兵庫区の紹介

最終更新日
2008年4月16日

兵庫区の歴史

尊氏・正成と戦の時代

1.後醍醐天皇湊川の宿(福厳寺)

後醍醐天皇湊川の宿(福厳寺)門口町の福厳寺は所伝によれば、14世紀はじめ仏燈国師の開基という。後醍醐天皇が隠岐国から帰京の際に立ち寄られた時に、楠木正成や赤松円心らが出迎えたところであり、室町時代の応仁の乱(1467)のころ、摂政家の一条政房がここに隠れていたところを赤松方の手にかかり、非業の死を遂げた場所でもある。

2.本間孫四郎遠矢碑

本間孫四郎遠矢碑延元元年(1336)の湊川合戦で新田義貞軍が和田岬一帯に陣を敷いた時、海から足利尊氏の軍船が押しかけ対陣した。この時、新田方の本間孫四郎重氏が和田岬の波打ち際に馬を寄せ、沖の船に向かって遠矢を射て両軍の喝采を浴びたと『太平記』に記されている。それ以来、この付近は遠矢の浜と呼ばれて来た。大正のころまで老松があり、「遠矢の松」の標石もあった。

3.兵庫城跡

兵庫城跡天正9年(1581)池田信輝が落城した花熊城の資材を使って兵庫城を築き兵庫の街を拡張建設した時、町の外郭に土塁を設け、堀をめぐらした。この土塁は外輪堤(そとわづつみ)といわれ、延長七百五十間(1350メートル)、幅一間五尺〜八間(約2〜14メートル)もあった。「そとわづつみ」はのちに「とがつつみ=都賀堤」と呼ばれ、明治7年まで存続していた。兵庫津へ入る東から三つ目の小川の川口からついたといわれる三川口町は、この外輪堤から鵯越〜三木に通ずる街路に位置した町である。

4.後醍醐天皇霊水碑(薬仙寺)

後醍醐天皇霊水碑(薬仙寺)今出在家町内に天平18年(746)僧行基が開いたといわれる薬仙寺がある。この寺で日本ではじめての施餓鬼修法が行なわれたと伝えられ、寺の名は、後醍醐天皇が隠岐国から帰京の際、兵庫津福厳寺(現・門口町)に宿泊した際、この寺の霊水を服薬用に差し上げたことから名づけられたといわれる。境内に「後醍醐天皇御薬水薬師出現古跡湧水」の碑がある。また、昭和20年の空襲による犠牲者供養の碑や、平成7年の大震災犠牲者の供養碑もある。

5.楠木正成の銅像(湊川の合戦)

楠木正成の銅像(湊川の合戦)この公園は、湊川を明治34年に付け替えたあとを埋め立てて、同44年11月に湊川公園として開放しその後整備されて、今日のようになった。新開地の北のはしにあり、湊川合戦にちなんで、園内に楠木正成の銅像(大楠公像)がある。

6.楠木正成本陣の碑(会下山の合戦)

楠木正成本陣の碑(会下山の合戦)会下山は奈良時代、大和の法隆寺の領地であったことが、同寺の「流記資財帳」に記され、「宇奈五丘」とある。湊川合戦のとき、楠木正成がこの山に本陣を置いたともいわれている。会下山は明治42年、湊西区営の公園となり、今では花の名所(桜)として有名である。

7.楠谷町地蔵板碑

楠谷町地蔵板碑楠谷町の地蔵板碑は小さなお堂にまつられており「力」と見られる梵字が刻まれている。室町時代の作と推定される。

8.満福寺

満福寺東柳原町の満福寺は延慶元年(1308)、一遍上人の高弟・他阿(たあ)上人真教の開基。本尊は阿弥陀如来。兵庫には真光寺をはじめ時宗の寺がいくつかあるが、この寺は創建当時、真光寺の隠居寺のひとつであったといわれている元禄年間(1688―1704)には蓮阿上人が同寺の再興に努力し、その後時宗兵庫道場の一翼を担い、おおいに繁栄した。昭和41年現在の本堂が再建された。

9.魚の御堂跡

切戸町あたりにあった魚の御堂跡については、奈良西大寺の僧叡尊が兵庫に来たときの伝記によると「諸国に殺生禁断を誓わせたところ1356か所、魚の御堂もその一なり」とあり、魚を供養する寺であったのかもしれない。足利尊氏が京都で敗れて九州へ落ちる途中、この堂で切腹しようとしたことがあり、また後に湊川合戦の日に、尊氏の弟の直義がここに本陣をおいて楠木正成の首実検をしたことが「太平記」や「梅松論」に記されている。ただ、その所在地ははっきりしない。

10.生田神社御旅所

生田神社御旅所生田神社御旅所が大開通六丁目にある。かつては水木通りにあり柳原までを御旅筋といってにぎわっていた。

11.都賀堤

都賀堤は旧兵庫の町の外郭堤防で、湊川の氾濫から町を守るための堤防ともいわれているが、天正8年(1580)池田信輝が花隈城を落城させた後、その遺材を用いて築いた兵庫城の外郭だと思われる。元禄9年(1696)の絵図や寛政9年(1797)の「外輪堤絵図」に描かれているが、明治8年(1875)に削り取られた。

12.霊山寺

霊山寺石井町二丁目の霊山寺にある地蔵立像は竜山石の船型で石の厨子にまつられている。文安3年11月(1446)の銘がある。

13.藤の寺

藤の寺兵庫津の豪商北風家の伝承によれば、白藤姓を名乗っていた北風家は建武3年(1336)新田義貞に味方し、暗夜北風のふく中で足利尊氏の軍船を破ったことから喜多風(後に北風と改める)の名をもらった。

14.和田の笠松歌碑(小河公園)

和田の笠松歌碑(小河公園)笠松は、松原通一丁目の真光寺の門前から北へ50メートルほどのところの、須佐の入江に流れ込む小川の石橋のそばにそびえていた。鎌倉初期に藤原為家が「秋風に吹きくる峰の村雨にさして宿かる和田の笠松」と歌い、また、藤原季経の歌にも「木末までかかれる蔦のもみじして錦を織るや和田の笠松」がある。延宝8年(1680年)の「福原びんかがみ」も笠松の図を入れて、「兵庫の町はずれから一丁」として「笠松や輪田は大いに夕涼み」などの句をあげている。この松は、道行く人の目印となっていたが、明治45年に神戸史談会が植えた何代目かの松も枯れて、今は碑だけが残っている。

15.福海寺

福海寺臨済宗、本尊は釈迦如来で足利尊氏が開いたという。福原西国33か所の第23番札所で、足利尊氏や義満もたびたび訪れ、足利歴代将軍の厚い崇敬を受けた。もとは二本松(JR兵庫駅の西)の地にあったが嘉吉(1441〜3)の乱で焼失し、その後現在の位置に移ったと伝える。兵庫の西の入口・柳原惣門の要所にあって大規模な様子から、兵庫城の守備の役目をしたと思われる。現在、七福神のうちの大黒天がまつられている。

16.楠公供養石(阿弥陀寺)

楠公供養石(阿弥陀寺)阿弥陀寺は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来。文永8年(l271)、法然上人の孫弟子の浄音(じょうおん)上人の開基と伝えられている。境内の中央には、戦災で変形、変色した楠公供養石がある。これは延元元年(1336)の湊川合戦の際、魚の御堂(うおのみどう、所在地不詳)に本陣を置いた足利尊氏らが、戦いに敗れた楠木正成の首を置いて首あらためを行った石だといわれている。その後、この石は黒田長政の神戸別邸にあったが、その屋敷は兵庫の絵屋の鷹見家にゆずられ、さらに同寺に寄贈された。

17.法然上人名号石

法然上人名号石和田宮通三丁目の和田神社の北に、法然上人の名号石がある。名号石は、もとは外墓(そとばか)のなかにあった。外墓は、古くからの兵庫の共同墓地で、それ以前は千僧寺という寺があったところだと伝えられている。元禄9年(1696年)の絵図では、外墓は、今出在家町四丁目の薬仙寺の付近にあたる。この名号石は承元元年(1207年)に法然上人が土佐に流される途中このあたりに泊り、自ら「南無阿弥陀仏」の名号を石に彫って建て、民衆のために供養を行ったものだと伝えられている。しかし、今ある名号石は江戸時代末のもので、建て替えられたものなのかも知れない。

18.一遍上人五輪塔(真光寺)

一遍上人五輪塔(真光寺)松原通一丁目の真光寺境内の左手に一遍上人の廟所があり、一段高く壇を築いて五輪塔が建てられている。上人は鎌倉時代の時宗(じしゅう)の開祖で、正応2年(1289年)8月23日、この地の観音堂で五十一才で亡くなった。また、この寺には重要文化財の「紙本著色遊行縁起(詞行顕筆)」があり、「一遍上人廟」「石造五輪塔」は県指定史跡文化財になっている。

19.宝篋印塔

宝篋印塔梅元町の民家の敷地内に、宝篋印塔(本来は宝篋印陀羅尼−ほうきょういんだらに−を納める塔で、後には供養塔・墓碑塔として建てられた)がある。付近の人は「もぢみさん」と呼び、歯痛の人が参詣して梨を供えると痛みがとれるという伝説がある。湊川合戦(1336年)に敗れた楠正成が自刃したところで、この塔は楠公の墓だという伝えもあった。