文章中、司…司会者●…参加者



 地下鉄・高速長田駅を出ると、そこは大きな交差点になっています。神戸の主要な東西幹線である中央幹線、山手幹線がこの長田交差点で合流し、御蔵菅原方面へ向う南北道が国道28号線、また神社の鳥居がある商店街から北が長田線で、北への道路は長田区の丸山地区や北区の箕谷方面までつながっています。
 交通の大動脈が結節する長田交差点は、毎日学生や勤労者、銀行や買い物に向かう主婦など多くの人々が行き来しています。宮川地区はこの長田区の顔ともいえる、長田交差点から北に広がる地域で、地区内には長田神社や宮川小学校があり、長田線沿いに賑やかな商店街、そしてその周辺に住宅街が広がっています。また地区内で会下山トンネルをくぐって東から流れてくる新湊川と北からの苅藻川が合流しています。


司)宮川地区では長田線沿いにサンドール、プレノ、食遊館、長田中央市場などたくさんの商店が軒を連ねていますね。
●私は宮川町2丁目で生まれましたが、昔は今の商店街筋よりも家の前の馬場筋(苅藻川の西、旧区役所西側の道)のほうが賑やかで、祭りの時など屋台がズラリと並んでました。
●サンドールは参道筋の再開発ビルということで公募でこの名が付きました。昭和53年当時は、再開発に反対の人の方が多く40軒近くで反対同盟をつくるということで、「長田商店街 生活と環境を守る会」という組織がつくられ、私はその委員長になり、当時局長だった前笹山市長のところにも陳情にいったりしました。7年半ほど委員長をやっていたんですが、次第に長田商店街もさびれてきて、バスが通行するのもやっとの状態で、また歩道がなく、雨の日はかさをさして商店街を歩くこともいやになる状況でした。 そこでいつまでも反対していてもだめだということで、会合で再開発をやろう、そしてやるなら一刻も早くと呼びかけました。しかし、会ではそれを白紙に戻せという意見で、会を除名されてしまいました。しかしながら、後に委員長になる人もいない中、私どもが助言し、市が描いたビルの青写真をもとに各商店が公平に商売が行えるよう検討し、住民のそういった活動、市とのやり取りを経て、現在のビルが竣工するに至りました。




司)地区内には最近まで芝居小屋もあったそうですね。
●長田神社前商店街の東(六番町7丁目)に新生劇場という芝居小屋が戦後でき、震災前までありました。
サンドールの西の神戸信用金庫(長田町2丁目)の建っている場所も昔は映画館でした。また、現在の三井住友銀行(四番町8丁目)は昔は藤原新聞店という新聞販売店で中等野球(今の高校野球)の速報をしていたり、また長田茶苑という喫茶店では戦後の当時としてはめずらしくテレビが置いてあったのでプロレス中継のある日には料金が高くなったりしてました。

司)交通とかどうでしたか。
●当時市電は東尻池方面から北に走り長田神社前から東に向かい上沢を経て湊川に至っていましたが、長田交差点では南北に走る市電と山陽電車が直角に交差していました。市電と山陽電車では電圧が違うため架線が交差する区間は無通電となっており、めずらしい場所だったんです。また北町に車庫があり(現在の長田区役所)、そこから神戸まつりのときには花電車が出発していました。
●昔は山陽電車は現在のJR兵庫駅まで伸びていました。
●山陽電車の駅が中央幹線にあって、そこからよく電車に乗っって海水浴にでかけたりしましたね。
●交通が便利になって長田の商店街も繁栄していったんです。


司)今年10月には長田神社のみこしが復活しましたね。
●震災後復活した第1回の神幸祭を神社の地元の長田・長田東部・丸山・名倉の4部の奉仕で盛大に行われたことを大変嬉しく思っています。
●長田神社では毎年節分の日に追儺式が行われますが、私はその鬼役を何回かやり、今は指導をしています。鬼の踊り手も若い人が増えてきていますね。長田神社の追儀式は平成6年に神戸の姉妹都市、オーストラリアのブリスベーンで公演したこともありますし、大阪や姫路でも公演しており、私は公演で6回程出張しました。奈良の薬師寺に指導にいったこともあるんですよ。



●兵庫高校の北西(片山町2丁目)にある瓦屋山正法寺は地理的には丘の頂上にあります。この丘の東北の方角、現在の家庭裁判所(兵庫区荒田町2丁目)の東向かいの少年鑑別所(兵庫区下祇園町)に五郎池という池があり、戦前、株の取引所になっていました。また須磨区と垂水区の区境、鉢伏山の北に旗振山という山がありますが、ここはこの山で旗を振って、西の播磨地方に株の取引の相場を伝達するのでこの名がつけられました。正法寺のある瓦屋山は兵庫の五郎池と旗振山との中間の見晴らしの良い丘であったため、情報伝達の中継地となりました。大正元年の頃のことです。その後ずいぶんと様子が変わり現在は正法寺の境内に旗の掲揚塔の基部だけが残っています。


司)水害や戦災の被害はやはりあったんですか。
●昭和13年、42年の水害では苅藻川が氾濫して水浸しになりました。空襲ではまちは焼け野原になりましたね。道一本で焼けたところ残ったところがはっきりわかりました。
終戦直後は丸山に捕虜収容所があったためか、米軍の飛行機が低空飛行で物資を投下していました。


●昔、長田小学校は現在の宮川小学校のところにありましたが昭和20年3月の空襲により校舎が焼失したため昭和14年に新設された池田小学校に併置されました。そして、昭和23年に西山2丁目に新築校舎ができました。その後児童数の増加により昭和31年に元長田小学校があった敷地に宮川小学校が新設され長田小学校の児童729人が宮川小学校の児童になり、現在に至っています。宮川小学校の校名は、そばに流れている苅藻川を住民が宮川といっていたことなどからつけられたということです。



司)宮川地区の良いところってでどんなところでしょうか。それからこれからどんなまちにしていけばと思われますか。
●今では下町的な雰囲気、情緒は少なくなっていますが、買物もしやすく、また高速、地下鉄などの駅にすべて徒歩圏内で行けます。大変便利なまちだと思います。
●これからはまちに花を増やしたり、地域のふれあいを大事にして、お年寄りにやさしいまちにしていきたいですね。また商店街の活性化にも力を入れていきたいです。



荒本 春枝
荒本 和郎
亀山  馨
斎藤 朋次
中島 愛次
眞渕 行夫
(順不同・敬称略)








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