薬仙寺に「萱の御所跡」の碑が移設されている。この碑は平清盛が後白河法皇を押しこめた萱の御所の伝承により作られたもので、もとは新川運河の地にあったもの
永沢町には平清盛ゆかりの兵庫七弁天の一つ、外弁天(厳島神社)がある。外弁天と呼ばれるのは兵庫津の域外にあったからといわれ、境内に古くから淡島神社が合祀されており、針塚があって毎年2月8日には盛大な針供養が行なわれる。上沢通、下沢通の付近はむかし渦輪(うずわ)と呼ばれ、湊川の旧川筋で川の流れのほか地中からも水が湧き出して渕のようになっていたといわれる。のち湊川の川筋が変わっても一帯は湿地となって残ったので沢の名がここから生まれた。平清盛は治水のため弁天を建立した。渦輪弁天といい、兵庫七弁天の一つでのちに永沢町の厳島神社外弁天に含祀された。
天王谷の湊川上温泉は、文禄5年(1596)近畿の大地震の後、豊臣秀吉は、正直屋寿閑に湯坪取立を許可する朱印状を与え復興させた。平安時代の古記に雪見御所から北の「湯屋」に平清盛が行ったとあるのも、この湯だとする人もある。
北逆瀬川町にある能福寺は平清盛ゆかりの寺として有名で、初代住職・円実法眼が清盛が京都で死んだ後、遺言により遺骨をこの地に持って来て法華堂(諸説あり、所在地も確定できず)に納めたとされる。
切戸町にはむかし、魚の御堂(称名寺)があった。平清盛が魚族のために設けたという伝説が残っている。町の南端に清盛塚がある。養和元年(1181)京都で亡くなった清盛の遺骨を円実法眼が持ち帰って山田の法華堂に納めたと『吾妻鑑』にあり、山田を和輪田の誤りとする人は、この塚が墓所だと考えてきた。しかし、大正12年の調査で、この清盛塚は墳墓でないことがわかった。この十三重の石塔は、弘安9年(1286)の銘を持ち、神戸市電の道路拡張工事で現在地に移った。昭和47年柳原義達作の清盛像も脇に建てられ、その隣に平経正の琵琶塚、そして文化文政期(19世紀前期)の俳人・子日庵(ねのひあん)一草の句碑が並んでいる。琵琶塚、句碑もともに近くからここに移築されたものである。
熊野町の熊野神社は、平清盛が福原遷都にあたり王城鎮護のため紀州熊野権現を勧請して祀ったという。
島上町は、承安年間(1171〜75)に平清盛が海を埋め立てて築かせた「経ケ島」の寄洲の上にできた町で、清盛は大輪田ノ泊修築工事にあたり、六町四方ほどの島を築き東南風を防ごうとした。しかし大風が吹くと島は崩れ、難工事だったので17歳の松王丸が人柱となったという伝説が生まれ、経文を記した石を多く沈めて基礎として築いたので、経ケ島とも呼ばれるのだとされる。経ケ島の名は失われたが、町内の築島寺(来迎寺)には「松王小児入海」の碑と墓が残っている。
石井川と天王谷川の合流点の雪御所町は、平清盛の雪見御所跡といわれる。町内の湊山小学校校庭に明治41年、礎石や土器などが多く発掘されたことを記念して「雪見御所旧跡」の記念碑が建てられ、今に残っている。
願成寺は住蓮の石塔、源平合戦に討ち死した越前三位・平通盛と夫人・小宰相の局の石塔などとともに、水没する烏原村から松本通二丁目の現在地に移った。
『西摂大観』によれば、羽坂通には平安時代に小さな山があり、塩槌山と呼ばれていたが、平清盛がこの山を崩し、その土で経ケ島を築いたあとの小高く残った丘陵を羽坂といい、先端を針ケ崎と呼んだとされる。塩槌山の崖に大己貴命(おおなむちのみこと)がまつられており、この神が怒って風波をおこすとのことから、七宮神社をたて島の完成を祈願し、それ以後この社は兵庫の港を守ってきたという。
西出町にある鎮守稲荷神社は、「ちぢみ稲荷」ともいい、境内には平経俊(平敦盛の兄)供養の五輪塔がある。この塔は子供のカンムシに効くといういい伝えがあり、信者から寄贈された真っ赤なよだれかけが結ばれている。
金光寺の本尊は薬師如来。承安3年(1173)隆善法師の開基で、その名は本尊の金色のまばゆい光にちなんでいる。ある夜、平清盛の枕元に童子が現れ、「兵庫の海中に霊仏があるので、探し出すように」とのお告げをした。そこで清盛は、さっそく兵庫大輪田の海に網を下したところ、黄金薬師尊が出現したので、これを本尊として安置したという伝えもある。一般には、金光寺よりも「兵庫の薬師さん」の名前で知られ、戦前は1月8日の縁日(初薬師)には境内に店が並び、参詣者でにぎわった。海中出現と伝えられる本尊は、薬師如来の胎内に納められている。
荒田町三丁目にある薬王山宝地院は、安徳天皇の菩提を弔うため弘安2年(1279)に建立されたという。荒田八播神社のすぐ南にあり、平頼盛山荘はこの付近一帯の広大な地域を占めていたものと考えられる。
臨済宗。本尊は十一面観世音菩薩。錦江省文禅師(きんこうしょうぶんぜんじ)が開基。福原西国33か所の第28番札所。この寺の境内には、平清盛が経ヶ島を造ったとき、困難や水難を克服して無事に島ができるように祈って建てられた弁財天の社があり、兵庫津七弁天のひとつ「波除(なみよけ)の弁天」と呼ばれていた。この波除弁天は、ちょうど経ヶ島の北の端にあたり、かつてこの地は港への船の出入りでにぎわっていたと思われる。
範国寺は臨済宗で、本尊が釈迦如来、頑石曇生(がんせきどんしょう)禅師が永和2年(1376)に開山。もとは会下山にあったが、松王丸の碑があった現在の三川口へ移ってきたと伝えられている。(この碑は現在他の場所に移転)昔この寺には平清盛が好んだ「時雨の松」があり、青葉から玉を滴らし、霊験あらたかであったと言われていた。今では松はなく、碑のみが残っている。
平清盛の福原新都造営にさきがけ、都の守護のため守護神として治承元年(1177)に創祀されたと伝えられる。清盛は自分の荘園・福原荘に新しい都を計画し、福原荘全域が展望できる当神社境内で「のろし」をあげ、新都の位置を測定したとも伝えている。
この地は、平清盛の弟の池の大納言頼盛の山荘(別荘)があった所だと伝えており、治承4年(1180年)6月3日、福原へ遷都を行った際、この頼盛の山荘に安徳天皇が入られたという。
高倉上皇(安徳天皇の父)の「厳島御幸記」に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらたの誤りと思われる)という頼盛の家にて、笠懸流鏑馬(馬上で駆けながら矢で笠を的にしたものを射ること)など仕つらせ御覧ぜられる。」と記しているので、頼盛の山荘は、相当広い邸内であったろう。
昭和55年6月3日福原遷都八百年を迎え、記念の碑が神戸史談会によって建立された。
五宮町に在り、旧奥平野村では最も古い寺である。福原西国第十七番札所で、本尊は聖観世音菩薩。境内に昭和51年「神戸市民の木」に指定された槙柏の木がそびえ立っている。元は上迦寺と称し、仁安年間(1166〜1169)平清盛の寄進により、七堂伽藍が完備したが、元暦元年(1184)の源平合戦により焼失したと伝えている。
兵庫運河に架かる西端の高松橋から数えて第5番目の橋という意味で、もとは「第5橋」と呼ばれていた。昭和62年l2月に橋の拡張のための架け替え工事が完成し、市民からの要望で付近の清盛塚にちなんで「清盛橋」と改名された。
神明神社の祭神は伊勢神宮の分霊天照大神である。元禄5年(1692)の寺社改帳によると、「神明の宮二社 即ち 一、東の方社外宮一、西の方社内宮」と記され、伊勢神宮と同じ形式の二社がまつられていたようである。また、能福寺とも関係があり、寺の守護神として、寛永年間(1624〜44)には宮守が奉仕していたとの記録もある。境内には、海運業者が海上安全の守護神と信じる猿田彦大神も合祀されている。
会下山町二丁目善光寺の境内にある。業盛は、清盛の弟・教盛の末子で、17才の若武者だったといい、源氏方の泥屋四郎、五郎の兄弟と組んで戦い、討たれてこの地に葬られたと伝えられている。