須磨・駒ヶ林方面と和田岬を迂回せずに兵庫港とを結ぶ水路として掘削され、明治29年から三年間、高松町、材木町、南逆瀬川町を通って新川運河に達する本線と、東尻池町から南に延びる支線、全長千四百間余が兵庫運河として開通、船の航行安全と両岸の宅地化が進められた。材木町は兵庫運河に面し御崎町の北にある町で、この付近には材木問屋が多く、運河にかかる橋も材木橋と名づけられている。
高松町には兵庫運河建設の功労者・八尾善四郎の銅像が運河を背景に立っている。この像は日露戦争の際、兵庫運河が物資集積などに果たした役割を評価されたために、第二次大戦時にも供出をまぬがれて、今も運河をのぞんで一帯を見渡している。
明治8年、新川運河の完成で、運河に囲まれて島のようになったため長く通称「中之島」と呼ばれて来た。神戸市民の台所・中央卸売市場が昭和7年(1932)完成し、以来七十数年毎日活気にあふれた営みが続けられている。この中之島の地から北の切戸町にかけて、天正9年(1581)池田信輝が築いた兵庫城の天守閣のあった地といわれる。明治元年1月に兵庫鎮台が設けられ、同5月には兵庫県庁となり、初代県令・伊藤博文が着任した。その後、新川運河の開削により建物などはすべて失われたが、兵庫城跡の石碑がキャナルプロムナードに立てられている。
明治29年8月の豪雨による神戸の洪水がきっかけとなって付替工事が始まり、会下山の下を抜けて苅藻川に合流させる新湊川が生まれた(明治34年)。
元治元年(1864年)大阪湾岸防衛のため、勝海舟の設計で完成したもので国の史跡に指定されている。中央に石堡塔という丸い砲台があり、直径 12.12メートル、高さ10.60メートル、砲門11カ所となっていた。当時は「お台場」といわれて、人々に注目されていた。大砲はすえられることなく終わった。
明治初年、兵庫港には適当な船の避難所がなかったため、風波による災害も多く、和田岬の突端を回って入港するのが不便だったので、神田兵右衛門は現在の兵庫運河の建設を計画した。結局は今のように築島港から南西ヘ曲がり、船大工町、関屋町、新町、新浜町、新在家町を貫いて、今出在家町の浜までの部分だけが完成した。工事は明治7年2月に始まり、明治8年5月に完成した。この川に囲まれた土地は島のようになり、のちに「中之島」と呼ばれるようになった。
兵庫住吉神社の祭神は上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后。航海安全、陸上交通安全の神として知られている。明治初期に運河整備の一環として新川掘削が行われたのにあわせて、大阪の住吉神社から分霊を勧請し、明治11年に創建された。戦災により焼失し、昭和39年に再建された。
金刀比羅神社は福原町にあり、明治15年に遊郭の繁栄のために、もと妙見堂のあった地に建てられた。
和田崎町一丁目、今の三菱重工のある場所に、明治23年に私設の遊園地和楽園が開設された。明治28年第4回内国勧業博覧会が京都で開催されたとき、神戸市は協賛事業として「和田岬水族放養場」を開き水族館の始めとなった。
延暦24年(805)、唐留学の帰途和田岬に上陸した伝教大師は、自作の薬師如来(本尊・秘仏)を堂に安置し、能福護国密寺と名付け、わが国最初の教化霊場とした。治承4年(1180)の福原京遷都にともない、清盛が当寺で剃髪し入道(浄海)となった縁故から平家一門の祈願寺と定め、七堂伽藍が建設され、その壮大な外観から「八棟寺」と称され、また福原寺と称されて福原京五山の第一番、兵庫随一の勢力を誇った。境内に、奈良、鎌倉に並ぶ日本三大仏の一つ兵庫大仏がある。胎蔵界大日如来像、毘慮舎那仏で、本体11メートル、蓮台3メートル、台座4メートル。もともとは明治24年に兵庫の豪商南条荘兵衛が寄進したもので、昭和19年、金属回収令で国に供出したため長い間台座だけになっていたが、平成3年5月に関係者の努力により再建され現在の姿になった。
中之島の元の県庁跡に、明親館があった。明治初年の神戸で最も古い組織的な学校であった。神田兵右衛門などが和洋両学校の設立の許可を得て、明治元年6月13日に開校式をあげた。明治5年に学制が発布されて、明治6年6月24日に明親館は閉ざされたが、近代的学校制度発足以前の時代に兵庫の町の教育に果たした功績は大きく、明親小学校にその名を残している。
和田神社の石の大鳥居をくぐって約五十歩、左側にそびえ立つ石の碑で、町兵隊の編成や明親館の建設、新川運河の造成、水道布設など、神田翁の徳を慕い、その功績を後世に伝えるため、兵庫南浜七町が協議し明治44年3月に建てたもので上部の神田翁彰徳碑の額字は時の兵庫県知事服部一三の書、文章は大阪の儒者藤沢南岳の撰になる。石材は讃州牟礼村より特別に切出したものである。
「湊川」の名が記録に見えるのは大和法隆寺天平19年の『流記資財帳』に「弥奈刀(みなと)川」とあるのが最初である。今の新開地筋に付け替えられ堤防が築かれた。明治29年の大水害を機会に付け替え工事が進められ、もとの川筋(旧湊川)は埋め立てられ新開地の繁華街となった。土地が広く兵庫の近くにあるので、明治39年12月に相生座が移ってから劇場、寄席が並び繁栄した。また、時あたかも映画の伝来時であったため、映画館が建てられ、新開地は全国屈指の映画の街として発展した。
慶応4年(1868)1月11日、明治新政府より西宮の警備を命じられた備前藩の一隊が、三宮神社付近で行列を横切ろうとした外国軍水兵を刺傷した事件が神戸事件である。明治新政府が日本を代表する交渉相手である旨を外国に対して初めて明らかにして折衝にあたった結果、その第三砲隊長であった滝善三郎正信が全責任を負い、永福寺(戦災により焼失、その後移転)において慶応4年2月9日に切腹することになった。同寺に建てられた滝善三郎供養碑は、現在は能福寺の境内に移され、毎年地元関係者により彼をしのぶ集いが開かれている。
烏原町にあり、布引貯水池とともに市の古い歴史をもった上水道源で、湊川の上流烏原川をせきとめ、明治34年(1901)着工、38年に完成した。堰堤の長さ120メートル,高さ30メートルの石積みのダムによって造られた湖水の周囲約3キロメートル、水面の面積11.5ヘクタール、貯水量130万トン。この水源地を造るに当たり、農家51戸、人口300の集落が水没した。この村には20戸の水車もあったが、住民は兵庫方面に移住した。このあたりは近年菊水山、鵯越方面へのハイキングコースの一つになった。
能福寺境内に、わが国新聞の父といわれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が、外国人向けに寺の縁起を記した我が国最初の英文碑がある。
生島四郎は江戸末期の神戸村(中央区)の庄屋で、屋号は松屋。慶応3年(1867)12月の兵庫開港に際して外国人居留地の造成を請け負った。また神戸村海浜(海岸通1)の生島の持ち家をアメリカ領事館仮事務所とした。四郎は慶応4年6月「当港市中取締方」を命ぜられ,明治2年(1869)7月「当港市中取締方取扱」となり、開港場の警備を担当した。明治3年8月には京都府の物産引立会所の用達となり、生島の居宅が京都物産売捌所とされた。
湊川公園内に昭和60年にかつての神戸タワ一にかわるシンボルとしてカリヨン時計塔が建てられた。