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源平特集
源義経の生涯 (前)
源義経の生涯 (中)
源義経の生涯 (後)
源義経の生涯
 源義経の生涯 (中)
  一ノ谷の合戦後は、頼朝の命令で、京都に留まって洛中の治安警備の任に当たり、後白河法王を初めとする貴族たちの信頼を得る。しかし、頼朝の勢力拡大に警戒の念を抱く後白河法王は、頼朝と義経の引き離し策を企て、これに乗せられた義経は頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉に任官してしまった。このため、兄・頼朝の不興を買い、義経は暫く軍務から遠ざけられてしまう。 しかし、元暦二年(文治元年・一一八五)一月、平氏追討のため西海道に出兵していた範頼の戦果がはかばかしくなく、戦線が長期化したため、再び平家追討の任を帯びることとなった。二月、讃岐国屋島に陣を構えていた平氏軍を襲撃するため、わずかに五艘の軍船で渡辺・福島(大阪)から暴風を冒して出帆し、阿波の勝浦に上陸、夜を日についでの強行軍で屋島を急襲する。そして、この合戦でも意表を衝いた背後からの奇襲攻撃で平家軍を海上に追い落とし、あざやかな戦いぶりを見せた。(屋島の合戦) 義経は、平家をさらに追撃して、三月二十一日、長門国・壇ノ浦での最後の決戦に臨んだ。そして、不慣れな海上での舟戦にもかかわらず、巧妙な戦法で平家を翻弄し、これを壊滅させることに成功したのである。


  夜明けと同時に始まった合戦は、午後には決着がついた。平知盛は安徳天皇の御座船に参上し、一同に最後の覚悟を促す。清盛の妻で、幼い天皇の祖母でもある二位尼は、八歳の安徳天皇を抱きかかえて海に飛び込んだ。健礼門院や女官たちも後を追い、平家一門の武将たちも次々に海に沈んでいった。こうして平家は滅亡したのである。(壇ノ浦の合戦) 義経は壇ノ浦の合戦後もしばらく現地に滞在し、行方不明になっていた宝剣の探索など戦後処理に当たったが、間もなく上洛する。すると都では「義経ほどの人はいない。鎌倉の頼朝が何をやったというのか。天下は義経の思うままになってほしいものだ」という風評が広がり、これを伝え聞いた頼朝は「これはどういうことだ。この頼朝がうまく取り計らって兵を上洛させたからこそ平家は容易に滅びたのだ。義経だけでは、どうして世をしずめることができようか。人がそのように言うので得意になって、早くも天下を自分の思いのままにしたのだな」と、義経の過分の振舞に激怒する。こうして、義経の戦場位置ける輝かしい活躍と、その評判が、兄・頼朝との溝を深める結果になったと『平家物語』は記している。 元暦二年(文治元年・一一八五)五月、壇ノ浦で生虜にした平宗盛・清宗父子を護送して、義経は鎌倉に下向するが、頼朝からは鎌倉入りを許されず、やむをえず相模国腰越に滞在して頼朝に陳訴を続けたのであった。この時、義経が、幕府の重臣・大江広元に頼朝への取りなしを依頼したのが有名な腰越状である。しかし鎌倉入りは許されることなく、義経は再び宗盛ら囚人を伴い上洛しなければならなかった。 (→ 「源義経の生涯 (後)」に続く)


(出典:神鉄観光且幕ニ部 すずらん編集室発行・野村貴郎氏著「源義経 鵯越の逆落し」)