六甲山地南麓のこのあたりの野に、鹿の夫婦が住んでいたが、その牡鹿はしばしば淡路の野島に住む恋人の牝鹿のもとに通っていた。妻の牝鹿のもとで一夜を過ごした朝、牡鹿は妻に自分の背に雪が降り積もりススキが生えている夢を見たことを話した。妻は夫が淡路へ通うことを嫌っていたので、悪い知らせだから外に出るなと嘘の夢判断をして止めた。しかし時が経つと牡鹿は野島の牝鹿恋しさのあまり淡路に渡ろうとしたが、海上で舟に出会い射殺されてしまった。夢野の名のおこりはこの鹿が夢見た野原の伝説からきたといわれる。
三石神社は神功皇后伝説によると、皇后が朝鮮遠征の帰りに和田岬の田の中に三個の石を置いて神占いし広田、生田、長田の三神を祀ったところだといわれる。また、三つの石をもって安産を祈ったから、あるいは西宮えびす神社の祭礼に御輿が和田岬まで渡御した時、その御輿を置く石が三つあったとも、むかし和田岬に灯台となる灯籠がありその礎石があったなどいろんな伝説が残っている。
『日本書紀』仁徳天皇62年の項に、天皇の異母兄・額田大仲彦が闘鶏野(つげの)で狩りをされた時、野中を見ると穴倉のようなものがあったので闘鶏稲置 (つげのいなぎ)大山主を呼んでたずねたところ、「氷を貯蔵するところで、地下深く掘ってカヤやすすきを敷き、池の氷を入れて枯草で覆い、夏まで保存する」と答えた。この氷を天皇に差し上げたところ大変よろこばれたという伝説が記されている。この氷室の所在地に仁徳天皇を祀って氷室神社が創建されたといわれる。
和田宮通には移築された和田神社がある。この神社は伝説によれば、万治元年(1658)武庫川が氾濫し、武庫郡小松村にあった岡田宮のご神体が和田岬に漂着したので、古来からその地にあったえびす社と弁天社の二小祠を合祀し、和田神社ができたといわれる。神社の玉垣などの刻銘から、江戸時代には尾張の廻船業者たちの信仰もよせられていたことがわかる。
旧西国街道西の出入口に惣門があり、大きな柳の木があったので柳原と呼ばれていたといわれる。伝説によれば、柳原の柳の木の下に住んでいた木下源太という貧しい夫婦が、不思議な僧に宿を貸して味噌長者となり、報恩のため門口町にある福厳寺を建てたという。
都由乃町には、栗花(つゆ)の森伝説がある。天平宝字8年(764)丹生山田荘の郡司・山田左衛門尉真勝は、右大臣藤原豊成の二女白滝姫に恋をした。二人の恋は帝の耳にまで達し、仲をとりもち夫婦にされた。真勝が白滝姫を連れて山田の里に帰る途中、石井村の北の森で休んだ。そのころは梅雨時であったが日照りが続き、村人たちが困っていた。それを聞いた姫が、手にした杖で地面を突くと清水が湧き出した。ちょうどその水面に栗の花びらが落ちて浮かんだという。村人は大変喜んでこの森に姫を祀り、栗花落(つゆ)の森と呼んだという。これが都由乃(つゆの)町の名のおこりだという。
烏原に古くからあった観音寺という寺を鎌倉時代初期に 法然上人の弟子・住蓮が妻の安楽とともに再興し、願成寺と名づけ、念仏業に励んだ。建永元年(1206年)、洛東の鹿ケ谷で念仏会を開いた時、後鳥羽上皇愛妾・松虫、鈴虫が参会し、住蓮に心酔して仏門に入ったので、住蓮、安楽は上皇の怒りにふれ二人は処刑された。弟子たちは住蓮の首を願成寺に持ち帰り葬った。この時、烏が住蓮の首をくわえて、この寺に持ち帰ったとされ、烏が群をなして鳴いたので上野村と呼ばれていたのを烏原村と呼ぶようになつたといわれる。願成寺は烏原村がダムで水没すると、松本通二丁目の現在地に移ったが、住蓮の石塔、源平合戦に討ち死した越前三位・平通盛と夫人・小宰相の局の石塔などがある。
旧石井村には竜神の伝説がある。谷左太夫という老夫婦が住み、人に知られず平素から徳を施した。この夫婦のもとに隠れ蓑、隠れ笠をつけた娘が来て、いろんな物を置いて去った。夫婦がひそかにあとをつけたところ、北の千鳥の滝に姿を消した。正体は竜神だったという。千鳥の滝は「深山かと思ひ来ぬればさはあらで千鳥が滝に潮ぞみち来る」の古い歌からできた名だといわれている。また、この滝の流れは曲折が多く、千鳥がけに流れるからだという説もある。
地蔵院の本尊「地蔵菩薩」は行基爪彫の作と言われ、俗に「汗かき地蔵」と呼ばれている。明治44年の「西摂大観」によると「…世間凶事あらん、とすれば、尊像先ず汗に漬る故に汗かきの名ありとぞ…」と記載されている。また当寺の住職さんは、「重い病気にかかった人がお祈りすると、本尊が汗をかくことにより、身がわりとなって病気を治してくださるのでこの名がある」と伝えている。
昭和10年ころまでは、矢部町の十王堂の前に大きな松の木がそびえていた。幹の直径が2メートルあリ、根は地面から盛り上って旅人の休憩所になっていた。これを平野の一本松とよび、また、枝折の松として、遠方からの目標とされていた。神戸の山手を東西にはしる昔の道は、奥平野・石井を通り、夢野から鵯越を経て、また、石井から烏原の谷を経由して山田に出る道でもあった。この松は、今は枯れて、もとの十王堂跡のほこらの前に大きな根株だけを残している。
祭神は、牛頭天王(スサノオノミコト)である。牛頭天王由来記によると、貞観11年(869)この神を播州広峰から京都の白川へ移すとき、この地でミコシが一泊せられたので、それを記念して社を建てたのが始めであるとされている。毎年7月13日から20日まで行われる祇園祭は、神戸の夏の風物詩となっている。
昔、夢野に鶏塚という古墳があった。大山守命は、父の応神天皇の命にそむいて、ひそかに他の兄弟をおさえ、自分が位を継ごうと考えた。そこで鶏を闘わせて自分のたくらみの成否を占ったが、思った結果が出なかった。そこで腹を立て、占いに使った鶏をすべて地に埋めてしまった。それが鶏塚で、あたりを鶏鳴が谷と呼ぶそうである。一説によると、応神天皇の時代に、夢野で狩りをした時、大山守命は、鶏が闘っているのを利用して次の天皇を決めようとした。その占いによって、大雀命が即位した。これが仁徳天皇である。このように鶏が闘ったところなので、夢野は一名、闘鶏野(とがの)といい、後にその鶏を埋めたところが、この塚なのだとも伝えている。
もとは、鵯越道の登り口の四つ辻にあって行暮地蔵と呼ばれていた。鵯越道は兵庫から 藍那を通って六甲山地の北の山田方面へ越す古くからの山道で、元禄9年(1696)の「兵庫津絵図には兵庫の三川口から「ひよどり越道」として会下山を越える道が描かれている。この行暮地蔵は、旅人の目じるしや、鵯越道を上下する旅人の一息つくところとなっていた。
山田町の藍那付近から、米や薪を荷車に積み、帰りには海産物を積み込んで、この地蔵前で、待ち合わせ、連れ立って鵯越筋を登っていったという。道路は地蔵前で夢野から山田をへて三木への道と、石井から烏原をへて山田・有馬・三田へ至る道に分かれる三差路になっていたため、追分地蔵と呼ばれるようになった。
大昔には、峠とか道の辻とか、旅人の通る道筋には道中の安全を守ってくれる神さまがまつられていた。そこには、なにか手向けをして通ることになっていた。平野の一本松から西北へ進んで、今の祇園神社の正門筋へ出る手前、上祇園町七に塞神の松があった。この松と天王川を西へ越した都由乃町(つゆのちょう)の栗花(つゆ)の森を見通して行くのが、山手の旧道であった。この松は今では枯れてしまったが、その松のあった地に、昭和16年12月、上祇園町内会が「塞神の松跡」の碑を建てた。この碑は平成11年5月に完成した「塞神の松広場」に移されている。
神功皇后が海を渡り、遠方の地へ向かう際に、摂津の和田野原に止まり、健康の回復を待たれた。ある日、当地で皇后の夢枕に聖者が現れて安産のお告げをし、消え去った。その後、皇后は無事、応神天皇を出産されたので、聖者の消え去った当地に同寺を建てたのが金福寺のはじまりだといわれ、安産祈願の人が訪れる。京都の寂光院や長野の善光寺などとともに、尼寺めぐり36か所の一つに数えられている。
御崎本町にある御崎八幡神社の祭神は応神天皇、神功皇后、姫大神。古くから地域の氏神として親しまれ、厄除・開運を祈願する人が訪れる。社記によれば、神功皇后がこの地に滞在していた間に、貞観年中(859〜76)に神託(神のお告げ)によって建てられたといわれている。このため、古くから石清水八幡宮の公文所の鍵預かり役となり、毎年春秋の石清水八幡宮の祭りには神事に奉仕していたといわれている。神社宝物として、由緒金幣、古文書、古瓦などを保存しており、境内には力石(ちからいし)がある。
五宮神社は旧奥平野村の氏神で、生田神社の裔神八社の一つ。祭神は天穂日命である。明治五年湊川神社が創建され、兵庫県から湊川神社の氏子に指定されたが、奥平野村の庄屋、年寄、百姓代が連署で嘆願書を出し、生田神社との旧来の深い関係を述べて、旧来のままにしてほしいと願い出て許された。これは生田神社の祭主家・海上五十狭茅(うみがみいさち)の子孫の家があったからといわれる。
湊川公園北、大楠公像(楠木正成)の近くに聖徳太子銅像が建っていた。兵庫区に聖徳太子像がある由来は、七世紀の初めに太子が法隆寺を建立し、「宇奈五ノ岳(うなごがおか)」(今の会下山)は法隆寺の領地であった。これにちなんで、大正10年に、当時区内の大工町に住んでいた岡田氏が顕彰のために建てたものだが、震災で壊れ馬像のみとなっている。
五宮町の、民家の敷地内に大きな五輪塔が2基並ベてまつられている。もとは自由におまいりできていて、歯神さんといわれて、おまいりするものが多く、奉納してある箸を1ぜん借りてきて歯痛全快を祈り、全治すると箸を倍にして水引をかけて返すので、以前は堂に箸がうず高く納められていたが、今は自由に行けなくなった。2基の五輪塔の右のものは、高さ94センチメートル、四方の梵字がある。左のものは高さ96センチメートル、四方の梵字はない。両方ともだいたい同じ形式で、南北朝ごろのものと思われる。よく整って完形である。
大山咋(おおやまくい)神社は石井川上流の石井橋北東の山王町にあり、「西攝大観」には、「村社大山咋神社石井村字湊山に在り、大山咋命を祭る、建物二棟境内二百坪余なり」とある。以前は山間の林ばかりの土地であったが、戦後は急速に開けて、周辺は今では住宅街になっている。祭神の大山咋命は山をつかさどる神様なので、「山王さん」と呼ばれていた。山王町の名はここからきた。
社伝によると昌泰4年(901)2月菅原道真が筑紫へ左遷されたとき、彼の死後、暴風雨をさけて和田岬に一時上陸した。そのゆかりの地に、太宰府の安楽寺の廟所から道真の分霊をうけてまつったのがこの社の起こりで、のちに真光寺末寺である満福寺(現在の神社の北隣り)の境内に移して、鎮守としていたが、明治の神仏分離によって、独立して天神社となったという。古い記録としては、元禄9年(1696)兵庫津絵図に見えている。
会下山の北、浄水場のある山を頓田山とよんでいた。松の大木が二本ならんでいるので、この山は二本松ともよばれていた。そこに宝塚とよばれる古墳があった。ずっとむかし、たくさんの宝物や金銀とともに身分の高い人がほうむられた塚だという。そして、夢野の村が衰えて、家が三軒になるようなことがあれば、この宝物を掘りおこして村を復興せよ、との伝えがあった。一説には、ずっと昔にこのあたりに法隆寺という大きな寺があって、この塚はその寺の経塚(きょうづか)なのだとも伝えていた。