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神戸の戦災 戦争体験談

■ 戦後60年を迎えて  宮本さん(灘区)

昭和19年、私は女学校4年生の時に川西航空の人がこられ工場となった体育館で学徒動員で鈑金の作業をしました。学校も5年制が1年繰上げて4年生で昭和20年3月卒業となり、引き続き学校工場へ行きました。

3月10日東京大空襲、13日大阪、次は神戸・・・と恐れていましたが17日夜B29の大編隊の爆弾と焼夷弾の投下で長田、兵庫、生田が火の海となりました。そのとき焼夷弾が落とされ真昼のように明るくなったのを覚えています。

また、5月頃の空襲で神戸製鋼あたりや現在の灘税務署の辺りに落ちた爆弾のときは防空壕の壁も落ち、一応おさまって外に出ると担架や戸板に乗せられた怪我人が病院のほうへ運ばれるのをみて戦争の悲惨さを思い知らされました。

幸いにも灘区の私の家は空襲を免れましたが、6月5日は日中に、葺合、灘、阪神間が空襲されたように記憶しています。そのときは焼夷弾でしたので防空壕が危うくなり母と近所の人たちと大石川の国道の橋の下に避難しました。 地上では父と近所の男の人達が燃え移る火をバケツリレーで消し、1丁目町内会で1画の5軒ほどが残り、あたり一面焼け野が原になってしまいました。

思えばあのような無残な戦争は、二度とあってはならないし、平和が保たれることを願っています。


(平成19年8月1日号 広報こうべ 紹介記事 掲載)