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神戸の戦災 戦争体験談

■ いのちと平和はつながっている  印南 千鶴子さん(三木市)

昭和20年3月17日。当時、わたしは兵庫区に住んでおり、8歳で小学校2年生の終わりでした。

わたしの父は用心深い人で、「今夜あたり神戸に空襲が来る。」と言って、その日はもんぺを履いたまま、枕元に防空頭巾と小さいリュックサックを置き、早めに寝ました。

間もなくすると、敵機襲来を知らせる警戒警報が鳴り、わたしは母と姉妹5人で自宅から北側にある会下山に向かって逃げました。その途中で空襲警報に変わり、B29からサーチライトが照らされ、焼夷弾が落とされました。私たちは当たらないように軒下を通って会下山のふもとのお寺へ行きました。

しばらくすると辺りが騒々しくなり、被っていた毛布をあげ、空を見上げて見えた焼夷弾は本当に花火みたいで見とれるくらいでした。

あっという間に周りの草が燃えて、母に言われてぼろぼろの運動靴で踏み消しました。その時、母が「散りぢりばらばらになるよりも、みんな一緒に死のう。」と言った言葉は今も覚えています。

お寺のすぐ左手の下にあった大きな白い建物が、エレクトロン焼夷弾の蛍光灯のような青い光で燃えて砕けました。集団疎開をしていて空襲が初めてだった2つ上の姉は、ぽろぽろと泣き出しましたが、わたしは体が硬直してしまって、涙が一滴も出ないほど極限の状態でした。

夜が明けて辺りが白みかけた頃にようやくB29の攻撃も終わりました。よっぽど混乱していたのか、逃げている間に、毛布もリュックサックもどこかに落としてしまっていました。会下山は少し高い所にあるので、風が冷たくとても寒かったです。

それから、岐阜県多治見市へ縁故疎開をしましたが、それからも食糧に困る生活が続きました。

3年生の8月15日に終戦を迎えましたが、それからも食糧難でした。家の周りの空き地は全部畑で、きゅうり、トマト、さつまいも、南瓜などを植えていました。しかしなかなか実にはならず、葉っぱばかりたべさせられました。

食べ物には本当に辛い思いをしましたが、もう一つ辛かったのは、教科書を全部墨で塗った事でした。その頃は、教科書も神棚に供えておくほど大事にしており、姉から譲り受けそれを妹に譲らないといけなかったのですが、その教科書を習字の時間に全部墨で塗りつぶしました。読めるところは見開きのページで一行か二行でした。

今まで間違ったことを教えられていたんだと、ショックを受けました。両親や先生のいう事をそのまま信じるのではなく、自分で考えられるようにならないといけないと、価値観の転換のようなものを感じました。

それからは少しずつ生活はましになっていきましたが、わたしが今日まで頑張ってこられたのは、平和憲法のおかげだと思っています。戦争だけは絶対嫌です。核兵器はいけません。この地球に生まれてきてよかったと思えるような世の中を続けていきたいと思います。いのちと平和はつながっています。戦争体験のない若い方々は、自分の頭で考えて世の中の事もしっかりと勉強して、世界の人たちとも戦争をしないで、話し合いで解決していく世の中を守り続けていただきたい。