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神戸の戦災 戦争体験談

■ 平和ということはいかに大切か  根岸さん(北区)

昭和20年6月5日。当時わたしは須磨区の若宮商店街の近くで、両親と父の母親、兄弟5人の8人で住んでいました。

その日は、朝早くに母が兄弟4人を連れて姫路の実家に疎開したので、父とおばあさんとわたしの3人でした。わたしは明石の川崎航空機へ学徒動員に行っておりましたが、家を出て間もなく空襲警報が発令され、電車が止まったために、やむなく家に帰ってきました。

神戸が空襲されるという事で警戒はしていましたが、神戸の西部まで空襲されるとは思っておらず、のんきに構えていました。

始めは東の方を爆撃していましたが、様子を見るため高台へ向かうと、長田に焼夷弾が落ちて煙が上がっているのが見えました。須磨水族館のところにあった高射砲陣地からも発砲し、編隊から弾幕が出ているのをみて、まるで戦争映画を見ているようだと思っていましたが、南の方から自宅の方へ飛行機が編隊を組んでやってきたので、川崎工場に爆撃が落ちると危ないと思い、家に帰る事にしました。

家に帰る途中で、焼夷弾と爆撃の落下音のザーッという音が聞こえてきました。わたしは川崎航空機で働いていたので、とにかくこの音がしたら、なるべく低い姿勢で頭と目と耳をふさがないといけないと思い、たまたま溝があったので、溝の中にしゃがみこみました。段々と頭の上へ焼夷弾の音がしてきました。目の前では、女の人が倒れておりましたが、爆弾の破片で即死でした。横の壁を見ると、蜂の巣のように破片で穴が開いていました。あちらこちらに焼夷弾が落ちて、煙を上げて燃えていました。

わたしは、とにかく家におばあさんがいたので、家に辿り着かないといけないと思い、また走りましたが、途中で誰かわからない男の人が倒れており通り過ぎたのですが、ぱっと後ろをみたら何か動いた気がしたので戻ったら、それは父親でした。その時はもうどうしようもなくそのまま家へと急ぎました。

家にはおばあさんがじっとその場にいたので、とにかくおばあさんを連れて自宅から逃げだしました。しかし、焼夷弾が次々と落ちてくるので、周りが真っ黒になり、前に進めませんでした。父親が倒れているところまできた時、おばあさんに倒れていることを言うか言うまいか判断に迷いましたが、その時は黙って通り過ぎました。

たまたま座ったらちょうど首が出るくらいの掘っただけの浅い小さな壕があり、ちょうど2人入れたので入り込みました。近くに鉄道の官舎があり、焼けていなかったのですが、しばらくすると火の粉が飛んできて、その家も焼けだすと輻射熱がとても熱かったです。たまたま竹で編んだ籠を見つけて被れたおかげでなんとか耐えることができました。

その後は、さらに西に向かって逃げましたが、しばらくすると煙で目が痛く、少し歩いては目をつむってしゃがんで、痛みが治まったらまた歩くことを繰り返し、父の姉の家でたどり着きました。

偶然にも私は助かりましたが、もし幼い兄弟4人と母親が姫路に行かず、家族8人全員が自宅にいたら全員亡くなっていたかもしれません。2軒隣の家族は、自宅の防空壕に入って全員焼け死んでしまいました。父親の右手はおそらく焼夷弾か爆弾が直撃していたのだと思います。倒れた父の横をすり抜けて避難した事に対し、今なお自責の念に駆られます。

戦争は、軍隊の軍人だけを攻撃するだけでなく、相手の国の国民を納得させなければ終わりません。原爆も落とされ、結局悲惨な目にあったのは一般の国民ではないかと思います。平和はいかに大切かとわたしもつくづく思います。