地名あれこれ

最終更新日
2010年12月1日

垂水

「垂水」というのは「垂れ水」-「滝」ということで、東垂水から塩屋へ続く道路の北側に、水の滴りが絶えることがなかったところが、昭和になっても4か所 (駒捨の滝、琵琶の滝、恩地(おんぢ)の滝、白滝)あったとされています。今では跡形もありませんが、この滝が地名の由来になったものと推測されます。

万葉集にも「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる春に なりにけるかも」の歌があり、延喜式(927年)の中にも、垂水郷の名が見えます。

塩屋

「塩屋」という地名は、古代からここで塩がつくられていたことからきたのです。 鉢伏山頂上部の南面に、六世紀の古墳がありますが、この時代に製塩していた人達のものだろう-といわれています。

菅公橋

JR塩屋駅の東側で、国道2号が山陽本線を跨いでいます。この陸橋を「菅公橋」と呼んでいます。 平安時代初期の学者菅原道真が右大臣になりましたが、左大臣の藤原時平とうまくいかず、九州の大宰府(朝鮮や中国との外交機関)に左遷され、大阪から船でくだってきました。 神戸の和田岬で暴風に遭い、陸路にかえました。

この時代は、鉢伏山が海岸に突き出ていまして、海岸沿いの道はありませんでした。 西宮神社の吉井宮司が、万葉集の中から「荒磯越す 波をかしこみ 淡路島 見ずや過ぎなむここだ近きを」の歌を見つけ、古山陽道は、須磨から多井畑に回っていたことを明らかにしました。

菅原道真は、この古山陽道を通って塩屋に出て、明石へ行きました。この時、明石の馬屋の駅長が、塩屋まで迎えに来た-という伝説から1933年に造られたこの橋に「菅公橋」と名づけたのです。

旗振山

旗振山の茶店の所は、東西によく開けています。 江戸中期から、1897年の電信が開通するまで、ここで大きな旗(畳一枚大)を振って、大阪の堂島の米相場(値段)を、明石や、加古川、岡山方面に伝えていたので「旗振山」と呼んでいるのです。

鉄拐山

昔、猟師が鹿やイノシシを獲るために「鉄カセ」を仕掛けたという言い伝えから「鉄拐山」という名になったといわれています。

鉢伏山

神功皇后が朝鮮遠征の帰途、この山頂にカブトのハチを埋めたという伝説をもっていますが、お鉢を伏せた形から名づけられたのでしょう。

滝の茶屋

かつて、東垂水から塩屋にかけて、水の滴りが絶えることがなかった滝があったことから、旅びとの多くは、ここでノドの渇きをいやすことを楽しみにし、明治時代までは船の飲料水に汲まれていたのです。

この滝の所に茶屋があって、古山陽道をたどる人達が、淡路島を見ながら一休みしたのでしょう。

垂水の灯台(平磯灯標)

垂水のシンボルとして「垂水の灯台」は明治時代から有名になっています。 この灯台付近は「平磯」といって暗礁になっていて、昔から明石海峡の難所で、たくさんの船が難破しました。 そのため江戸時代から木製の灯標を何度も立てたのですが、潮流が激しいので、すぐに流されてしまいました。

1893年に、英国人技師の指導で、鉄筋コンクリート造りの灯台が建ったのです。それが現在でもそのまま使われているのです。 山口県小野田市にある旧小野田セメント工場内に、日本で最初に造られた(1883年)セメント燃結炉が、山口県指定史跡として保存されています。 そこには、この燃結炉で作られた第一号のセメントで垂水の灯標が造られた-と書かれています。

ジェームス山外人住宅街と井植記念館

1868年の神戸開港で、つぎつぎと外人がきましたが、その中で英国人は、ほとんどが塩屋の海辺に家を建てて住みました。 その一人のカメロン商会のジェームスさんの息子が、1932年頃から、この塩屋の山を開発して、50軒の外人用貸住宅を建てましたので「ジェームス山」と呼ばれているのです。

終戦後には、このジェームスさんの家は海軍経理学校の校長公舎になりましたが、戦後ジェームスさんがカナダから帰り生活していました。 しかし1954年に亡くなりましたので、サンヨー電機の故井植社長が、土地と貸住宅をともに買いとり、ジェームス山団地(美山台、青山台)として造成されたのです。 井植さんは1969年に亡くなり、こよなく愛していましたこの高台に、「井植記念館」が建てられました。絶景の場所で、区民にも利用されています。

高丸・上高丸団地

「団地の町-垂水」といわれていますが、その団地の最初のものが「高丸団地」です。 兵庫県が1951年に着工し、1958年から入居がはじまりました。現在では3万坪(10万平方メートル)、1500世帯の規模になっています。

ついで、この北に連なる「垂水高原」といわれていました丘陵も、兵庫県、神戸市、住宅公団(現 独立行政法人 都市再生機構)合同で造成され、1966年に「上高丸団地」となりました。

この丘陵は、1943年に建てられました旧制県立四中だけがありました。 1947年の学制改革で旧制県商と県四中が合併し、星陵高校になり、新制の垂水中学がここに置かれたのです。

第2神明道路

太平洋戦争中に、軍用放射道路として、神戸から、加古川や三木への工事に着工し、終戦で中止されていましたのを、1964年に「神明道路」として完成、この垂水区内は有料になりました。 1968年には阪神高速と結び「第2神明道路」(自動車専用国道2号)になりました。

クラブ前バス停と桜小路

昭和初期から、この高丸の丘陵の東斜面に、神戸や大阪のお金持ちが別荘を建てはじめました。 そのため道路も改修されたのですが、この別荘族の集会所として「高丸クラブ」が、ここに建ったのです。「桜小路」の桜並木もその時に植えられたものです。 今では、バスの停留所名(クラブ前)に名を残すのみです。

主な川名のルーツ

山田川

垂水区山田(西舞子)より、明石海峡に注ぐ川。舞子川とも称し、もと明石郡山田村でした。

背後の丘陵地の谷間を中心として、山田といいました。

福田川

垂水区垂水より、明石海峡に注ぐ川。もともと、垂水川でしたが、流域の福田をとって改名しました。福田とは深田の佳名。

塩屋谷川

垂水区塩屋より、大阪湾に注ぐ川。別名、谷川と称し、水源は摂津・播磨の国界となります。古代より塩屋浜で、海塩を生産していました。

七曲り(市道名谷高丸線)

片側一車線で道は細く、急カーブの連続。第ニ神明道路の建設に伴い、高度成長期の1960年代、日本道路公団が工事作業用に造られました。

段々畑だった斜面を切り開き、大小のため池を縫うように走っており、長さ900メートル、高低差約50メートル。

工事のためダンプカーがひっきりなしに通過したといいます。

現在のように、市道「名谷高丸線」として、一般車両も通行できるようになったのは1970年です。