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最終更新日:2022年10月18日
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墓地は時代の精神的な文化の表現であって、深遠な歴史とともに発達してきたものと言えます。
日本では、江戸時代あるいはそれ以前にも各地の山野に無規律に存在していました。さきに徳川幕府がキリスト教と対抗する掟をもって、いずれかの寺院の檀家になることを強制したので、仏教はようやく庶民のうちにも普及し、寺院も檀家が増加するにいたり、はじめて社会的施設というべき檀家の供用する寺院墓地の発祥となり、この発達を促したことは見逃せません。
明治22年4月、神戸市は神戸区、葺合村、荒田村を市域として人口約13.5万人でスタートしました。
神戸市の公営墓地は、明治32年に創設されました春日野墓地と夢野墓地の2箇所でした。その後、町村合併が進み、町村営墓地も次々に神戸市に編入されました。大正9年須磨町合併により須磨墓地を、昭和16年7月垂水町合併により垂水墓地を、昭和25年御影町、住吉村、魚崎町、本山村、本庄村の合併により小林墓地、荒神山墓地、魚崎墓地をそれぞれ引き継ぎました。また公園墓地としてその存在を知られていた鵯越共葬墓地(現在の鵯越墓園旧墓地)は昭和21年に湊西区から、追谷共葬墓地は昭和23年に神戸区から区有財産整理によって引き継ぎました。
昭和26年4月には、戦後の都市計画事業の一環として舞子墓園が開設され、昭和34年10月には納骨堂を設置しました。
昭和38年からは、背山総合開発並びに都市計画事業の一環として、北区山田町高尾山付近に自然公園的な近代墓地を建設するために鵯越墓園に着工し、現在も整備をおこなっています。
また、地域開発による人口増が予想される西神地域において、昭和58年には西神墓園に着工し、平成2年4月に開設しました。
墓地の移転としては、昭和38年度の須磨墓地に続き、昭和38~41年度に春日野墓地(約5,200基)からの移転、昭和42~46年度に夢野墓地(約13,800基)からの移転をおこない、各々の墓地を廃止して無事完了しました。現在その跡地には高層住宅等が建設され、都市環境の整備に寄与しています。
鵯越とは、攝津の国(福原や兵庫方面)から藍那を経て播磨の国、三木方面へ出る古道の呼び名です。
昭和6年から兵庫区御崎町、吉田町の墓地を移転するために、源義経の鵯越の戦跡として親しみを持たれている土地(当時の湊西区)に鵯越共葬墓地として昭和7年3月に創設され、昭和21年に湊西区から神戸市に引き継ぎました。面積6.6haで、墓地の頂上には昭和7年12月に開眼式をおこなった大仏(高さ11.7m、鉄筋コンクリート製)と鐘楼があり、現在の鵯越墓園旧墓地です。
鵯越大仏(旧墓地)
昭和38年からは、背山総合開発並びに、都市計画事業の一環として、将来にわたる安定した長期墓地利用と経営を図り、市街地と北神地区を結ぶ多目的道路の整備、また春日野、夢野墓地その他市内に点在する市営墓地を移転統合し、市街地の環境整備と跡地の高度利用のため、北区山田町高尾山周辺において市民の憩いの場を兼ねた自然公園的な近代墓地として、鵯越共葬墓地を含めた鵯越墓園の造成、整備に着手しました。
旧墓地を含めて面積は207.6ha、墓所使用数は約5万4000区画あり、毎年墓地使用者を募集しています。多様化する市民ニーズに対応するため、平成9年度から11年度には新規格型墓地(多段壁面型墓地、約450基)の募集を行い、平成30年度から現在も、合葬式墓地(鵯越合葬墓)の募集を行っています。
墓園からの展望は、南と西に大きく開け、播州平野はもちろん、遠く紀淡海峡が望まれる。墓園内には源義経伝承を残す場所が3箇所あり、南門付近の市道夢野白川線(旧西神戸有料道路)の植え込みに「史跡 鵯越の碑」が建っています。
史跡 鵯越の碑(南門付近)
源平合戦のときに、このあたりから義経が一の谷へ攻め入ったと伝えられています。また、墓園内の高尾地蔵院境内には、義経が鵯越進軍の途中ここで休憩し、境内の松に馬をつないだと言われる「義経 馬つなぎの松跡」があります。今は枯れてしまって根の部分しか残っていませんが、「義経馬つなぎ之松」の案内板が建っています。
馬つなぎの松(高尾地蔵院境内)
さらに、風化した岩が複雑な形となって、数匹の大蛙と多くの小蛙のように見える奇勝「蛙岩(かえるいわ)」があり、義経が平家を攻めた「鵯越から西進し坂落し」の場所が、須磨の一の谷でなく、この蛙岩という説もあります。
蛙岩(新芝生地区)
鵯越墓園の史跡は、次の4つがあります。詳細な場所や情報は、下記の地図及びリンクをご確認ください。
鵯越墓園管理事務所(南門)の北側山頂に、昭和7年12月に開眼式をおこなった大仏(高さ11.7m、鉄筋コンクリート製)と鐘楼(高さ10m)があります。
鵯越墓園南門付近の市道夢野白川線(旧西神戸有料道路)の植え込みに「史跡 鵯越の碑」が建っています。
園内墓参バス停留所「(21)新芝生北」の駐車場の南側から山へ入ったところにあります
園内墓参バス停留所「(17)鵯越合葬墓」と「(18)もくれん」の間で、高尾山(標高403.2メートル)の入口にあります。
バス道から上り坂へ入ると、高尾地蔵院の地蔵のそばに、馬つなぎの松の根の跡があります。松はすでに枯れたため伐採されて、根だけが残っています。
鵯越墓園の史料や文献は、神戸市文書館のホームページでご覧ください。
戦後の都市計画事業の一環として、在来の墓地とは違った新しい感覚を取り入れ、公園墓地の構想のもとに計画され、明石海峡が展望できる景勝の地、舞子ヶ浜の丘陵地に昭和26年に開設されました。墓園内には寺院墓地があり、浜手幹線整備等の戦災復興都市計画事業等による移転墓地などがあります。園内の敷地面積は41.5ha、うち墓碑を建てる区域は16.5haで、他は風致公園として市民憩いの場所となっています。墓所使用数は寺院墓地を除き約6,500区画あり、墓園付属施設として近代的なロッカー式納骨堂(328壇)が昭和34年10月から設置されています。
地域開発による人口増が予想される西神地域において、一般、芝生墓域、カスケード、噴水、レクリエーション広場も併設した公園墓地をめざし、昭和58年に着工、平成2年4月に開設し、平成2年度から13年度まで新規募集をおこないました。
市内中央部山手の住宅地に接した山麓部に位置し、神戸市の象徴というべき錨山に通じており、城ヶ口墓地を移転するために大正10年に神戸区(当時)が創設し、昭和23年に神戸区から引き継ぎました。面積は4.3haで墓所使用数は約3,000区画です。
昭和13年7月に阪神大水害を受け現在の公園様式に復旧され、小橋が多いのが特色です。昭和42年7月の集中豪雨により再度被害を受け、原形どおり復旧して今日にいたっています。