中央消防署の歴史

最終更新日:2021年6月7日

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神戸市中央消防署は、それまで中央区の東側を管轄していた神戸市葺合(ふきあい)消防署と、中央区の西側を管轄していた神戸市生田(いくた)消防署を統合し、平成12年4月に誕生しました。
そのため、中央消防署としての歴史は浅いものの、前身の葺合・生田消防署はとても長い歴史をもっています。
ところで、本市は日本で最初に公設の消防署が出来た都市のひとつであることをご存じでしょうか?
それまでは「火消」や「消防組」と呼ばれる非常備消防組織が対応していましたが、大正8年(1919年)、天皇勅令により特設消防署規程(大正8年勅令第350号)が制定され、それまで一足先に消防署が設置されていた東京市、大阪市に続き、京都市、神戸市、名古屋市、横浜市(6大都市)に、常設の「消防署」を置くことになりました。これが本市の消防署の始まりです。
最初は市内に「東消防署」と「西消防署」の2つの消防署が置かれ、このうち東消防署は今の中央区明石町(旧居留地)にありました。
当時は兵庫県の組織であったことから、「兵庫県〇〇消防署」と呼ばれていましたが、昭和23年(1948年)3月7日に消防組織法が施行され、消防業務は神戸市に移管されました。そこからは「神戸市〇〇消防署」と呼んでいます。
表紙
ここでは、本市に初めて消防署が設置される少し前、消防組が活躍していた時代から、現在の中央消防署に至るまでの歴史についてご紹介します。



 

消防組が活躍した創設期(明治~大正初期)

【廃藩置県の前後】昔の消火活動
この当時の神戸の消防は、民間の自治組織としての「私設消防組」と、県庁が組織する「官設消防組」の二つがあった。この二つの組織が、兵庫港(兵庫津)と神戸港、そして神戸の街中を守っていた。
はじめに誕生したのは私設消防組で、兵庫が開港したときに7組の消防組が組織された。官設消防組は、明治元年(1868年)に県庁庁舎と東西両運上所を守るために組織された。
(※運上所=貿易取り締まりや関税徴収を担当した官庁)


【明治6年(1873年)1月】
兵庫県は「両港消防規則」を制定し、これまでの私設・官設消防組を廃止。新たに1組あたり50人編成の消防組を、両港にそれぞれ5組ずつ、計10組を配置した。
また各組には1人ずつ小頭を置き、各組を統括する組頭を、兵庫港、神戸港にそれぞれ1人ずつ配置した。
神戸消防組の基礎はこの時に出来たといわれている。


【明治10年(1877年)】
これまで消防組は兵庫県庁消防掛官が指揮していたが、これを改正し、警察署に移管した。
これにより消防組は警察の指揮下となった。


【明治14年(1881年)4月】
消防組員の配置を改正し、神戸警察署管内に5組(125人)、兵庫警察署管内に5組(135人)とした。


【同年7月】
消防組員の配置を再度改正し、1組あたり25人編成とし、神戸警察署内に1組増設して合計11組となった。
このうち神戸警察署管内の1組を居留地の消防にあてた。


【明治22年(1889年)】
神戸が区制から市制となり、神戸市が誕生した。
同年10月、兵庫県は「火災消防規則」を制定し、神戸市は同年11月に「神戸市消防組二関スル細則」を策定。市内の消防組は神戸市長の所管になり、消防組の設置・維持管理責任はこれまでの兵庫県から神戸市が負うことと変更された。


【明治24年(1891年)4月】纏・半纏
前年に「火災消防規則」が廃止され、神戸市は独自に「神戸市火災消防規則」を制定し、同規則第1条には「神戸市ニ火災消防組ヲ公設シ、神戸市消防組ト称スル」と規定された。
消防組は頭取・副頭取を筆頭に、葺合分署管内に1組(一番組)、神戸警察署管内に3組(二番組、三番組、四番組)、兵庫分署管内に2組(五番組、六番組)の計6組が置かれ、組頭及び小頭が各組1人、一等消防夫が56人、二等消防夫が200人、合計270人が配置された。
この頃の消防組員は、58銭の半纏、18銭の頭巾、30銭の股引を着用し、井戸の水を水源として消火にあたったという。
なお、各消防組は本市消防掛官の指揮監督を受けるとされながらも、火災の現場においては警察官の指揮に従うものとするとされたことで、この二重構造が後に問題を引き起こすこととなる。
例えば「警察官の指示で管轄地区外の火災に出動した場合に、それにかかる費用は誰が負担すべきか」というようなことである。


【明治27年(1894年)2月】
内務省から勅令第15号「消防組規則」が発せられた。これは「消防組は原則として市町村の区域を単位とし、その設置や指揮監督は県がおこない、費用は市が負担する」という内容であり、これにより消防組の設置権が神戸市長から兵庫県知事に移った。このことから先の費用問題等は一応の解決をみることとなった。
なおこれに伴ない神戸市火災消防規則は廃止された。


【同年5月】
兵庫県は県令「消防組規則施行細則」を定め、神戸市はこれに基づき同年7月に「神戸市消防規則」を制定、市内の消防組を神戸消防組と兵庫消防組に区分した。
神戸消防組は、神戸警察署長の指揮下において宇治川以東を管轄とし、3つの部で編成された。
兵庫消防組は、兵庫警察署長の指揮下において宇治川以西を管轄とし、3つの部で編成された。


【明治29年(1896年)12月】
同年4月に戸場警察署が開設(それまでの兵庫分署が明治26年に戸場分署に改称、明治29年4月に警察署に昇格)したことに伴ない、兵庫消防組の区域は宇治川以西、湊川以東に改められ、それまでの3部編成が2部編成となった。
湊川以西については、新しく設けられた戸場消防組の管轄となり、戸場警察署長の指揮下において2つの部で編成された。


【明治32年(1899年)7月】
それまで私設であった居留地消防組を官設とし、居留地消防組を設置した。


【明治37年(1901年)1月1日】
消防組は「神戸消防組」、「相生橋消防組」、「兵庫消防組」の3組に再編された。
神戸消防組は4部編成とし、管轄区域は海岸から二番踏切筋を経て諏訪山下までの線以東。
相生橋消防組は3部編成とし、管轄区域は神戸消防組の区域以西、湊川以東。
兵庫消防組は3部編成とし、管轄区域は湊川以西となった。
各部とも25人の消防手で構成され、計10部250人が配置された。


【明治42年(1906年)】
各消防組内に消防分遣所が2か所ずつ設置された。また、兵庫消防組は4部編成となった。
この時期の消防体制は以下のような布陣であった。
 神戸消防組…器具置場5か所、望火台9か所、消防車8台、消防手100人
 相生橋消防組…器具置場4か所、望火台8か所、消防車6台、消防手74人
 兵庫消防組…器具置場4か所、望火台14か所、消防車8台、消防手74人


【大正元年(1912年)】
各消防組に消防分遣所が1か所ずつ増設された。


【大正6年(1917年)】
湊川警察署が新設され、同警察署内に湊川消防組が設置された。
湊川消防組は3部編成とし、分遣所2か所、組員67人で編成された。これに伴ない兵庫消防組は4部編成から3部編成に縮小された。
この時期の消防体制は以下のような布陣であった。
 神戸消防組…4部編成、分遣所3か所(中山手三丁目、小野柄、熊内)、組員89人
 相生橋消防組…3部編成、分遣所2か所(中山手六丁目、相生橋)、組員67人
 湊川消防組…3部編成、分遣所2か所(楠、御崎)、組員67人
 兵庫消防組…3部編成、分遣所2か所(大開、港町)、組員67人


【大正7年(1918年)1月】
神戸警察署が三宮警察署に改称され、神戸消防組も三宮消防組に改称された。


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消防署開設と波乱万丈期(大正中期~終戦)

【大正8年(1919年)7月20日】
勅令第350号「特設消防署規程」が公布施行されたことにより、消防体制は大きく変化することとなる。
これまでは兵庫県が設置・維持管理し、警察署の指揮下において活動していた消防組は、すべて兵庫県に移管されることとなった。これにより警察署の指揮下からは独立した消防組織が誕生した。
(特設消防署規程は、大阪市に4署、京都・神戸・名古屋・横浜に各2署の消防署を置くように定めた。)
東消防署
同規程により、市内には「東消防署」と「西消防署」が開設された。同時に公設消防組は廃止され、義勇消防として東西いずれかの消防署の所属となった。このとき大半の組員は、兵庫県の消防手を拝命した。
東・西消防署の管轄区域は、「奥平野獺川より宇治川に至って鉄道踏切を超えて元町6丁目、相生橋1丁目電車筋より弁天浜に至る線」(現在の宇治川~メルカロード~ハーバーロードにあたる)を境に東西に分割し、それぞれ東側を東消防署、西側を西消防署の管轄とした。
この当時はまだ〇〇区などの行政区はなく、後に葺合区・生田区になる場所は、共にほぼ東消防署の管轄であった。
当初、東消防署は三宮警察署構内に仮庁舎を設置して消防業務を開始したが、翌大正9年11月10日に本庁舎(神戸市明石町34番)が完成。同月30日から本庁舎にて消防業務を開始した。
(当時あった場所は、現在の中央区前町にあるNTT西日本新神戸ビル東側の広場部分のあたり。)
なお、望火台がなかったことから、北隣の明治海運株式会社のビル屋上を望火台として借用していた。
職員数は署長消防士1人、署僚消防士1人、消防機関士1人、消防曹長4人、消防手34人、常備消防員16人で、消防手以上は消防官吏として判任官待遇、常備消防員は分遣所における補助業務に携わっていた。
(当時の消防吏員の階級は、下から順に消防手・消防曹長・消防機関士・消防士だった。その前後でも何度か改定があったが、1962年以降は現在の消防士・消防士長・消防司令補・消防司令・消防司令長・消防監・消防正監・消防司監となっている。)

また、併せて以下の分遣所が開設された。
「中山手三丁目分遣所」(中山手通3丁目)
 (当時あった場所は詳細不明)
「中山手六丁目分遣所」(中山手通6丁目)
 (当時あった場所は、現在の中央区中山手通6丁目9番(神戸中華同文学校)南側路上あたり。)
「小野柄分遣所」(小野柄通1丁目)
 (当時あった場所は、現在の中央区小野柄通1丁目2番(コメット保育園)のあたり。)
「熊内分遣所」(熊内橋通7丁目)
 (当時あった場所は詳細不明)

この時点の現・中央区エリアを管轄する消防署
東消防署 中山手三丁目分遣所 中山手六丁目分遣所 小野柄分遣所 熊内分遣所



【大正9年(1920年)8月20日】
東消防署に「葺合出張所」(大日通1丁目1番、葺合警察署構内)が開設された。
(当時あった場所は、現在の中央区大日通1丁目2番(県営住宅大日高層団地)のあたり。)


【大正12年(1921年)9月】
東消防署に「楠分遣所」(楠町7丁目)が開設された。
ここはもともと西消防署の管轄であったが、東消防署管内の拡張に伴ない同署に移管された。
(当時あった場所は、現在の兵庫区下祇園町40番(神戸少年鑑別所)のあたり。)


【昭和4年(1929年)】
神戸市は東部三ヵ町村と合併し、西郷・西灘・六甲の3つの消防組を東消防署に所属させた。


【昭和6年(1931年)3月30日】
東消防署に「西灘出張所」(灘南通3丁目)が開設された。
この時点の職員数は署長消防士1人、署僚消防士1人、消防機関士1人、消防曹長9人、消防手68人、常備消防員20人の計100人。また、義勇消防の消防手は515人が所属していた。

この時点の現・中央区エリアを管轄する消防署
東消防署 葺合出張所 西灘出張所 中山手分遣所 相生橋分遣所
小野柄分遣所 熊内分遣所 楠分遣所  

中山手六丁目または中山手三丁目分遣所がなくなり、代わりに相生橋分遣所が所属している。これについては、六丁目と三丁目のどちらの分遣所が無くなったのか等、詳細な資料がなく経緯不明である。ただし、相生橋分遣所は大正2年6月に相生橋警察署構内(現在の神戸市中央区相生町1丁目3番4号のあたり)に設置され、相生橋消防組が常駐していたうえ、大正8年の東消防署開署と同時に同署所属になったと記された文献もあり。


【同年9月1日】
神戸市に行政区制がしかれたことにより、葺合区が発足。この当時、生田区はまだなかった。
(市内は灘区、葺合区、神戸区、湊東区、湊区、湊西区、林田区、須磨区の8区が設けられた。)
※湊西区は昭和8年(1933年)1月1日に兵庫区に改称された。
六甲出張所

【昭和13年(1938年)3月31日】
東消防署に「六甲出張所」(灘区森後町1丁目1番2号)が開設された。
(右写真)
同時に東消防署「相生橋分遣所」と「楠分遣所」を閉鎖。


【昭和15年(1940年)12月16日】
東消防署は「京橋消防署」、西消防署は「松原消防署」に改称。
併せて「西灘消防署」と「板宿消防署」が開設され、西灘・京橋・松原・板宿の市内4署体制となる。
京橋消防署西灘出張所、葺合出張所、六甲出張所、熊内分遣所は西灘消防署に移管された。
※この段階で西灘消防署は庁舎が建設されておらず、生田区・葺合区共に京橋消防署の管轄のままとなる。

この時点の現・中央区エリアを管轄する消防署
京橋消防署 中山手分遣所 小野柄分遣所  
西灘消防署(西灘出張所) 葺合出張所 六甲出張所 熊内分遣所


西灘消防署
【昭和17年(1942年)3月】
西灘消防署(灘区上野通4丁目12番)の新庁舎落成に伴ない、葺合区は西灘消防署の管轄になる。(右写真)
(生田区は京橋消防署管轄のまま。)


【昭和19年(1944年)4月】
工場防衛のため、西灘消防署に以下の出張所および派出所が開設された。
「中央ゴム出張所」(筒井通1丁目)
「川崎重工製板派出所」(南本町通1丁目)
「日本エヤーブレーキ出張所」(脇浜町3丁目)
「神戸製鋼派出所」(脇浜町2丁目)


【昭和20年(1945年)5月1日】
戦局が終わりに近づくにつれ、本土空襲が激化していたこの時期、神戸市は戦災による人口減少などに対応するため、市内を8区から6区に再編した。湊東区の一部が神戸区に編入され生田区に改称、林田区が長田区に改称され、湊区と湊東区の一部が兵庫区に編入された。
(市内は灘区、葺合区、生田区、兵庫区、長田区、須磨区の6区となる。)
また、警察が一区一警察署体制に再編成されたことを機に、消防体制も一区一消防署に再編成されることとなった。これにより、西灘消防署は「灘消防署」、京橋消防署は「生田消防署」、松原消防署は「兵庫消防署」、板宿消防署は「須磨消防署」に改称。
併せて「葺合消防署」(もと京橋消防署生田川出張所を使用)と「長田消防署」(もと板宿消防署大橋出張所を使用)が開設され、灘・葺合・生田・兵庫・長田・須磨の市内6署体制となる。
※京橋消防署生田川出張所が開設された時期や場所の詳細は不明。


【同年5月11日及び6月5日】
空襲により市の東半分が焦土と化し、市街地のおよそ61%と家屋の64%が焼失、疎開により人口は激減した。


【同年6月】
戦局の悪化を受け、消防体制が再編されることとなった。
これにより灘消防署は「神戸東大隊」に、生田消防署は「神戸中大隊」に、長田消防署は「神戸西大隊」に改組され、神戸市内は東・中・西の3つの大隊による防空・消防活動を強いられることとなった。また葺合消防署は「伊丹大隊」に、兵庫消防署は「東播大隊」に、須磨消防署は「西播大隊」に再編され、各地に派遣された。
なお灘消防署は空襲により被災したため、神戸東大隊(葺合区、灘区及び武庫郡御影町、住吉町、魚崎町を管轄)は西灘小学校に仮設された。
併せて小野柄小学校内に葺合消防署「小野柄出張所」が開設(閉鎖時期は不明)され、同時に「中央ゴム出張所」、「川崎重工製板派出所」、「日本エヤーブレーキ出張所」、「神戸製鋼派出所」を閉鎖。


【同年8月】
終戦を迎えることとなる。
生田消防署(神戸中大隊)を兵庫区入江通4丁目の道場小学校に移転。(終戦前か終戦後かの詳細は不明)

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戦後復興から近代消防の時代へ(戦後~現在)

【昭和21年(1946年)2月】
神戸東大隊は「東消防署」、神戸中大隊は「中消防署」、神戸西大隊は「西消防署」と、消防署の組織に復帰することとなり、市内3署体制に変更。
中消防署は庁舎を兵庫区荒田町3丁目に移転。管轄区域は兵庫区及び生田区となり、これにより葺合区は東消防署(灘区上野通4丁目)の管轄、生田区は中消防署(兵庫区荒田町3丁目)の管轄となる。


【昭和22年(1947年)8月】
市内3署体制であったところ、中消防署は「兵庫消防署」に、西消防署は「須磨消防署」に改称し、「生田消防署」と「長田消防署」が開設された。
これにより東・生田・兵庫・長田・須磨の市内5署体制となる。
ただし生田消防署は庁舎がなく、生田区中山手通7丁目の生田警防団中山手詰所を借り受け仮庁舎として使用していた。
これにより、葺合区は東消防署の管轄、生田区は生田消防署の管轄となる。

山手出張所
【同年9月13日】
生田消防署を中突堤の連合軍消防隊兵舎に移転。
旧・生田消防署庁舎は「山手出張所」(生田区中山手通7丁目)として開設。(右写真)


【昭和23年(1948年)2月】
垂水消防署が設置される。
(垂水区は1946年に須磨区から分区する形で誕生。垂水消防署設置時点では神戸市の管轄ではなく兵庫県の管轄で、昭和23年3月7日に神戸市に移管。)


【同年3月7日 神戸市消防局発足】
消防組織法が施行され、「官設消防」から「自治体消防」となり、兵庫県から神戸市に消防業務が移管される。これにより神戸市消防局が発足した。
同時に兵庫県から垂水消防署の移管を受け、東・生田・兵庫・長田・須磨・垂水の市内6署体制となる。
※このときから、各消防署の名称は「神戸市〇〇消防署」となった。
神戸市消防局の職員数は、定員793人に対し、実数439人だった。
(発足当時の消防署所は以下の6署4出張所)
・東消防署(灘区上野通4丁目12番1号)
・東消防署六甲出張所(灘区森後町1丁目1番2号)
・生田消防署(生田区中突堤 連合軍消防隊兵舎の一部)
・生田消防署山手出張所(生田区下山手通7丁目83番)
・兵庫消防署(兵庫区荒田町3丁目214番2号)
・兵庫消防署東川崎出張所(生田区東川崎町5丁目15番1号 川崎小学校校庭)
・長田消防署(長田区大橋町2丁目6番)
・須磨消防署(須磨区鷹取町1丁目4番3号)
・須磨消防署離宮道出張所(須磨区行幸町4丁目22番)
・垂水消防署(垂水区西垂水町海岸通2163号の1)

この時点で現・中央区エリアを管轄する消防署
東消防署 六甲出張所
生田消防署 山手出張所


生田消防署
【同年5月8日】
旧・東消防署跡(生田区明石町34番)に生田消防署庁舎を移転。(右写真)


【昭和25年(1950年)4月1日】
生田消防署に水上消防隊を設置。中突堤の旧・生田消防署を使用して「水上消防分署」を開設し、業務開始。葺合消防署
(水上消防隊の管轄区域は神戸港一円)


【同年10月9日】
葺合消防署(葺合区北本町通5丁目)が開設される。(右写真)
これにより、葺合区は葺合消防署の管轄、生田区は生田消防署の管轄となる。


小野浜出張所
【昭和27年(1952年)10月1日】
葺合消防署「小野浜出張所」(葺合区小野浜町1番5号)が開設される。(右写真)


【昭和31年(1956年)4月30日】
生田消防署「京橋出張所」(生田区新港町第一突堤)が開設される。
水上消防隊も京橋出張所に包含され業務を開始。


【昭和32年(1957年)5月31日】
生田消防署「京橋出張所」を閉鎖。


【同年6月28日】消防艇
生田消防署「水上消防分署」(生田区波止場町2中突堤)が開設される。(右写真の消防艇を含む2艇を配備)

この時点で現・中央区エリアを管轄する消防署
葺合消防署 小野浜出張所  
生田消防署 水上消防分署 山手出張所



【昭和34年(1959年)5月1日】
生田消防署「水上消防分署」が神戸市水上消防署に昇格し独立。


【同年12月25日】野崎出張所
葺合消防署「野崎出張所」(葺合区野崎通7丁目6番1号)が開設される。(右写真)
同日「小野浜出張所」を閉鎖。

この時点で現・中央区エリアを管轄する消防署
葺合消防署 野崎出張所
生田消防署 山手出張所



【昭和42年(1967年)4月】
生田消防署「山手出張所」の増改築のため、生田区役所で業務を開始。山手出張所-2


【同年9月12日】
生田消防署「山手出張所」を生田区下山手通7丁目14番2号に新築移転。(右写真)



葺合消防署-3

【昭和44年(1969年)8月30日】
「葺合消防署」を葺合区吾妻通2丁目(市営葺合住宅と併設)に新築移転。(右写真)



生田消防署-2
【昭和48年(1973年)3月24日】
「生田消防署」を生田区中山手通2丁目に新築移転。(右写真)


【昭和55年(1980年)12月1日】
葺合区と生田区が合併し、「中央区」が発足。
消防署は引き続き生田消防署、葺合消防署で業務を継続。


【昭和61年(1986年)10月】
灘消防署青谷橋出張所の開設に伴ない、葺合消防署「野崎出張所」を閉鎖。


【平成4年(1992年)12月7日】栄町出張所
生田消防署「栄町出張所」(中央区栄町通7丁目1番6号)が開設される。(右写真)
生田消防署「山手出張所」を閉鎖。

この時点で中央区を管轄する消防署
葺合消防署  
生田消防署 栄町出張所



【平成7年(1995年)1月17日午前5時46分 阪神淡路大震災発生】
生田消防署庁舎が半壊。葺合消防署も損壊。
消防業務遂行が困難になったため、生田消防署は「栄町出張所」に移転。
同じく葺合消防署は「大阪ガス兵庫供給部跡事務所」に移転。

葺合消防署-4

【同年3月16日】
「葺合消防署」を中央区熊内町7丁目6番5号の応急仮設庁舎へ移転。(右写真)



【同年8月10日】生田消防署-3
「生田消防署」を中央区下山手通7丁目1番7号(下山手小学校跡地)の応急仮設庁舎へ移転。(右写真)


【平成9年(1997年)4月1日】
旧・葺合消防署を「葺合消防署第二庁舎」(中央区吾妻通2丁目2番5号)として運用開始。

中央本署
【平成12年(2000年)4月1日】
葺合消防署と生田消防署を統合し、「中央消防署」(中央区小野柄通2丁目)が開設される。(右写真)
旧・生田消防署仮設庁舎が、中央消防署「山手出張所」(中央区下山手通7丁目1番7号)として開設される。


【平成19年(2007年)8月24日】
「中央消防署第二庁舎」(旧:葺合消防署第二庁舎)を廃止。

山手出張所-3
【平成23年(2011年)3月17日】
中央消防署「山手出張所」を中央区下山手通7丁目に新築移転し、現在に至る。(右写真)

現時点で中央区を管轄する消防署
中央消防署 栄町出張所 山手出張所



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(番外編)神戸消防のはじまり

(昭和49年作成「葺合消防署沿革誌」より。)

●消防の発祥消防の発祥
一.大名火消の概要
 わが国における最初の消防は、一般的には三代将軍家光の時代である寛永6年(1629年)に将軍の命令書(奉書)によって非常招集される大名の消防隊(奉書火消)といわれている。
 しかし、奉書火消の組織が確立するのは、それから10年後の寛永16年10月で、江戸城本丸が焼失したのち、幕府は小さな大名六家を専門の奉書火消に任じた。幕府職制の中で、そしてわが国消防の歴史の中で、初めて専門の火消役(消防隊)が生まれたのである。
 その後、寛永10年(1643年)に至って幕府は六万石以下の大名十六家に対し命じて大名火消とした。この大名火消は、前述の奉書火消よりはるかに組織化されたものであった。
 外国で古いといわれているロンドン消防隊が編成されたのは1666年のロンドン大火の折であるから、わが国の奉書火消は世界で最初の消防隊ということができる。
 また、幕府は万治元年(1659年)の江戸の治安を目的として幕府直轄の常備消防隊として四千石以上の旗本を起用して常火消四隊を編成した。いわゆる旗本火消である。
 このように組織を充実したが、相かわらず火災が頻々として起こるため、さらに大名火消を強化していった。そして享保2年(1717年)幕府八代の吉宗は、すべての大名に自営の火消組を作ることを命じ、禄高に応じて屋敷を中心にして周辺の火災にも出動させるようになった。

二.町火消の誕生とその概要
 前述の大名や旗本等による武家火消は、いろいろな形をとりながら幕末まで続くのであるが、武家火消はあくまでも江戸城や大名、旗本屋敷をまもるのが目的であったため、八代吉宗は江戸の町を火災からまもるため町火消の組織化を南町奉行大岡忠相に命じ、同奉行はとび職や大工等を糾合して町火消いろは四八組を組織化した。寛保4年(1719年)のことである。はじめての自治消防である。
 このとき町火消にも纏(まとい)の制度ができたが、指揮はもっぱら奉行所の与力、同心があたった。
 その後、寛保15年(1730年)いろは四八組を改革して一番組より十番組などにしたが、組頭をとび職から任用するなど、町火消は次第に武士支配から脱却していった。

●神戸消防のはじまり
 神戸(兵庫津)においては、寛保7年(1722年)12月、つまり江戸に町火消制度ができて五年後に、名主喜左衛門、及び彦太郎の二名と、兵庫津の北浜惣代右助の三人が火消役人となって、各町から火消道具や人足を出させて、自治消防の制度を設けたという記録が残っている。
 のち、明和6年(1769年)兵庫、神戸は幕府の直轄地となり大坂町奉行の支配下に入った。以後紆余曲折があったと思われるが、幕末に至るまで消防に関する記録のうち特筆すべきものは少ない。
 幕末に至り、慶応3年(1867年)12月、町民で構成された消防組が、兵庫(旧兵庫津)、神戸福原、宇治野(宇治川)、糸木(長田)の各村に計七組が組織され、そのまま明治維新を迎えた。
 明治初頭、神戸周辺には消防機関として、前述の七つの消防組があったが、これに加えて兵庫裁判所(県庁)や東西運上所の防火のため、一組の官設消防を編成し、町民から頭取を任命した。
 以降徐々に人員、器材は充実されていったが、明治6年1月、兵庫県は兵庫・神戸消防規則を制定し、従来の官・私設の消防組を廃して、新たに兵庫港、神戸港に五組宛、計十組(一組の人員50名)の消防隊を編成した。同時に五ヵ所の望火台を設け、消防器具を購入して、それらの修繕費を県から下附することを定めたが、火災時の入費は町民から徴収することにした。
 そして明治10年2月、県は消防出初式の制を定めたが、同年3月、従来県庁掛官の指揮下にあった消防事務を警察署の管轄に移した。

●消防の変遷
一.消防署の設置
 明治以来、警察の一部門として近代化の遅れていた消防事務も、大正8年勅令をもって公布された「特設消防署規程」により、ようやく専門化の道を歩むことになった。
 神戸においては、市内に東西の二消防署が警察署から独立して新設されたが、とりあえず東消防署は三宮警察署、西消防署は湊川警察署に同居した。のち大正8年11月、松原通五丁目に西消防署、大正9年11月、明石町に東消防署の庁舎が新築され移転した。
 消防署は、その下部機構として消防出張所と消防分遣所を置いたが、開庁当時、東消防署には葺合出張所(葺合警察署構内)のほか、小野柄、熊内、中山手三丁目、中山手六丁目の四ヵ所に分遣所があった。

二.職員(消防官)の任命
 消防署の設置により、消防士、消防機関士、消防曹長、消防手などの消防官吏が任命され、これにより従来からの非常勤の消防組は義勇消防と呼ばれるようになった。
 大正8年9月現在の両消防署の定員は別図のとおりとなっており、消防士、消防機関士は警部と同格の判任官、消防曹長は巡査部長、消防手は巡査に相当し、ともに判任官待遇であった。
 なお、常備消防員は消防官ではないが、知事が任命する有給常勤の消防補助職員であり、このため消防手が巡査と同様の詰襟金ボタンの服装であるのに対し、常備消防員は義勇消防並みのはっぴ、腹掛け姿であった。
 消防官が短剣を佩用したのは昭和11年4月からで、それまでは剣付手斧を帯用した。

三.専用電話と報知器
 現在、消防、救急の119はすでに市民生活の中に定着しているが、火災専用電話を設置し、交換手に「火事」と伝えるのみで消防署の専用電話に無料で接続されるようになったのは、大正6年4月、警視庁が専用電話を設置したのが草分けである。
 また、街頭に初めて火災報知器が出現したのは大正9年東京日本橋と言われている。
 兵庫県では、昭和4年警察技師麻井与三吉、永野貞次の二人に火災報知機に関する実情調査をさせ、昭和7年5月神戸市内に百台の報知器を設置した。

別図 大正8年創設当初の東・西両消防署陣容(大正8年9月現在)

区分 東消防署 西消防署
署長消防士
署僚消防士
消防機関士
消防曹長
1人
1人
1人
4人
1人
1人
1人
4人

機関勤務
操船勤務
調馬勤務
放水勤務
ラッパ勤務
8人
2人

32人
2人
8人

2人
26人
2人
常備消防員 16人 20人
67人 65人
管下消防組の消防手 156人 134人


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(番外編))葺合消防署沿革誌

(昭和49年作成「葺合消防署沿革誌」より。現代語に一部修正。)

●葺合消防署の沿革沿革誌表紙
一.発祥
 葺合消防署の歴史は、大正八年特設消防署規程により、神戸市内の東及び西に、二消防署が設置されたとき、東消防署の管轄として大正九年葺合警察署構内に葺合出張所が設けられたことに始まると考えられる。
 そのほか、東消防署開庁時には、葺合出張所以外に、小野柄、熊内、中山手三丁目、中山手六丁目の四ケ所に分遣所があった。
 爾後、消防署の機構は、実情に応じてたびたび改正強化され、出張所、分遣所も移転改廃が相次いだ。

二.変遷
(1)戦前
 市勢の伸展に伴ない、昭和十五年十二月西灘、板宿の両出張所を消防署に昇格すると同時に、従来の東、西消防署をそれぞれ京橋、松原消防署と改称して四消防署となった。そして昭和十七年三月西灘消防署(灘区灘南通三丁目)の新庁舎落成に伴ない葺合区はその管轄に入った。
 次いで、太平洋戦争の戦況の深刻化に伴ない、工場群を防衛する必要から、次の工場に出張所、派出所を開設した。
 ア.中央ゴム出張所 筒井通一丁目
 イ.川崎重工製板派出所 南本町通一丁目
 ウ.日本エヤーブレーキ出張所 脇浜町三丁目
 エ.神戸製鋼派出所 脇浜町二丁目
その後、昭和二十年に至り、新たに防空消防上の要請により、板宿消防署を、長田、須磨消防署に分離し、さらに葺合消防署を新設して(庁舎は建設されていない)合計六消防署態勢で人員、器材とも拡充されたが、同年六月の空襲により、西灘消防庁舎が被災したため、葺合区、灘区及び武庫郡御影町、住吉町、魚崎町を管轄する消防大隊本部が西灘小学校に仮設された。同時に出張所、派出所を閉鎖したが空襲に対する地域防衛の必要から、小野柄小学校内に小野柄出張所を開設し、そのまま終戦を迎えた。

(2)戦後~自治体移管まで
 昭和十六年当時、百万人を超えていた神戸市の人口は、戦災とそ開等の流出により昭和二十年十一月には約三十八万人とおよそ3分の1に激減している。
 特に葺合区の被害は大きく戦災により、その約九割を焼失損壊し、昭和十五年、十二万四千人を数えた人口が、終戦時には一万八千人と約6分の1まで減少した。
 この人口地勢の衰退は必然的に消防機構にも影響をもたらし、昭和二十一年二月には東、中、西の三消防署に縮小され、葺合区は灘区及び武庫郡住吉、御影魚崎(当時)の三ヵ町村と共に兵庫県東消防署の管轄となった。
 その後、市勢の隆盛に伴ない消防体制にも若干の推移があったが、自治体消防移管直前の態勢は、灘、生田、兵庫、長田、須磨の各行政区ごとに区名を冠した消防署が設置されており、更に消防組織法施行前の昭和二十三年二月に垂水区に垂水消防署の設置が告示されたので、移管時には六消防署に消防官吏実員三四五名の陣容であった。
 しかしこの時点で葺合区には、消防署は開設されておらず当区は東消防署(灘区上野通四丁目)の管轄であった。

(3)神戸市消防局の開設
 昭和二十三年三月七日神戸市消防局発足
昭和二十三年三月消防組織法の施行に伴ない消防機構はそれまでの県警察の一部門から分離して市町村に移管され独立の行政機関として発足した。


(4)葺合消防署の開設
 昭和二十五年十月九日葺合消防署開設
 十月十六日庁舎落成式
 所在地 葺合区北本町通五丁目四番地
 社会情勢が安定し、葺合区内も徐々に復興してくるにつれ区内官公署は逐次新設、整備されてきた。これに伴ない、区内有志の間に消防署設置の機運がおこり、その設置請願書が市会に提出されてようやく実現した。(当時の葺合区人口 五四,〇二六人 葺合区あんないより)
ア.その後、地元港湾関係者、倉庫業者等に消防機関設置の要望があり小野浜出張所が開設された。
 開設 昭和二十七年十月十三日
 所在地 葺合区小野浜一の五番地(旧小野浜見張所)
イ.昭和三十四年五月、生田消防署水上分署が水上消防署に昇格して管轄区域が変更になり、また同年九月には灘消防署が将軍通りへ移転したこと、そして管内山麓地帯に民家が増加しつつあること等の諸事情から、小野浜出張所の閉鎖問題と山手地域の警備力強化の必要性があるため昭和三十四年十二月二十五日野崎出張所が開設された。
 所在地 葺合区野崎通七丁目六の一番地
 なお同日付をもって小野浜出張所は廃止された。

(5)本署庁舎の新築移転
 昭和二十五年十月に開設された本署庁舎はその老朽化が著しいため改修する必要に迫られた。そこで都市計画法に基づく市営葺合住宅と併設新築することに決定。
 着工 昭和四十三年六月十二日
 竣工 昭和四十四年八月三十一日
 業務開始 同年九月四日
 所在地 葺合区吾妻通二丁目十番地

(6)住居表示の変更
ア.昭和四十七年六月一日 住居表示に関する法律第三条第一項及び第二項の規程に基づき野崎出張所の所在地が次のとおり変更された。
 神戸市葺合区野崎通七丁目三番十三号
イ.昭和四十八年六月一日 本署所在地の表示が次のとおり変更された。
 神戸市葺合区吾妻通二丁目二番五号

三.中央区の発足
 昭和六年区制が実施されて以来長い伝統と文化を誇ってきた葺合区は、昭和五十五年十二月一日生田区と合併して新しく中央区として発足し、約五十年にわたる歴史の幕を閉じた。
 中央区の人口は、およそ一一五,〇〇〇人 面積二二,四キロ平方メートルで文字どおり神戸市の中央部に位置する。
 消防署は葺合、生田、水上の三署があり管轄区域はほぼ従前どおりである。


●小野浜出張所の開設小野浜沿革
 当署管内海岸線一帯は、神戸港として税関をはじめ小野浜貨物駅各種倉庫等、大建築物が櫛比するほか、大型船舶の出入頻繁にして、所謂神戸市の表玄関として最も重要なる地域である。
 したがって火急の場合本署との距離的関係を憂慮して、これにより消防機関の設置が要望されていたのであるが、幸いにして地元各倉庫業者間にその建設の機運がようやく高まり、旧小野浜見張所(葺合区小野浜町一の五番地)をそのまま消防出張所にして提供される事となり、これが建築物の改造修理には各関係者より多大の援助協力を寄せられ、昭和27年10月1日付をもって公布され、ここに小野浜出張所の開設をみた。
 設置年月日 昭和27年10月13日
 派遣人員 消防士長以下5名
 車両種別 消防ポンプ自動車1台
野崎沿革
●野崎出張所の沿革
 区内山麓地帯も次第に一般民家が増加し、加えて科学の発展は市民の生活様式を一変し、各種火気取扱も逐次複雑多岐に及び、このため消防機関の設置拡充について地元区民はもちろん、当局としても関係各方面に働きかけていたのである。予算の関係上その実現をみるに至らなかったが、ちょうどそのとき名田消防署の中央移転、当署小野浜出張所の閉鎖問題もあって、ついに区内山麓地帯の消防警備について出張所新築の機運はようやく昭和34年12月25日、神戸市葺合消防署野崎消防出張所は開設され、消防業務を開始した。なお、小野浜消防出張所は同日付をもって閉鎖した。

●葺合消防署本署庁舎の新築移転について葺合沿革
 現存の建物は終戦後、資材の不自由な時期に建設されたもので、屋根、壁体その他主要構造部の老朽化が甚だしく、早急に改修する必要が生じてきた。
 地元有志により消防署建設(再建)について関係先を東奔西走し、建設促進調査をしたところ、都市計画法に基づく市営葺合住宅と併設することに決定した。
 昭和42年、43年度にわたり建設予算化の実現をみた。

(以上)

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