神社・仏閣

最終更新日
2018年1月18日

 灘区には特徴的な神社・仏閣が多数あります。市街地の中に広い面積のみどりを茂らせ、まちの中のみどりのオアシスとしても心なごませてくれるところです。市街地の風景のポイントとなるばかりか、まちの歴史の生き証人でもあります。また、神社で行われる祭りは人々の忘れられない思い出でもあります。

一王山十善寺

一王山十善寺 石屋川上流の西岸にある臨済宗永源寺派の寺で、天喜5年(1057年)、信覚大師が創建。当時は、今の六甲山ケーブル山頂駅南付近に、七三僧房と七堂伽藍を擁し、壮観を極めたといわれます。元弘3年(1333年)兵火により全焼。復興後、再び天正年間(1573〜92年)の兵火で本尊十一面千手観音を除き焼失しました。現在の寺観は江戸時代高羽の住人楠本三左衛門高重によって寛文5年(1665年)に再建。宝暦11年(1762年)に呑海和尚が来て完成に至ったと言われます。背山に四国八十八ヶ所のミニ霊場があり、寺とともに登山道に組みこまれています。

厳島神社

厳島神社 篠原地域の氏神で、河内国魂神社から昭和28年に氏子を分離して厳島神社となりました。毎年2月3日の節分に針供養祭が行われるほか、5月4・5日の春祭りでは猿田彦神役を先頭に子供神輿・稚児行列が、篠原の北町・本町・中町・南町の氏子区域を巡行します。この時に巡行する「地車(だんじり)」は区内で 1・2番目に大きいといわれ、境内に保管されています。また、神社の縁起となっている「福石」は、平清盛が平盛継に命じて討ち取った、頭に珠を担ぐ大蛇の首を埋めた上に置いた大きな石といわれています。

王子神社

王子神社 鎌倉時代の初期、諏訪の豪族松本忠一公が氏神をお祀りしていた地に、元久元年(1204)諏訪大社の健御名方神の分霊を受け建立。延元元年(1336)紀伊熊野より若一王子神の分霊を受け、明治39年、三大実録に記載のある高林神社(大市比売神)を合祀するなど多くの祭神を祀る神社です。通称原田神社と呼ばれていましたが、今の王子公園内にあった昭和21年、王子神社と改称され、その後2度の移転により現在地に遷りました。

大土(おおつち)神社

大土神社 この地域は水車新田と呼ばれ、天明年間(1781〜89年)には25基の水車がありました。これらの水車を利用した水車業者は、菜種から油を絞り、灯油と して京阪や江戸に輸送していました。大土神社は寛延元年(1748年)に村内と油の海上輸送の安全を願い、創建されました。境内には、六甲山への登山者に よく知られている自然石の「かえる石」があり、旅行などで出かける時に撫でて参拝すると「無事かえる」といわれています。境内は、神戸市の「市民の森」に指定されています。
 本殿、拝殿及び弊殿、摂社住吉社本殿、摂社天満社本殿、蔵、鳥居は国登録有形登録文化財(建造物)として登録されています。

海蔵寺

海蔵寺 延喜元年(901年)、法性房尊意の開基と伝えられています。その後の沿革はわかりませんが、河内国魂神社の神宮寺として知られています。幕末の摂海防備の時、長州の毛利藩が武庫川から須磨までの警備に当たるため、所々に陣屋(駐屯所)を置きましたが、海蔵寺もそのひとつです。明治維新になって、神仏分離のため、神宮寺は海蔵寺として独立しました。明治12年頃には五毛梅林として梅の名所となっていましたが、今では名だけとなっています。

春日神社

春日神社 その昔、この地の先人が、伊勢神宮参拝の帰路、奈良県にさしかかった際、重い病気にかかりました。薬を飲んでも効き目がなく、信仰していた奈良の春日大社に病気全快祈願をしたところ病気が治りました。お礼に奈良の春日神社より分霊をいただいて、この地に祀ったのが始まりと伝えられています。毎年秋に例大祭が行われ、都賀だんじり保存会のメンバ−による「だんじり曳き」が注目を集めます。

河内国魂神社(五毛天神)

河内国魂神社(五毛天神) 平安時代、菅原道真が太宰府へ左遷される途次、師父尊意僧正が下向され、社頭での別れを惜しんだ様子を見た里人が、道真の没後、その徳を慕って合祀したとの伝えがあります。五毛の古名は「胡麻生(ごまう)」ともあるので、元は摩耶山天上寺領として、灯明用の油をとるためのゴマを栽培した土地と考えられています。毎年、5月2・3日には市の無形民俗文化財「猿田彦」が神輿巡行の先頭を務め、境内でも儀式が奉納されます。

空観堂

空観堂 名前の由来となった空観上人は傑僧とも怪僧とも言われ、寛永12年(1635年)畑原の安田家に生まれました。12才にして摩耶山で出家、15才で高野山に登り修学。その後、修業を積んで理観阿闍梨と呼ばれるに至り、別名増栄、理智門または空観と称されるようになりました。空観は、一時摩耶山天上寺の弟子となり、布引山滝勝寺に身をおいたことも。祈祷によって病気の人々を救い、死後も一般の信仰が厚く、この堂を立てて祀られたとのことです。

護国神社

護国神社 昭和16年、現在の王子公園のところに県下の戦没者の英霊を祀るために建てられ戦災により焼失。昭和34年11月に現在の場所に再建されました。境内にたくさんの桜があり、桜の名所としても有名で春には花見客で賑わいます。昭和34年に建立された社殿は素木流造と呼ばれ、社務所の前には、帆掛舟に似た松が飾られています。また、毎月第4日曜日には、のみの市やフリ−マ−ケットが開催され、新たな名物となっています。

猿田彦(さるたひこ)神社

猿田彦(さるたひこ)神社 この地は、宝亀元年(770年)から津守の氏族が長く住みつき、海上交通を司どったことから、「津守郷」と称されました。その関わりから、元禄年間 (1689年〜)に、村人達が交通の守護神として猿田彦を祀ったといわれています。境内には稲荷社と地蔵堂が祀られています。阪神・淡路大震災の被害も修復し、境内参集所は、地域住民の憩いの場となっています。

祥龍寺(しょうりゅうじ)

祥龍寺(しょうりゅうじ) 創建年代は不明ですが、戦時中に供出した正徳2年(1712年)造の釣鐘に記載されている内容によると法道仙人の開祖で、平清盛が当地に都を移した頃は、寺運が盛んであったそうです。その後長い年月を経て、荒廃しましたが、応仁年間(1467年〜)に篠原の若林太郎左衛門秀勝によって再興されたといわれています。境内に明治から大正にかけて日本を代表した商社「鈴木商店」の女主人、鈴木よねさんの胸像が建てられており、鈴木家との関係を示しています。

水(すい)神社

水(すい)神社 創建年代は不詳。稗田地区は水害が多く、村民たちが農事の無事を祈念するため、水神を祀ったのがはじまりといわれています。地区の厄災守護の社として継承され、明治6年8月に村社に指定されました。同42年2月に稲荷神社を合祀しました。御祭神が水(罔象女神)と稲(倉稲魂神)に関係し、水分と食物という生命を培う二源泉の代表となっています。そのため延命長寿の神様として崇敬されています。

素佐男(すさのお)神社

素佐男(すさのお)神社古くから、この地方は天城郷都賀荘鍛冶屋村と称されていました。この地域は水害も多く、また、鍛冶屋町であったので守り神として祀られていました。天照皇大神の和魂に対し、素佐男命は荒魂の神であり、荒々しく勇壮なこの神は邪悪を祓い除く大きな力を持つ神様といわれています。素佐男大神を祀る神社は多く、全国で約二千社程あります。その中心的な神社が京都の八坂神社で神戸では兵庫区・平野の祇園さんに対して、当神社は東の祇園さんとして親しまれています。

住吉神社

住吉神社 敏馬神社の御旅所。御神体は江戸時代初期に大石村の海中より出現し社殿を造営して祀られたと言われています。神社のある大石は元々「生石」と呼ばれていましたが、神功皇后の朝鮮出兵の時、この地の舟人の活躍を賞し、米18石を賜ったことから、十と八を合せて『大』とし、『大石』に改称したと伝えられています。
 大石は江戸時代中期より酒造業や江戸へ酒を運ぶ廻船業が栄えたため、彼らの庇護を求めて、多くの俳句の文人が訪れました。境内には与謝蕪村の句碑があります。

善光寺

善光寺 高羽交差点を石屋川方面に下る途中にあり、本堂内に藤原時代末期につくられた不動明王像があります。もともと、比叡山北谷の宝乗院にあったものが明治2年に寺が焼失し、坂本の里坊に安置された後、昭和50年に現在の善光寺に移されたものです。また、両脇に侍立する「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」と「制多迦童子(せいたかどうじ)」は、鎌倉時代につくられたもので、寄木内刳り、彩色を施し、玉眼を入れており、昭和52年に県の重要文化財に指定されています。

徳井神社

徳井神社 別称「箒(ほうき)の宮」ともいわれ、安産祈願に参拝する願人に箒を授けるところからその名が生まれました。「箒」授与の由来は定かではありませんが、土地の古老の間では「陣痛が始まるとご神前の荒神箒を借り受け、その箒で妊婦の腹をなでると安産を得、出産の後、その箒と更に一本を新調し、併せて奉納する」と伝承で語り継がれています。民俗的にも珍しい神事として広く知られています。

丹生(にぶ)神社

丹生(にぶ)神社 沿革については史料がないのではっきりわかりませんが、鎮座地はもと「ドヤシキ」といわれています。これは堂屋敷のことかと思われますが、一王山十善寺の本堂屋敷があったところだと伝えられています。境内には、元禄2年(1689年)の鳥居、寛政6年(1794年)・天保2年(1831年)の石灯籠が現存し、樹齢500〜600年の楠があり、「丹生の楠」として市民の木となっています。力くらべの「力持石」もあります。

梅仙寺(ばいせんじ)

梅仙寺(ばいせんじ) 大同元年(806年)、中国漢人である梅仙阿闍梨(ばいせんあじゃり)がわが国に渡来し、摩耶山にて仏母摩耶夫人の念持仏を深く崇敬し、山麓に六間四方のお堂を建立しました。その後、帰化して当山の開基となり、その名にちなんで梅仙寺と称号されるようになりました。また、門の右手には六甲小学校発祥の碑があります。

船寺神社

船寺神社 古くから瀬戸内海の海上交通の要衝であった当地は、都賀川の河原で治水が不十分なために、仁和4年(888年)京都の石清水八幡宮の分霊を勧請し、東向きに社殿を建て、海上安全などさまざまな災い除けを祈願したといいます。正平17年(1362年)に都賀野行家が奈良の春日大社の分霊を迎えて祀り、寛文8 年(1668年)の増改築時には四代将軍徳川家綱が拝殿を寄進したと言われます。惜しくも戦災で全焼し、昭和41年に社殿を再建して今日に至っています。

平五郎稲荷神社

平五郎稲荷神社 畑原通1丁目の閑静な住宅地に、L字型の参道に赤い鳥居が67基ほど並ぶ平五郎稲荷大明神があります。この鳥居は信者が奉納したもので、奉納者の名前が記されています。30メートルほど進むと百度石があり、さらに進んだところに信者が祀ったと思われるお稲荷さんが多数置かれています。昔、杣谷の字一かんや長峰の墓地に、平五郎という狐が住んでおり、お墓参りの時などに塚穴を覗くと狐が見えたそうです。こうしたことから狐を祀った稲荷祠もあります。境内では、地車も保存しています。

摩耶山天上寺

摩耶山天上寺 摩耶山頂にあり大化2年(646年)インドから渡来の高僧・法道仙人が開創。お釈迦さまが43歳の厄年に作られた十一面観音(水の守り仏で厄除開運、海上安全等の守り本尊)が祀られているほか、弘法大師が奉納した仏母摩耶夫人尊像があります。この像は女性の難病や苦しみを救う女尊で、特に安産と子育ての守護仏として信仰を集めています。また、俳句の寺としても知られ、与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句碑などがあります。
 県指定重要文化財(書跡)の紺紙金字妙法蓮華経(非公開)と市指定重要文化財(絵画)の絹本著色弥勒曼荼羅が所蔵されています。

敏馬(みぬめ)神社

敏馬(みぬめ)神社 奈良時代の風土記に、201年の創建と記される市内で最も古い神社の一つ。神社の東側には6〜8世紀頃「敏馬の泊」といわれた港があり、来日した新羅の使節を接待する重要な港であり、また万葉集には、柿本人麻呂などによりこの地を詠んだ和歌が9首あり、境内に歌碑があります。古来より神社前は「敏馬の浦」と呼ばれた白砂青松の美しい浦として歌人の賞でた海岸は、昭和の初めに埋め立てられ、工場地、更に住宅地とその姿を変えています。

龍泉寺(りゅうせんじ)

龍泉寺(りゅうせんじ) もともとは敏馬神社の神宮寺で、境内にありました。山号は敏馬山(みぬめざん)といい、永源寺末の臨済宗です。本尊は薬師如来。聖徳太子が開基したといわれています。明治元年の神仏分離令により寺は独立しましたが、当時は、ひどく寺勢が衰えていました。そこで、明治3年、永源寺派の管長万松関老大師が見まわりに来て、弟子の雄峰が復興しました。境内には数多くの石仏が祀られています。

六甲八幡神社

六甲八幡神社 平安時代後期、平清盛が福原遷都の時、京都石清水八幡宮を勧請して成瀬という旧地名を八幡(やはた)に改めたのが起源と言われます。樹齢400年をこす楠や黒松、銀杏の木などがあり、14世紀の「太平記」に、鎌倉軍の六波羅勢が八幡林を通り、摩耶山城の赤松円心を攻めたと記されています。現在の本殿は、天明6年(1787年)に奈良の春日大社旧社殿を移築した一間社春日造りで、市の重要文化財に指定されています。本殿右手の厄神宮本殿も県の重要文化財に指定されています。

若宮神社(旧名:若宮八幡宮)

若宮神社 神社所蔵の「若宮八幡宮縁起」によると、江戸時代前期の延宝6(1678)年里人花木正時が、海浜を流れ来る八幡宮と秋葉権現の御真影を発見。早速、領主松平氏に報告したところ、領主が「八幡宮はわが崇敬する霊神なり」と言い、村の南の浄地に社殿を造営し、新在家の氏神として祀られました。
 新在家は、江戸時代中期より酒造業が栄えた灘五郷の一つ西郷に当たる地域です。