区の紹介

最終更新日
2015年1月20日

東灘小史

近・現代の東灘

幕府が滅亡し明治政府になると、東灘の旧天領の村々は兵庫県となりその他はそのまま尼崎藩が支配した。廃藩置県で尼崎藩は尼崎県となり、後に兵庫県に吸収された。明治7年1874(明治7)年には神戸・大阪間に鉄道が開通し住吉駅が開業している。

1889(明治22)年、市制・町村制が施行され、神戸市及び東灘区の前身、御影町・住吉村・魚崎村・本庄村・本山村の東灘旧五か町村が誕生した。

東灘旧五ヶ町村の誕生

1889(明治22)年4月1日、前年に公布された市制・町村制に基づき東灘区の前身である御影町、住吉村、魚崎村、本庄村、本山村の五ヶ町村が誕生した。また、この時神戸市も同時に誕生している。

その後、近代化に伴う交通機関の発達で東灘は大阪・神戸の郊外住宅地として発展していった。

1938(昭和13)年の阪神大水害、1945(昭和20)年の大空襲で大きな損害をこうむった東灘も町の復興で戦後が始まった。

そんな中、神戸市からの合併誘致が五ヶ町村を走り、1950(昭和25)年4月1日、まず御影・住吉・魚崎の三ヶ町村が神戸市に合併し、ここに東灘区が誕生したのである。そして、半年後の10月10日に残りの本庄・本山の両村も合併し、現在の区域になった。

五ヶ町村誕生時の地図

東灘区の誕生

街の復興で戦後の歴史が始まった五ヶ町村も、戦後まもなく神戸市との合併問題が表面化して、それぞれの町村で論争がおこった。1948(昭和23)年、神戸市は五ヶ町村に対して正式に合併を申し入れたが、その後、芦屋市も同様に合併を申し入れた。御影町、魚崎町は神戸市との合併に積極的であり、戦前は富裕で独立心の強かった住吉村も合併を考え始めていた。しかし、神戸市との合併により地域の主体性が無くなることを心配した住民の中に、五ヶ町村が一緒になって新しい市(甲南市あるいは灘市)をつくるという構想が生まれ、一時はこれに芦屋市も加わる様子を見せ複雑化させた。

結局、1950(昭和25)年4月1日、御影、魚崎、住吉の三ヶ町村が神戸市と合併することになった。ここに東灘区が誕生したのである。ところが誕生した区の名称について論争がおこった。三ヶ町村はこのあたりが本来「灘」の中央部であることから、「灘区」にすべきであると主張したが、すでに神戸市は西隣りに「神戸市灘区」を持っていることから問題となった。そこで、この「灘区」を「西灘区」とし、こちらを「灘区」にすべきであるという意見が飛び出し、また、「本灘区」にせよという意見まで出たのである。結局、神戸市長一任で決まった名前が「灘区」の東ということから「東灘区」。

残る本庄、本山の両村でも住民投票やリコール運動の末、1950(昭和25)年10月10日、神戸市と合併し、現在の東灘区の区域が出来上がったのである。

戦後復興の著しい東灘は、1950年代に入り阪神間の住宅地としての地位を確固たるものとし、人口が急増していく。合併時8万3千人であった人口も、1960年には13万5千人弱に膨れ上がり、街は加速度的に進展していった。1970年代に入ると、折からの高度成長の波に乗り、都市化が進み、海岸の埋立が行われていくことになる。六甲の土砂を削り、その土を海で埋め立て、削った後には住宅地を造成するという、神戸市の「山、海へ行く」政策が本格化するのはこのときである。

平成に入り、神戸市第二の人口島・六甲アイランドの造成が1993(平成5)年に完成、人口1万4千人の未来都市が完成した。

こうして、旧五ヶ町村の伝統を受け継ぎつつも新しい息吹を吹き込む街を構築しようとする東灘に、未来都市の六甲アイランドが加わり、両者が融合し人口19万人を擁したあらたなまちづくりをしようとしていた矢先、その大惨事は発生したのである。

1995(平成7)年1月17日午前5時46分、神戸市を突如として襲った阪神・淡路大震災である。このわずか数十秒の揺れで、東灘の街は壊滅状態に陥った。行政区単位では最大の1,470人の死者を出し、古い街並みや酒蔵など東灘の歴史的資産を多く破壊する戦後最大の惨事となったのである。19万人いた人口も一時は15万5千人にまで落ち込んだものの、2003年には人口20万人を超え、震災からの復興に向けて歩み続けている。

参考文献 「うはらの歴史再発見」 編著者 道谷 卓