず、さまざまな風聞が流れていた。 こうして多くの犠牲を出し、辛苦の末に辿りついた平泉も、義経にとって、結局は安住の地とはならなかった。文治三年(一一八七)二月、義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼っていることが判明し、頼朝は再三、藤原氏に対して義経の引き渡しを求める。翌年、義経の庇護者・秀衡が亡くなると、その子・泰衡は、文治五年(一一八九)閏四月三十日、頼朝の脅迫に屈して討手を義経の衣川の高館に差し向けた。義経の家臣たちは必死に戦うが次々と討死していき、義経は持仏堂に入って、まず二十二歳の妻と四歳の娘を自分の手で殺した後、自害を遂げる。三十一歳であった。鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』は最後の様子をそのように伝えている。そして、その首は泰衡の使者・新田高平によって腰越に届けられ、六月十三日、和田義盛・梶原景時によって首実検されたといい、変わり果てた義経の姿に、見る者みな涙を拭ったといわれる。


(出典:神鉄観光且幕ニ部 すずらん編集室発行・野村貴郎氏著「源義経 鵯越の逆落し」)