こうべキッズ百科:交通(港)

最終更新日:2019年11月1日

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神戸港(こうべこう)

神戸(こうべ)の港(みなと)は、奈良時代(ならじだい)には「大輪田泊(おおわだのとまり)」とよばれ、この港からでた船(ふね)は、中国(ちゅうごく)などの国(くに)と行(い)き来(き)していました。
800年(ねん)以上(いじょう)も前(まえ)の平安時代(へいあんじだい)には、平清盛(たいらのきよもり)が、今(いま)のポートアイランドのような人工島(じんこうしま)・「経が島(きょうがしま)」をつくって、現在(げんざい)の神戸港(こうべこう)の基礎(きそ)を築(きず)くなど、古(ふる)い歴史(れきし)をもっている港です。

その後(ご)、大輪田泊は、鎌倉時代(かまくらじだい)になると「兵庫(ひょうご)の津(つ)」とよばれるようになりました。

そして、1868年1月1日(慶応(けいおう)3年12月7日)に「兵庫港(ひょうごこう)」として開港(かいこう)してからは、近代的(きんだいてき)な港としての一歩(いっぽ)をふみだしました。

開港のとき、兵庫の津は湊川(みなとがわ)より西(にし)を「兵庫港」、それより東(ひがし)を「神戸港」とし、外国船(がいこくせん)は神戸港のほうを利用(りよう)していました。1892年(明治(めいじ)25年)からは、ふたつの港をいっしょにして、「神戸港」とよぶようになりました。そして、日本(にほん)を代表(だいひょう)する貿易港(ぼうえきこう)として発展(はってん)してきました。
昭和(しょうわ)40年代(ねんだい)ころからは、海上(かいじょう)コンテナ輸送(ゆそう)にも対応(たいおう)できるように、港の整備(せいび)もおこなってきました。

また、それだけでなく、クルーズ客船(きゃくせん)の発着(はっちゃく)するポートターミナルや中突堤(なかとってい)、バナナやパイナップルなどをあつかう兵庫ふ頭(ひょうごふとう)などもあり、神戸と日本の各地(かくち)とを結(むす)びつける役目(やくめ)もはたしています。

1995年(平成(へいせい)7年)の阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)では、ほとんどすべての港の施設(しせつ)が大(おお)きな被害(ひがい)を受(う)けました。
しかし、1997年(平成9年)3月末(まつ)には、神戸港のおもな施設はもとに戻(もどる)ことができました。震災(しんさい)をのりこえた神戸港は、2010年8月に、東アジアの拠点(きょてん)となる港をめざす国の「国際(こくさい)コンテナ戦略(せんりゃく)港湾(こうわん)」に、阪神港(はんしんこう)(神戸港と大阪港(おおさかこう))として選(えら)ばれました。
これにより、神戸港(こうべこう)は、西日本各地(にしにほんかくち)から貨物(かもつ)をあつめ、海外(かいがい)の目的地(もくてきち)へ運(はこ)ぶ「集貨(しゅうか)」、神戸港の近(ちか)くに物流倉庫(ぶつりゅうそうこ)や流通加工(りゅうつうかこう)センターなどの施設(しせつ)を整備(せいび)することを支援(しえん)する「創貨(そうか)」、大型化(おおがたか)するコンテナ船(せん)に対応(たいおう)できるように、水深(すいしん)を深(ふか)くした地震(じしん)に強(つよ)い岸壁(がんぺき)や荷役効率(にやくこうりつ)の高(たか)いスーパーガントリークレーンをつくる「競争力(きょうそうりょく)の強化(きょうか)」に取(と)りくんでいます。
そして、これまでよりもたくさんの人(ひと)や物(もの)があつまり、そして北(きた)アメリカやヨーロッパをはじめとした世界各地(せかいかくち)へと運(はこ)んでいく国際貿易港(こくさいぼうえきこう)をめざしています。

神戸港全景

コンテナターミナル

神戸港

兵庫港(ひょうごこう)

神戸の港(みなと)は、奈良時代(ならじだい)には「大輪田泊(おおわだのとまり)」とよばれ、むかしからこのあたりに知(し)れわたった有名(ゆうめい)な港でした。

ところが、そのころの「大輪田泊」は風(かぜ)をふせぐことができなかったために、船(ふね)をとめておくなど、安心(あんしん)して使(つか)うことができませんでした。
そこで、平安時代(へいあんじだい)に平清盛(たいらのきよもり)が波(なみ)や風をさえぎるための防波堤(ぼうはてい)のかわりに、「経が島(きょうがしま)」という埋(う)め立(た)て地(ち)をつくりました。

「経が島」は甲子園球場(こうしえんきゅうじょう)が7~9つ入(はい)るほどの大(おお)きさだったといわれています。
そのご、大輪田泊は、鎌倉時代(かまくらじだい)になると「兵庫の津(ひょうごのつ)」とよばれるようになりました。

そして、1868年1月1日(慶応(けいおう)3年12月7日)に「兵庫港(ひょうごこう)」として開港(かいこう)してからは、近代的(きんだいてき)な港(みなと)としての一歩(いっぽ)をふみだしました。
開港のとき、兵庫の津は湊川(みなとがわ)より西(にし)は「兵庫港」、それより東(ひがし)が「神戸港(こうべこう)」とされました。
海外(かいがい)との貿易(ぼうえき)がはじまり、兵庫港は港の整備(せいび)のため、運上所(うんじょうしょ)(税関(ぜいかん))や倉庫(そうこ)を建(た)てたり、波止場(はとば)を改修(かいしゅう)したりしました。

1892年(明治(めいじ)25年)からは、ふたつの港をいっしょにして、「神戸港」とよぶようにしました。そして、日本(にほん)を代表(だいひょう)する貿易港(ぼうえきこう)として発展(はってん)してきました。

和田岬

兵庫の港に入る船にとって、潮(しお)の流(なが)れが速(はや)く風(かぜ)の強(つよ)い和田岬(わだみさき)は危険(きけん)な場所(ばしょ)でした。須磨(すま)の海岸(かいがん)ぞいに西(にし)から兵庫の港に入るためには、和田岬をぐるりと回(まわ)らなければならず、多(おお)くの船が沈(しず)んだり壊(こわ)れたりし、たくさんの人(ひと)が命(いのち)を落(お)としました。

そこで、1874年(明治(めいじ)7年)、当時(とうじ)の兵庫区長(ひょうごくちょう)の神田兵右衛門(こうだひょうえもん)らが、和田岬をとおらずに、岬(みさき)の西がわから直接(ちょくせつ)兵庫の港へ船が入れるような運河(うんが)をつくることを計画(けいかく)し、工事(こうじ)にとりかかりました。
運河とは、人工的(じんこうてき)に切(き)り開(ひら)いてつくられた水路(すいろ)のことです。
この大工事(だいこうじ)は、最初(さいしょ)の計画どおりにはいきませんでしたが、1876年(明治9年)に半円形(はんえんけい)の運河が完成(かんせい)しました。これが「新川運河(しんかわうんが)」で、運河にとりかこまれているところは、現在(げんざい)は「中之島(なかのしま)」とよばれています。
この運河ができたことで、和田岬を回るときに天気(てんき)が悪(わる)くても、船が避難(ひなん)できるようになりました。
和田岬を回らなくてもよいような運河をつくる計画はさらに引(ひ)きつがれます。
はじめの計画をやりとげようと、八尾善四郎(やおぜんしろう)らによって「兵庫運河(ひょうごうんが)株式会社(かぶしきがいしゃ)」が作られたのが、1893年(明治26年)のことです。

ところが、運河ができることで、海水(かいすい)が入ってきて作物(さくもつ)がつくれなくなったり、井戸水(いどみず)がかれてしまったりすることを心配(しんぱい)した、地元(じもと)の人たちの反対意見(はんたいいけん)がありました。
そのうえ、運河の建設(けんせつ)には、予想(よそう)いじょうの労力(ろうりょく)と費用(ひよう)がかかったため、最後(さいご)まで工事にかかわったのは、八尾善四郎だけになりました。

東尻池(ひがししりいけ)と、すでにできている「新川運河」とをむすぶ、のべ約(やく)2.5キロメートルにもおよぶわが国最大(さいだい)の運河「兵庫運河」の工事は、1896年(明治29年)に始(はじ)まり、ほぼ3年をかけて1899年(明治(めいじ)32年)にようやく完成(かんせい)しました。工事のために削(けず)った土(つち)や砂(すな)を埋め立ててできたのが「苅藻島(かるもじま)」です。

ながい年月(ねんげつ)と多くの人の苦労(くろう)のすえに、やっとできた兵庫運河により、船の交通(こうつう)が便利(べんり)になりました。さらに、その後(ご)新(あたら)しい施設(しせつ)ができたことで、運河の周辺(しゅへん)に工場(こうじょう)や倉庫(そうこ)が建(た)ち並(なら)び、この地域(ちいき)の発展(はってん)にも大きくつながることになりました。

和田岬

兵庫区(ひょうごく)の南(みなみ)に位置(いち)する和田岬一帯(いったい)は、今(いま)はおもに造船(ぞうせん)・電機(でんき)などの工業地帯(こうぎょうちたい)になっています。この辺(あた)りは、奈良時代(ならじだい)から大輪田泊や、兵庫の津とよばれ、瀬戸内海(せとないかい)を行(い)き来(き)する船(ふね)の出入(でいり)でにぎわっていました。
それは、六甲山系(ろっこうさんけい)で北西(ほくせい)の風(かぜ)が、和田岬で南西(なんせい)の風がそれぞれさえぎられるなど、船(ふね)がとまるのに適(てき)したいろいろな条件(じょうけん)が揃(そろ)っていたからです。

今(いま)からおよそ800年前(ねんまえ)には、平清盛(たいらのきよもり)が京都(きょうと)から神戸の福原(ふくはら)に都(みやこ)をうつして、大輪田泊を修理(しゅうり)して、「経が島(きょうがしま)」とよばれる人工島(じんこうじま)をつくりました。

1862年(文久(ぶんきゅう)2年)には、この辺(あた)りの海(うみ)を守(まも)るために「和田岬砲台(わだみさきほうだい)」がつくられ、明治時代(めいじじだい)には灯台(とうだい)も完成(かんせい)しています。

また、和田岬は松林(まつばやし)も美(うつく)しく、歌(うた)などにもよく詠(よ)まれています。

和田(輪田(わだ))という地名(ちめい)は、海岸線(かいがんせん)が弓(ゆみ)のように曲(ま)がっているところから、名(な)づけられたといわれています。

神田兵右衛門(こうだひょうえもん)

昔(むかし)から、須磨(すま)の海岸(かいがん)ぞいに西(にし)から兵庫の(みなと)に入(はい)るのは大変(たいへん)なことでした。
和田岬(わだみさき)をぐるりと回(まわ)らなければならない上(うえ)に、潮(しお)の流(なが)れが早(はや)く、海(うみ)が溢(あふ)れたときに避難(ひなん)する場所(ばしょ)もないので、とても危険(きけん)でした。

1871年(明治4年)には、580隻(せき)もの船(ふね)が沈(しず)んだり壊(こわ)れたりし、多(おお)くの人が命(いのち)をおとしました。

当時(とうじ)の兵庫区長(ひょうごくちょう)、神田兵右衛門(こうだひょうえもん)は「新川社(しんかわしゃ)」という会社(かいしゃ)をつくり、江戸時代(えどじだい)からの念願(ねんがん)だった、和田岬の西(にし)がわから兵庫港(ひょうごこう)までの内陸(ないりく)に、運河(うんが)をとおす計画(けいかく)をたてました。
そして、1874年(明治7年)から、工事に取(と)りかかりました。

この大工事(だいこうじ)はなかなか進(すす)まず、神田は自分(じぶん)の財産(ざいさん)を投(な)げ打(う)って、2年がかりで、やっと1876年(明治9年)に、はじめの計画の一部(いちぶ)を完成(かんせい)させました。

それが「新川運河(しんかわうんが)」で、今の中央卸売市場(ちゅうおうおろしうりしじょう)がある中之島(なかのしま)の周(まわ)りをぐるりと回(まわ)る、半月(はんげつ)の形(かたち)をした運河です。

新川運河ができたことで、天気(てんき)が悪(わる)いときでも船(ふね)をとめておけるようになり、よろこばれました。

神田兵右衛門はもともと今(いま)の姫路市(ひめじし)で生(う)まれました。そして、兵庫の大商人(だいしょうにん)の神田家(こうだけ)の養子(ようし)になりました。
新川運河以外(いがい)にも、日本に学校制度(がっこうせいど)ができる前(まえ)に、明親館(めいしんかん)(のちの明親小学校(しょうがっこう))という近代的(きんだいてき)な学校(がっこう)をつくりました。

初代(しょだい)の神戸市会議長(こうべしかいぎちょう)となるなど、神戸市の発展(はってん)に長年(ながねん)つくしたということで、亡(な)くなったときには、神戸市ではじめての市葬(しそう)(市長(しちょう)の名前(なまえ)でおこなうお葬式(そうしき))がおこなわれました。

八尾善四郎(やおぜんしろう)

八尾善四郎(やおぜんしろう)は、1899年(明治(めいじ)32年)に完成(かんせい)した兵庫運河(ひょうごうんが)をつくるのに尽(つ)くした人(ひと)のひとりです。
淡路島(あわじしま)の津名郡(つなぐん)に生(う)まれ、5才(さい)さいのときに兵庫西尻池(ひょうごにししりいけ)にきました。
魚(さかな)の問屋(とんや)や国内(こくない)の貿易(ぼうえき)などで財産(ざいさん)をつくりました。

八尾は、兵庫運河をつくるために、まず仲間(なかま)たちと「兵庫運河株式会社(かぶしきがいしゃ)」をつくりました。
そして、神田兵右衛門(こうだひょうえもん)らの苦労(くろう)のすえに、すでにできていた新川運河と東尻池(ひがししりいけ)の海岸(かいがん)を結(むす)ぶ計画(けいかく)をたてました。
ところが、地主(じぬし)たちの反対(はんたい)にあい、途中(とちゅう)で計画(けいかく)が変(か)わってしまうなどの大(おお)きな問題(もんだい)がつぎつぎに起(お)こりました。最初(さいしょ)の仲間(なかま)たちはやめていってしまい、最後(さいご)は自分(じぶん)の財産(ざいさん)のほとんどを投(な)げ打(う)って、八尾善四郎ひとりで、はじめの計画どおりの兵庫運河を完成(かんせい)させました。

兵庫運河は、全部(ぜんぶ)で約(やく)25キロメートルにもおよぶ長(なが)さになり、このときに削(けず)った土(つち)や砂(すな)で、海(うみ)の近(ちか)くの浅(あさ)いところを埋(う)め立(た)ててできたのが苅藻島(かるもじま)です。

この運河が完成してからは、兵庫の港に出入(でい)りする船(ふね)がふえました。
避難(ひなん)する場所(ばしょ)ができただけでなく、この運河を利用(りよう)する商工業者(しょうこうぎょうしゃ)などもふえ、地域全体(ちいきぜんたい)が発展(はってん)していくのにも繋(つな)がっていきました。

兵庫区(ひょうごく)の高松町(たかまつちょう)には八尾善四郎の銅像(どうぞう)が建(た)てられ、今(いま)も高松橋(たかまつばし)のたもとから、たくさんの人(ひと)の苦労(くろう)の末(すえ)にできた兵庫運河を見守(みまも)っています。

フェリーによる海上交通(かいじょうこうつう)

車(くるま)ごと乗(の)ることができる、カーフェリーという連絡船(れんらくせん)ができたのは1941年(昭和(しょうわ)16年)のことです。
1968年(昭和43年)に、日本(にほん)で初(はじ)めて神戸と小倉(こくら)の間(あいだ)に航路(こうろ)ができました。

それ以来(いらい)、中距離(ちゅうきょり)や長距離(ちょうきょり)のフェリーが、たくさん瀬戸内海(せとないかい)をとおっています。

六甲(ろっこう)アイランドフェリーターミナルからは、九州(きゅうしゅう)の新門司(しんもじ)や、大分(おおいた)、そして四国(しこく)の新居浜(にいはま)へいくフェリーが発着(はっちゃく)しています。
新港第3突堤(しんこうだい3とってい)から高松(たかまつ)や小豆島(しょうどしま)の坂手港(さかてこう)、そして宮崎(みやざき)へ、また新港第4突堤からは、中国(ちゅうごく)の上海(しゃんはい)へいくフェリーが発着(はっちゃく)しています。