さらに「坂落とし」を考えるためには、『吾妻鏡』一ノ谷合戦譚の史料性を改めて問題にしなければならない。その際に重要になるのが、冒頭でより現実味があるとした『吾妻鏡』と『平家物語』の相違点である。具体的には、@義経が「坂落とし」の際に率いたのが七十余騎である点と、A安田義定の名前が出てくる点である。
まず@から考えよう。『平家物語』によれば、義経軍は一万余騎であり、「坂落とし」の軍勢は、延慶本では七千余騎、覚一本では三千余騎である。総勢そのものが誇張と考えられたが、「坂落とし」という奇襲作戦を行う軍勢としても、三千余騎やまして七千余騎はいくらなんでも多すぎる。
これに対し、『吾妻鏡』の七十余騎ははるかに現実的である。また、鉢伏山や鉄拐山に何千騎もの軍勢が通る道がないことも、「坂落とし」を否定する根拠のひとつとなっている。『吾妻鏡』でも鵯越には獣道しかないことになるが、七十余騎程度ならば、そうした道でも通れることになろう。
ついでA。『平家物語』では、義経が抜けた本隊は土肥実平や田代信綱が指揮する。これに対し、『吾妻鏡』から、安田義定が指揮したことが予想できた。たしかに実平や信綱は、義経に補佐役として付けられた頼朝の代官であるが、あくまで御家人である。それに対して、義定は甲斐源氏、つまり源氏一族であり、一軍の指揮を執る資格は充分にある。義経が抜けた本隊を指揮したのは、御家人である実平等よりも、源氏一族である義定と考える方が、むしろ説得力があると考えられる。本隊を義定に預けて、義経は「坂落とし」を行うのである。逆に本隊を指揮したからこそ、軍功者として義経・範頼とともに名前があがっているのであろう。
また、『吾妻鏡』二月十五日条によれば、義経・範頼等は、一ノ谷合戦後に、「合戦記録」なるものを鎌倉に提出した。こうした合戦記録は、合戦ごとに提出されていたものと考えられ、こうした記録をもとに『吾妻鏡』や『平家物語』の合戦譚は記されているという説もある。これは、『吾妻鏡』の一ノ谷合戦譚が『平家物語』に依拠しているという説の反論になろう。『吾妻鏡』と『平家物語』が似ているのは、この合戦記録のような共通の原史料があったからとも考えられるからである。
以上の諸点に、『吾妻鏡』にみえる義経の動向は『玉葉』と矛盾しない点や、断崖絶壁を騎馬で降りることが可能である点などを加味すれば、『吾妻鏡』一ノ谷合戦譚の史料性が再認識されるのであり、それを虚構とみなすことは躊躇されるのである。 |