神戸市-KOBE-


阪神・淡路大震災 消防職員手記(「雪」編集部)

咄嗟のバケツリレーが功を奏して−兵庫県南部地震・市民の防災活動−(1995年4月号掲載)

人の情けを再認識

 バケツリレーによって市民が火災を消し止めたのは、関東大震災以来だと注目を浴びた戸崎通2丁目の自治会長三宅仁さんをお訪ねして、当時のお話をお伺いしました。
 
 まだ夜も明けぬ5時46分、もの凄い揺れが襲ってきました。これまでに経験した地震の大きさとはまるで違っていたので、私は揺れが治まるのを待って外に出てみました。すると、西斜め向かいの家が倒れて通路を塞ぎ、電線が切れて垂れ下がっているではありませんか。これは只事ではないと思い、自治会長という役目柄、1軒1軒の家を回って、
 「大丈夫ですか」
 と聞いて回りました。
 その頃、長田区西代通4丁目で火事が発生していましたが、戸崎通2丁目で「生き埋めになっている人がいる」
 という連絡を受けましたので、そちらの方に行き、救出作業を手伝いました。
 何時間たったのかわかりませんが、西代通の火事が徐々に大きくなって、私たちの住む戸崎通2丁目の方に広がってきていると聞きつけ、慌てて自分の家のほうに帰ったのです。午後5時頃だったと思います。
 
 話は前後しますが、地震発生当日の朝、私が見回った時にはすでに道路沿いの家が倒れていて、あるお宅には1階にお年寄りが居るのを知っていましたし、何度も声を掛けたのですが、返事がなかったので、多分亡くなられたのじゃないかと思いました。
 その上、戸崎通3丁目の北東角の家でも母子が生き埋めになり、亡くなられているというのも聞いていましたので、これらの方々の遺体を灰にしてはならないと、妻と一緒に大声で
 「バケツリレーに協力してください」
 と叫び続けました。
 (お陰で妻は酷いガラガラ声になりましたが・・・)
 このバケツリレーは誰が始めようと言ったのかわかりませんが、誰々というでもなく始まったように記憶しています。
 
 また、戸崎通2丁目に消火栓があったのですが、水が出ないのを知っていましたし、たまたま防火貯水槽があって、中に水があったので、バケツリレーができたように思います。
 最初は少人数だった、このバケツリレーも私たちの呼び掛けに応じてくださって、通行人や学生さん、中には焼け出された戸崎通3丁目の方々までリレーの列に加わってくださいました。ですから、一番多いときで東西方向に50人、南北方向に50人の約100人の協力者があったと思います。
 
 だんだん炎が迫ってきた時、母子が生き埋めになった家の南隣にある米穀倉庫の持ち主の方が
 「この倉庫の屋根を壊してくださってもいいですよ」
 と快く申し出てくださったので何人かでロープを掛けて、引きずり落としました。
 この時ほど人の情けというものを感じたことはありません。
 このバケツリレーでは、運んだ水は道路の両側に掛けました。水汲みは若い奥さんがしておられましたし、長時間でしたからこの方の疲労を考えると、大変な作業だったと思います。
 それから、ここで食い止めねばと、道路に面したお店の日除け用のビニールシートを取り外したり、燃えている建物が道路側、つまり戸崎通2丁目の方に倒れてはいけないと、長い棒でその家を突いて倒したりして、ようやく消し止めることができたんです。
 防火貯水槽にどれくらいの水があったのかわかりませんが、だんだん水面が低くなってきた時には学生さんが中に入って、水汲みをしてくれました。
 
 新聞では活動の条件として、
 1 水源
 2 リーダー
 3 組織力
 と言われています。『水源』についてはたまたま近くに防火貯水槽がありましたが、『リーダー』については特別なリーダーはいなかったように思います。誰かが咄嗟に思いついたことを提案し、それが良ければすぐに実行すると言った具合です。人間、土壇場になればそんなに間違った判断をしないのじゃないかと思うんですが・・・
 『組織力』については、日頃から防火訓練を盛んにしている訳でもなく、派手な活動をしている訳でもありません。年に1度の親睦会を催しているだけですから・・・
 私は「遺体を灰にしてはならない」という、極限状態で一つの目標にみんなの力が結集できたからだと思います。
 その後も毎晩、夜間パトロールをしてますし、1週間ぐらいは燻っていましたから・・・
 風が吹いて再燃したら、防火貯水槽に水はありませんし、気が気ではありませんでした。トタン板をかぶせて踏みつけて消して回りました。
 地震のお陰というと変な話ですが、それ以後地域の方々との触れ合う機会が増え、今の世の中も捨てたもんじゃないなと思います。人の愛情と温もりがあったからだと今も信じています。