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2.源平時代の防御用の武具
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(執筆・ 近藤 好和)

 武具

 まずは源平時代の武具から解説していく。最初に武具全般について概観しよう。
 武具には防御用と攻撃用がある。現在では攻撃用を武器というのがふつうであるが、前近代(明治時代以前)では武器という用語の使用はごく限られており、 中世では武具または兵具(ひょうぐ)が一般的である(古代ではさらに様々な用語がある)。武具または兵具という一語で防御用・攻撃用ともに表現するのである。 これは、前近代では防御兵器と攻撃兵器が表裏一体で発展したからである。これに対し、近代以降は攻撃兵器ばかりが発達し、 その発達した攻撃兵器を武器と称するようになるのである。
 さて、中世の防御用の武具には、甲冑と小具足(こぐそく)がある。甲冑は甲と冑であり、甲が「よろい」、冑が「かぶと」である。これが正しい漢字と和訓の対応である。 しかし、十世紀以降、それがしばしば逆の対応を示し、現在までつながっている。ここでは、甲を「よろい」、冑を「かぶと」と、本来の対応で進めていく。
 中世の甲には大鎧(おおよろい)・腹巻(はらまき)・腹巻鎧(はらまきよろい)・胴丸(どうまる)(筒丸(どうまる)とも)・腹当(はらあて)があり、冑には星冑(ほしかぶと)と筋冑(すじかぶと)がある。このうち胴丸・腹当は、鎌倉後期以降に成立した新しい様式の甲で、 筋冑は鎌倉末期以降に成立した冑である。したがって、源平時代の甲冑は、大鎧・腹巻・腹巻鎧と星冑である。
 小具足は、甲冑では防御しきれない手足や顔面の防御具で、源平時代には、籠手(こて)・脛当(すねあて)・半首(はつぶり)などがあった。
 攻撃用の武具は弓箭と刀剣が中心である。中世の刀剣には、太刀・打刀(うちがたな)・腰刀(こしがたな)・長刀(なぎなた)・鑓(やり)などである。しかし、鑓は南北朝期に成立したもので、 源平時代にはまだ成立していない。
 以上の武具のうち、源平時代の弓射騎兵は、大鎧・星冑・籠手・脛当・弓箭・太刀・腰刀が標準的な装備であり、打物歩兵は、腹巻・太刀・腰刀を基本とし、 これに籠手を着けたり、長刀を持ったりした。
 つぎに各武具を甲冑から具体的にみていこう。



札と威
 まずは中世のすべての甲冑で共通する部分からみていこう。中世の甲冑は、基本的に札(さね)と威(おどし)で形成されている。 札とは、複数の小孔を開けた、牛革を叩き固めた撓革(いためがわ)や鉄でできた小板である。
 この札をまず横に並べて韋緒で綴じ付け、さらにその綴じ付けた板を縦につなげる。札を横につなげることを横縫(よこぬい)、横縫した札のかたまりを札板(さねいた)、 札板を縦につなげることを威という。威には、絹の組紐や革紐(韋緒)、絹や布(布帛(ふはく)と総称する)を畳んで紐にしたものなどを用い、 そうした威に使用する紐のことを威毛(おどしげ)という。
 一方、中世のすべての甲に共通する基本構造は、胴本体である衡胴(かぶきどう)(長側(ながかわ)とも)、衡胴の前後(胸と背中)に立ち上がった立挙(たてあげ)、 衡胴の裾に垂れる複数間に分割した草摺(くさずり)である。このすべてが札と威でできている。
 また、中世の冑は、鉢と(しころ)からなる。鉢は地板(じいた)とよぶ台形状の鉄板を複数枚鋲留めして形成するのがふつうであり、は鉢から垂れる札と威でできた部分である。
札 二行十九孔札(左)と三目札(みつめざね)とよぶ三行十九孔札 (國學院高等学校蔵)
 二行十九孔札(左)と三目札
(みつめざね)とよぶ三行十九孔札
(國學院高等学校蔵)
横縫と威(國學院高等学校蔵)
横縫と威  拡大
(國學院高等学校蔵)

 中世の威の手法には二、三の種類があるが、中世で一般的な威方は毛引威(けびきおどし)という威方であり、その威方では、甲の表面と曉の表面は威毛で覆われることになる。 そのために、甲冑の名称は、威毛の色・文様・材質などで表現されることになる。
 つまり、組紐は糸威、韋緒は韋(革)威、布帛は材質でたとえば綾威などといい、これに、@単色のもの、A威毛自体に文様があるもの、 B札板の段ごとに色や材質を変えたものなどがある。
威各種
(國學院高等学校蔵)
伏縄目威(ふしなわめおどし) (國學院高等学校蔵) 小桜黄返威>(こざくらきがえしおどし) (國學院高等学校蔵) 逆沢潟威(さかおもだかおどし) (國學院高等学校蔵) 紅裾濃威(くれないすそごおどし) (國學院高等学校蔵)
伏縄目威  拡大
(ふしなわめおどし)
小桜黄返威  拡大
(こざくらきがえしおどし)
逆沢潟威  拡大
(さかおもだかおどし)
紅裾濃威  拡大
(くれないすそごおどし)

          
   @は単純に色と材質でよぶ。赤糸威・紫韋威などである。ただし、白韋威は韋を漂白しただけなので洗韋(あらいがわ)威といい、黒糸威・黒韋威は、黒ではなく、藍を深く染めたものである。
   Aには、樫鳥(かしどり)威・小桜(こざくら)威・伏縄目(ふしなわめ)威などがある。樫鳥威は、縹(はなだ)糸と薄縹糸(ともに藍染め)を打ち混ぜにした組紐による威毛。小桜威は桜花を小文染めした韋緒による威毛で、全体を黄で染めて黄返(きがえし)とすることが多い。伏縄目威は、斜めに藍・浅葱(あさぎ)・白で(たん)染(二色以上を交互に染めることをいう)としたこれも韋緒による威毛である。
    Bは、南北朝期以降には種類が増えるが、鎌倉時代までは、下段ほど色が薄くなる匂(におい)威(最下段は白)や、逆に下段ほど濃くなる裾濃(すそご)威(最上段は白)、また、沢瀉(おもだか)という水草の葉を意匠した沢瀉威、その葉を天地逆にした意匠の逆沢瀉(さかおもだか)威などがあった。

 一方、各甲の構造上の相違点は、その要点をいえば、衡胴の引合(ひきあわせ)(甲を着脱するときの開閉部分)の位置や構造、草摺の分割間数、付属具の有無と種類である。 また、星冑と筋冑の相違点は、地板の鋲留めの仕方の相違である。
 つぎに各甲を順にみていこう。

大鎧
 まずは大鎧である。これは中世では単に鎧(よろい)(甲や冑とも表記)、あるいは着背長(きせなが)といい、大鎧という名称はむしろ江戸時代以降に一般的となる。 弓射騎兵の主戦法である騎射戦での防御をよく考慮した、冑と合わせた全重量が三十キロ前後になる重厚な甲である。
 衡胴は、前後と左側が一続きとなった構造で、右側は大きく開いており、その右側の間隙には脇楯(わいだて)とよぶ独立した付属具を用いる。大鎧の衡胴がこうした構造になっているのは、 射向(いむけ)といって、腰を捻ることで弓射しようとする方向に向く左側に、相手の矢で狙われる隙間を作らないためと、重い大鎧を着やすく、また脱ぎやすくするためである。
 大鎧本体と脇楯は、着用は脇楯が先であり、脱ぐ時は脇楯が後になる。籠手や脛当などの小具足に脇楯だけを着用した姿を小具足姿といい、大鎧を着用する直前の姿である。
 草摺は、衡胴の前後・左に一間づつで三間、脇楯の一間を加えて四間となる。この四間の草摺は、騎馬の際に大腿部がよく防御できる。 しかし、逆に腿の前に重い板が下がっているわけだから歩きづらく、徒歩には向かないのである。
 さらに、弦走(つるばしり)といって、前立挙から衡胴正面に画革(えがわ)とよぶ染め革を一面に張った。また、通常は下段の札板は上段の札板の外側になるように威していくが、 後立挙の二段目と三段目は三段目が二段目の内側になるように威して、その二段目を逆板(さかいた)といい、そこに総角(あげまき)結びにした太組紐を垂らした。 また、両肩の袖、右胸の栴檀板(せんだんのいた)、左胸の鳩尾板(きゅうびのいた)などの付属具が多い点も特徴である。なお、大鎧には星冑が必ずセットになる。だから、星冑も大鎧の付属具といえる。


腹巻
黒韋威腹巻(奈良・春日大社蔵)  十キロ前後の重量の軽快な甲で、衡胴は胴体を一周し、引合は右側にあって重ね合わせの深いものとなり、草摺は走歩行しやすいように八間に分割している。
 付属具は、両肩に杏葉(ぎょうよう)とよぶ鉄板が取り付けられているだけであり、袖も冑も附属しないのが本来であった。ところが、南北朝期以降、大鎧に代わって腹巻が甲の中心となり、 騎兵も腹巻を着用するようになると、袖と筋冑を完備し、肩の杏葉は胸に垂れるようになる。この様式の腹巻を三物完備(みつものかんび)の腹巻とよぶが、遺品の腹巻は、 鎌倉時代に遡る一領をのぞいてすべてこの様式である。
 ただし、その一領は両袖を付属する。つまり肩に杏葉が付属する腹巻の遺品はなく、それが確認できるのは絵巻の描写からだけである。 なお、両袖の付いた一領は、本来から両袖が付属していたのではなく、いつの時代にか、本来は別個であった胴と袖が取り合わされた可能性が高い。
 ところで、いまここで腹巻として説明している様式は、現在では胴丸とよばれている。これに対し、現在腹巻とよばれているのは、 鎌倉後期以降に成立した背中引合(背割れ様式)で草摺七間の構造である。しかし、これが中世では胴丸である。つまり腹巻と胴丸の名称と構造の対応関係は、 中世と現在では逆転している。これは戦国時代の混乱のなかで逆転したらしい。ここでは正しく中世の理解で進める。つまり右引合・草摺八間が腹巻、背中引合で草摺七間が胴丸という理解である。
黒韋威腹巻  拡大
(奈良・春日大社蔵)



腹巻鎧
赤糸威腹巻鎧(標本)(國學院高等学校蔵)  重ね合わせの深い右引合で草摺八間という腹巻の本体に、袖・鳩尾板・栴檀板・弦走・逆板などの大鎧の特徴をすべて備えた折衷型の甲である。 文献では、『平家物語』の異本である南都本・長門本・『源平闘諍録』などに一例づつ名称がみえ、絵画では管見で『平治物語絵巻』に六例、『蒙古襲来絵巻』に一例、 『後三年合戦絵巻』に二例のあわせて九例が描かれている。遺品は、愛媛・大山祇神社に伝世する赤糸威の一領だけである。
 この遺品は、現在国宝に指定されており、指定名称は赤糸威鎧となっているが、腹巻と胴丸の名称と構造の逆転から、江戸時代以来胴丸鎧とよばれてきた。 しかし、胴丸鎧という名称は江戸時代以前には存在しない名称である。
 腹巻鎧は、その構造から徒歩での弓射に適した甲であるとか、海戦用の甲であるとかいわれてきた。しかし、文献と絵画の例を分析するかぎり、 南都本・『源平闘諍録』・『蒙古襲来絵巻』の三例が騎兵の使用である以外、その他の例はいずれも歩兵の使用であり、また、すべての例で星冑が付属したことが明記されていたり、あるいは推測できる。
赤糸威腹巻鎧(標本)
(國學院高等学校蔵)
拡大

 また、攻撃武具は、南都本と『源平闘諍録』の例が騎兵として弓箭を身につけている以外は、他はいずれも太刀や長刀といった打物だけである。 つまり腹巻鎧が徒歩での弓射に適した甲という解釈は、文献や絵画からは導き出せない。徒歩での弓射に適した甲ならば、腹巻鎧に弓箭を身につけた歩兵の例が多くなければならないからである。 まして海戦用の甲という解釈は根拠がない。文献・絵画の例はいずれも陸戦だけだからである。


星冑
 地板を留める鋲の頭を星とよび、その星が鉢の表面に露わな冑が星冑である。その鉢の頂辺には大きな孔が開き、その孔を頂辺(てへん)の孔とよぶ。
 律令制以来、男子は元服に際して、貴賤の別なく、幼少期より伸ばしてきた髪を束ねて髻(もとどり)を作るようになった。髻は髷(まげ)とは異なり、束ねた髪が立っている。
 この髻は成人男子の象徴であり、その保護のために被り物をするようになった。平安時代以降の被り物に冠と烏帽子であり、そのどちらを使用するかは着用する装束に対応して決まっているが、 冠は参内(朝廷への出仕)の際には必ず被らなければならないなど、いわば公的被り物に対し、日常での私的被り物が烏帽子である。 そして、冠や烏帽子を被っていない髻が剥き出しの状態を露頂(ろちょう)といい、露頂は失礼・恥辱の観念が生まれた。
 武士の軍陣でも髻に烏帽子をかぶり、冑はそのうえからかぶった。そのために、冑で髻が圧迫されないように逃げ道が必要であり、それが頂辺の孔なのである。 なお、鎌倉中期以降は、烏帽子に鉢巻をするようになるが、源平時代にはまだ鉢巻は使用されていない。
 これが、時代が下るにしたがって、冑の鉢が大型化していく一方で、頂辺の孔は小さく形骸化していくが、源平時代では大きく(遺品で径五センチほどある)、本来の役目を果たしている。 そのために、冑を前に傾けすぎた場合には、この孔を矢で狙われることもあるし、また、背後から孔に指を入れられて冑ごと引き寄せられ、腰刀で首を掻かれることもあった。
 (しころ)は、後頭部から顔の側面を矢から防御するものである。その両端はゆるやかに折り返して、そこを吹返(ふきかえし)というが、これは矢に対する側面の防御を強化するためのものである。 ただし、冑では顔面そのものは防御できない。冑をかぶった際の顔面を内冑(うちかぶと)というが、そこは致命傷を負いやすい箇所であり、同時に騎射戦でも打物戦でももっとも狙われやすい箇所であった。


小具足
籠手(奈良・春日大社蔵)  籠手は腕の防御具で、腕に通す筒状の布帛(ふはく)(家地(いえじ)という)に、鉄板や革板からなる座盤(ざばん)を取り付けたものである。 弓射の際には、左手で弓を持ち(だから左手を弓手(ゆんで)という)、右手で右腰(背中ではない)に佩帯した容器から矢を取り出して番える。 だから、右手に籠手をすると右手の動きが阻害されて矢を素早く番えにくくなる。そのために、弓射騎兵や弓射歩兵では、左手だけに籠手をする片籠手(かたごて)がふつうで、 逆に打物騎兵・歩兵は、防御のために両手に籠手をした諸籠手(もろごて)となった。つまり源平時代では、騎兵は片籠手、歩兵は諸籠手となるが、歩兵は籠手などの小具足を着けない場合も多い。
籠手  拡大
(奈良・春日大社蔵)
 脛当は脛の防御具である。南北朝期以降は騎兵・歩兵ともに着けることがふつうになるが、源平時代では、もっはら騎兵だけが着けた。 また、源平時代の脛当は、筒脛当(つつすねあて)といい、脛の正面と左右を防御するもので、膝の防御はなかったが、南北朝期以降は、膝をも防御できる立挙(たてあげ)という部分の付いた脛当となる。
 半首は、額から頬を覆う面具で、顎は防御しない。南北朝期以降に成立する顎から両頬を覆う頬当(ほほあて)という面具とは、防御箇所が対称的である。 源平時代では、原則的に冑をかぶらない腹巻着用の歩兵が使用し、また冑をかぶる騎兵も内冑の防御に使用した。
脛当(國學院高等学校蔵)
半首 (國學院高等学校蔵)
半首  拡大
(國學院高等学校蔵)
脛当  拡大
(國學院高等学校蔵)


防衛施設
 最後に、武具ではないが、源平時代の防衛施設についてふれよう。
 それは具体的には、楯を何枚も並べ連ねた掻楯(かいだて)や、棘のある樹木を束ねた逆茂木(さかもぎ)、さらに空堀や土塁・柵といった通行遮断施設(バリケード)に囲まれ、 敵に矢を射掛けるための櫓(やぐら)などを設置した臨時の防衛施設であり、当時は、こうした臨時の防衛施設が城郭とよばれ、こうした城郭を挟んだ戦闘(城郭戦)が盛んになったという。
 こうした城郭は、相手の弓射騎兵の進行を留める目的で設置されたものであり、一ノ谷合戦で、一ノ谷や生田の森などに設置された防衛施設も、規模の大小はあれ、こうした臨時のものであったらしい。
 相手の弓射騎兵の進行を留めるという意味では、大きな河川を前にして臨時の防衛施設が設置されることもあった。源平時代では、源頼政と平氏軍の合戦や、 源義経と木曽義仲軍の合戦があった宇治川が有名であるが、こうした合戦は攻撃側は河川を渡らなければならないから、これを渡河戦という。
 渡河戦の場合、まずは橋が渡れないように、橋板の一部を取り外して通行不能とし、取り外した橋板は楯としても用いられた。 そのうえで、河川にもそれ独特の防衛施設が設置された。それは、乱杭(らんぐい)といって、川底に不規則に杭を打ち込み、その杭には縄を張り巡らせて、大縄(おおつな)などといった。 また、杭に逆茂木を繋いで水面に漂わせたりもした。これらもいずれも渡河しようとする騎兵の進行を妨げる目的を持つものであるのは明らかであろう。
 これが南北朝期以降になると、城郭は自然の要害を利用した常設の施設となり、さらに織田信長の安土城などから、天守閣のある一般にも馴染みのある城郭となっていく。 だから、源平時代の城郭を近世城郭のような堅固なものと想像してはならない。騎兵主体の戦闘では堅固な常設の城郭は必要ないのである。
 そして、こうした臨時の防衛施設を設置するために、また逆に攻撃側はそうした施設を破壊するために、非戦闘員である工作員などが必要となってくるのであり、 渡河戦の場合は、水練(すいれん)という、当時としては特殊技能であった水泳や潜水の堪能者が活躍したのである。