1 福原遷都とは |
1180年6月、平清盛の強い意向で、現在の神戸市兵庫区平野の地に、天皇・上皇以下が大挙して訪れました。
やがて、都造りが計画されますが、途中から反平氏勢力の挙兵がはじまり、遷都反対も根強く、未完に終わって、約170日の後、京都に帰還します。
これをふつう福原遷都とよんでいます。
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[1180(治承4)年]
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2 清盛と福原 |
保元・平治の乱の後、後白河上皇(のち法皇)の権力と平家の同盟による政治がはじまります。
ところが、平清盛は1168年2月大病をわずらって出家入道し、翌年初頭以降、摂津福原(神戸市兵庫区平野)に居を定めます。
以来京都の政治は、一門の子弟や平家に協力する上流貴族たちにまかせて、重大な懸案発生の時以外には、都で出向かなくなりました。
福原には、清盛邸以外にも一族の別荘が建設されており、都市らしい景観も生まれていたようです。
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彼が福原に引きこもった理由として、その南2.5キロのところに、古代以来の重要港湾・大輪田泊があり、
ここを足場に中国(宋)との貿易推進の陣頭指揮をとろうとしたのだろう、といわれています。
風よけ波よけの目的で、港に「経の島」とよばれる人工島を築いたのも、その意図の現れでしょう。
それとともに、平家の独自性や主体性を、従来以上に発揮するには、後白河法皇を中心とする王朝勢力とある程度距離をおく必要があり、
そのためには最高実力者が、京都から空間的にも離れている方が、なにかと都合がよかった、とする意見もあります。
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