後白河天皇(ごしらかわ てんのう)〔1127〜92〕 |
1155年に即位したが、これに不満を持つ兄・崇徳上皇側と対立し、保元の乱(1156)の原因となった。1158年に譲位後、上皇、1169年法皇となり34年間にわたり院政を敷いた。源頼朝から「日本一の大天狗」と評された老獪な政治家であった。
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崇徳天皇(すとく てんのう)〔1119〜64〕 |
在位1123〜1141年。後白河法皇の後ろ盾だった父の鳥羽法皇と対立し、鳥羽法皇の死後、1156年後白河天皇を襲って失敗(保元の乱)、讃岐(香川)に流されその地で没した。
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高倉天皇(たかくら てんのう)〔1161〜81〕 |
清盛の義妹・平滋子を母に持つ後白河天皇の第7皇子。1168年に即位、80年に譲位したが、清盛と後白河法皇との対立に苦しんだ。清盛の娘徳子を中宮に向かえ安徳天皇を生む。 →関連記事へのリンク
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安徳天皇(あんとく てんのう)〔1178〜85〕 |
清盛の娘である徳子(建礼門院)を母に持つ高倉天皇の第1皇子。1180年3歳で即位、1185年、壇ノ浦で入水。この時、皇位の証となる三種の神器のうち剣が海に沈んだといわれる。
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以仁王(もちひとおう)〔1151〜80〕 |
後白河天皇の第2皇子。学問に秀でていたが平家の圧力により知行地を奪われるなど不遇な生活を送り、1180年平氏討伐の令旨を発して源頼政らに挙兵させるが敗死。しかし源頼朝・義仲らの挙兵が続き、平家滅亡の契機を作った。 →関連記事へのリンク
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平清盛(たいらの きよもり)〔1118〜81〕 |
平忠盛の嫡男。白河法皇の落胤ともいわれる。1153年家督を継ぎ、保元・平治の乱で王朝国家の軍事部門を一挙に握り、1167年太政大臣。9人の娘を天皇や摂関家に嫁がせたが、徳子が高倉天皇の中宮となり1180年安徳天皇を生んで、天皇の祖父となる。79年後白河法皇を幽閉し、権力を集中した。全国60カ国の内、平家の知行を33カ国とするまで、平家一門を繁栄させた。1180年、以仁王の挙兵の後急いで、西国の要衝・日宋貿易の拠点である神戸の福原へ遷都したが、遷都を十分に果たせぬまま6ヶ月で一応京に都を戻した直後、81年熱病で死亡。64歳。 →関連記事へのリンク
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平正盛(たいらの まさもり)〔?〜1122〕 |
清盛の祖父。白河法皇に仕えた平氏中興の祖。
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平忠盛(たいらの ただもり)〔1096〜1153〕 |
清盛の父。白河法皇に仕え、日宋貿易で平家繁栄の基礎を作った。 →関連記事へのリンク
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平重盛(たいらの しげもり)〔1138〜79〕 |
清盛の長男。鹿ヶ谷事件の時、後白河法皇を幽閉しようとした清盛をいさめるなど、道理をわきまえた人物で、将来を嘱望されたが、父清盛より早く41歳で病没。 →関連記事へのリンク
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平資盛(たいらの すけもり)〔1158〜84〕 |
重盛の子。壇ノ浦の戦いで敗れ入水。
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平師盛(たいらの もろもり)〔1171?〜84〕 |
重盛の子。一の谷の戦いで討ち死に。
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平宗盛(たいらの むねもり)〔1147〜85〕 |
清盛の子。兄重盛の死後、平家の総帥となり家督を継ぐ。壇ノ浦の戦いで生け捕りにされて鎌倉に送られ、京都に送還途中、源義経に斬られた。 →関連記事へのリンク
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平知盛(たいらの とももり)〔1152〜85〕 |
清盛の子。平氏が九州・大宰府に落ちた後、屋島を本拠とした西国での勢力圏を作るのに貢献。壇ノ浦の戦いで入水。
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平知章(たいらの ともあきら)〔1169〜84〕 |
知盛の子。生田の森を守備していた父と敗走中、討たれた。 →関連記事へのリンク
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平重衡(たいらの しげひら)〔1157〜85〕 |
清盛の子。1180年に南都の反乱鎮圧のため東大寺や興福寺を焼いた。一の谷の戦いで生け捕りにされ鎌倉に送られ斬首された。 →関連記事へのリンク
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平徳子(たいらの とくこ)〔1155〜1213〕 |
清盛の娘で高倉天皇に嫁ぎ、安徳天皇を生む。建礼門院と称した。壇ノ浦の戦いで入水したが助けられ京都・大原寂光院に住んだ。 →関連記事へのリンク
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平経盛(たいらの つねもり)〔1124〜85〕 |
清盛の弟。清盛亡き後の一門の長老。壇ノ浦の戦いで自害。 →関連記事へのリンク
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平経正(たいらの つねまさ)〔?〜1184〕 |
経盛の子。和歌に秀でたが一の谷の戦いで戦死。 →関連記事へのリンク
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平経俊(たいらの つねとし)〔?〜1184〕 |
経盛の子。伊賀守、若狭守を歴任。一の谷の戦いで戦死。 →関連記事へのリンク
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平敦盛(たいらの あつもり)〔1169〜84〕 |
経盛の子。笛の名手。一の谷の戦いで熊谷直実に討たれた。 →関連記事へのリンク
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平教盛(たいらの のりもり)〔1128〜85〕 |
清盛の弟。清盛の死後、宗盛の後見になる。壇ノ浦の戦いで入水。 →関連記事へのリンク
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平通盛(たいらの みちもり)〔?〜1184〕 |
教盛の子。一の谷の戦いで戦死。 →関連記事へのリンク
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小宰相局(ございしょうのつぼね)〔?〜1184〕 |
通盛の妻。鳥羽天皇第2皇女・上西門院に仕えた。夫の死を知り船上で入水。 |
平教経(たいらの のりつね)〔1160〜85〕 |
教盛の子。壇ノ浦の戦いで源義経を追いつめるが討ち漏らし入水。 →関連記事へのリンク
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平業盛(たいらの なりもり)〔1168?〜84〕 |
教盛の子。通称蔵人大夫。一の谷の戦いで戦死。 →関連記事へのリンク
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平頼盛(たいらの よりもり)〔1131〜86〕 |
清盛の弟。清盛とは不仲で、平氏西国落ちの時、後白河法皇を頼った。源頼朝に招かれて鎌倉に下り、平家滅亡後、出家。 →関連記事へのリンク
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平忠度(たいらの ただのり)〔1144〜84〕 |
清盛の弟。藤原俊成に師事した歌の名手。薩摩の守。文武両道に秀でた武人と詠われた。都落ちの際、俊成に百首ほどの秀歌を託したが、千載集に「さざなみの滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」の忠度の一句が(読み人知らず)として入る。一の谷の戦いでは、西木戸の総大将だったが、敵を組伏せたところ後から腕を斬られ戦死。神戸市長田区の腕塚・胴塚は、忠度の戦死を悼んだ伝承史跡。
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平盛俊(たいらの もりとし)〔?〜1184〕 |
平家郎党の最有力者。一の谷の戦いで戦死。 |
中山忠親(なかやま ただちか)〔1132〜95〕 |
平徳子や安徳天皇に仕え、後白河院庁の要職を務め平家滅亡後も1185年に内大臣になった。書にすぐれ、日記「山槐記」が現存。 →関連記事へのリンク
福原遷都-語句解説 |
藤原(五条)邦綱(ふじわら くにつな)〔1122〜81〕 |
摂関家の藤原忠通・基実父子の家司で、清盛と結び、娘を高倉天皇・安徳天皇などの乳母にした。福原遷都の造営役。 |
妓王と妓女(ぎおう・ぎじょ) |
「平家物語」の作中人物。妓王は白拍子の名手で、清盛に寵愛され、妹妓女、母ともに屋敷を与えられた。のち仏御前が登場すると追い出され尼となり、仏御前と京都・嵯峨で隠棲したという。 |
松王小児(まつおうこでい) |
清盛が経ヶ島を築いた時に、人柱になったという伝説上の人物。 |
監物頼賢(方)(けんもつ よりかた)〔?〜1184〕 |
平知盛家臣で弓の名手。一の谷の戦いで知盛を守って戦死。 |
源義朝(みなもとの よしとも)〔1123〜60〕 |
鎌倉を拠点に武士団を組織。保元の乱で清盛とともに後白河天皇側について戦功をたてたが清盛に比べ冷遇され、平治の乱を起こし清盛に大敗。東国に逃げる途中、謀殺された。
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源義平(みなもと よしひら)〔1141〜60〕 |
源義朝の子。平治の乱で父に従い、清盛を狙うが失敗して処刑。
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源頼政(みなもとの よりまさ)〔1104?〜80〕 |
平治の乱で源義朝から平清盛に寝返る。以仁王に平氏打倒を勧めるが事前に発覚、逃れる途中、宇治で追撃され戦死。 |
源(木曽)義仲(みなもとの(きそ) よしなか)〔1154〜84〕 |
源義朝の甥で頼朝や義経のいとこ。木曽で成長し以仁王の平氏追討の令旨を受けて挙兵。平氏を破り、京都に入るが新帝問題で後白河法皇と対立し幽閉。源義経・範頼軍に破れ、北国に逃れる途中、近江で戦死。 →関連記事へのリンク
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源頼朝(みなもとの よりとも)〔1147〜99〕 |
源義朝の子。父に従い平治の乱に加わったが、敗北、伊豆に流された。以仁王の平氏追討の令旨を受けて挙兵。鎌倉幕府を樹立し弟源義経や庇護した奥州藤原氏も滅ぼした。 →関連記事へのリンク
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源範頼(みなもとの のりより)〔?〜1193〕 |
源義朝の子。遠江(静岡)で生まれ、兄・頼朝挙兵に従い平氏を滅ぼしたが義経没落後、頼朝から疑われて伊豆修善寺に幽閉され、殺された。
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源義経(みなもとの よしつね)〔1159〜89〕 |
源義朝の子。平治の乱で捕らえられ鞍馬寺に入れられた。のち奥州藤原氏の庇護を受け、兄・頼朝挙兵に従い源義仲、平氏を滅ぼした。頼朝の許可なく官職についたことで怒りを買い、畿内各地を転々とした後、再び奥州藤原秀衡を頼ったが、秀衡の死後、頼朝の圧力に屈した泰衡に攻められ自殺した。 →関連記事へのリンク
福原遷都-語句解説 源義経の生涯 一ノ谷の合戦 系図 年表 平家物語 |
梶原景時(かじわら かげとき)〔?〜1200〕 |
挙兵した源頼朝を破ったが、潜んでいることを知りつつ見逃したとされ頼朝に従った。平氏追討の源義経軍に加わったが義経と対立、頼朝に訴えて失脚させた。鎌倉幕府の要職を歴任したが、御家人の支持を失い失脚、京で将軍擁立を画策して失敗、駿河(静岡)で戦死。 |
梶原景季(かじわら かげすえ)〔1162〜1200〕 |
弓の達人として知られ、源義経に従軍。義経の動向を探り、対立の原因を作った。父とともに駿河で討ち死にした。 |
鷲尾義久(経春とも)(わしお よしひさ・つねはる)〔?〜1189〕 |
播磨の三草山の戦いで勝利した源義経が一の谷の戦いに向かう途中の道案内をした。以後義経の郎党となり奥州で義経とともに戦死。 |
熊谷直実(くまがい なおざね)〔1141〜1208〕 |
源義朝に従い、保元・平治の乱で源義平に従う。頼朝挙兵後、頼朝に従い一の谷の戦いで平敦盛を討つ。92年土地を巡る裁判に負けて出家、蓮生と称した。 |
那須与一宗高(なすの よいち むねかた)〔生没年不詳〕 |
下野(栃木)の武士。源義経軍に従い1185年屋島の戦いで、平氏側の船上に揚げた扇の的を射抜いた話が「平家物語」にある。 |
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(出典:神戸新聞総合出版センター発行「源平と神戸ゆかりの50選―歴史と観光の散策ガイド」)