きて!みて!玉津町!!



口説き音頭

口説き音頭上池地区に古くから伝わる「口説き」音頭は、江戸時代に流行した色恋物語などを題材にした伝承芸能である。「口説き」音頭が残っているのは神戸・明石の各市内でも珍しく、毎年の盆踊り大会で歌われている。

上池 西河原 新方 岩屋神社氏子(秋祭り)

上池 西河原 新方 岩屋神社氏子(秋祭り)上池・西河原・新方の3地区は明石市材木町に鎮座する岩屋神社の氏子地。岩屋神社は明石浜に打ち上げられた淡路島の岩屋神社の神体を祀ってあるという。明石城築城のときに上池は現在地に移住、西河原では氏神が岩屋神社に合祀された、と伝えられている。

神本神社 森友宗賢神社(秋祭り、お旅道中、子供神輿)

神本神社 森友宗賢神社(秋祭り、お旅道中、子供神輿)明石城初代藩主小笠原忠政公より1619年(元和5年)に社領田3反歩が寄進され、しきつ(枝吉)城跡東斜面に神本神社が、1621年(元和7年)創建される。1月に湯立祭と10月に秋祭がある。秋祭りは10月第2日曜の午後、境内で太鼓や神輿のお練りをし、お旅所まで弓矢、槍、刀等を持った天狗(猿田彦) 一行とお旅道中が行なわれる。神輿は親神輿と子ども神輿がある。社殿等は区画整理で新築されるが、鳥居は大震災で倒壊、その後復旧した。太鼓は昭和50年代に「吉田郷土文化保存会」が結成され復活した。宵宮に、氏子宅などに獅子舞が訪れる。

二ツ屋若宮神社(子供神輿 衆仕 湯立て神楽)

二ツ屋若宮神社(子供神輿 衆仕 湯立て神楽)1月の成人の日の祈念祭には巫女による「神楽」と「湯立て」が行われ、この湯に当たると1年間風邪に罹らない(無病息災)といわれ、参拝者は競って湯を浴びる。「湯立て神事」が終わると宮役員関係者による「もち撒き」が始まる。10月の体育の日の秋の例祭には1995年(平成7年)より「子供神輿」が、1996年(平成8年)からは「子供だんじり」も加わり、氏子地域を巡幸する。

大歳神社(流れ造)

大歳神社(流れ造)二ツ屋字大歳の地に、農耕の神として村人達は、五穀農穫を祈願し、小さな祠を建て、毎年1月4日と9月15日にお祭を行ってきた。近年、周辺の宅地造成等の進行に併せて神域の整備をすると共に、1990年(平成2年)5月新社殿を建立。現在も祭の日には、参拝者に甘酒と白蒸しが振舞われる。

王塚古墳

王塚古墳5世紀頃明石平野一帯を支配していた豪族の墳墓。全長102m、周囲に堀をめぐらした明石川流域最大の前方後円墳。墳丘には円筒埴輪列を有し、内部主体は竪穴式石室であるとみられている。「日本書紀」によると、欽明天皇の皇女舎人姫の墓と推定され、陵墓参考地として宮内庁が管理している。

金勝寺

金勝寺開基は金勝寺縁起によると1497年(明応6年)己3月とある。金勝寺十代浄玄が大本堂で開いた寺子屋は、寺子の子孫達が1873年(明治6年)5月新政府の学制発布令公布に先駆け、池野村立濫觴小学校として創立した。

下津橋構居跡

下津橋構居跡戦国時代、明石氏が城主として下津構居に在城していたと伝えられている。最近まで土塁や塀の一部が残されていた。下津橋城の跡には宗賢神社が建てられている。昭和30年代までは、神社の秋祭において『馬かけ』の行事が行われていた。

常纂寺

常纂寺浄土宗の寺院で、慶長年間(1598〜1615)芸蓮社願誉上人林甫和尚の創建によるものである。ご本尊の阿弥陀如来は、平安後期から藤原前期(850〜900年前)の作。弁天道は1737年(天文2年)武州、岩槻浄国寺、恢誉蛍派上人の創建によると伝えられている。

新方遺跡

新方遺跡明石川と伊川の合流する地点の北側、標高8〜10mの沖積地に位置している。1970年(昭和45年)に山陽新幹線建設に伴う調査で発見された。遺跡の範囲は東西1.5km、南北約1kmである。これまでの調査で、木製品、管玉や玉砥石、周溝墓等が検出されている。

清水寺

清水時縁起寺伝によれば元正天皇の建立といわれ、定恵の開基とされている天台宗の寺院。本尊の薬師如来は秘仏で、七仏薬師の一つとして今に至る。1997年(平成9年)春、清水寺の西の工事現場から、弥生時代の人骨が発見された。

西山延命地蔵尊

西山延命地蔵尊室町時代の末頃、付近一帯に繁茂していた竹藪の中に、既にお地蔵さんとして祀られていたという。現在は出合小学校北隣の丸山公園の中で、立派なお堂に祀られ、西山のお地蔵さんと親しまれている。願いがよく叶えられるのというので遠くからのお参りもある。

日輪寺

日輪寺724年行基により開基された天台宗の寺院で、普光山日輪寺という。明石八山寺の一つ。仁王門前の菩薩池も行基が潅漑用に築いたと伝えられていたが、区画整理事業により埋立られた。火のついた松明を持って踊る追難式は、有名であったが昭和30年代に廃絶となった。

林崎掘割(疎水路)記念碑

林崎掘割(疎水路)記念碑1657年(明暦3年)、旱魃で苦しんでいた林崎地方の村々が相談して、明石川上流の平野町黒田から印路を経て野々池までの約6kmの堀割を造り、灌漑用水を確保した。記念碑は、掘割工事の経緯を後世に伝えるために1739年(元文4年)に建立されたものである。

播磨吉田遺跡

播磨吉田遺跡近畿地方最古の弥生時代の遺跡。中世期の枝吉城構築の際に変形を受け、弥生時代の構築は殆ど破壊され、僅かに遺物の含有層を残すのみとなっているが、近畿地方で最初に稲作文化が定着した土地の歴史的価値と研究史上の意義は大きい。

報恩寺

報恩時臨済宗妙心寺派の末寺で、山号は南江山。1429年(永享2年)(枝吉の城下町の頃)開山。ご本尊は地蔵菩薩。山門脇に道標があり、『北中津ばし、東太山寺道、南かにがさか〔和坂〕』とある。

吉田郷土館

吉田郷土館旧吉田村の集会所と明石川流域の遺跡の資料館を兼ねた会館で1973年(昭和48年)に完成。背後の城山で営まれた播磨吉田遺跡、新方遺跡、吉田南遺跡など、弥生時代から鎌倉時代にかけての集落跡や官衛跡より出土した遺物を展示している。

枝吉城址

枝吉城址枝吉城は、戦国争乱の時代が幕をあける15世紀頃、明石氏によって築城された。城を台地上に構え、その東縁には城主の居館を中心に城下町が形成され、一時は地域の中心として賑わったという。その後、枝吉城は二度の合戦を経て、城下町もその度に戦火に遭った。16世紀末には、キリシタン大名の高山右近重友が城主となったが、間もなく明石へ城を移転したため、1世紀半にわたる枝吉城の歴史は終わった。