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神戸の戦災 戦争体験談

■ 戦争は絶対イヤです  秋田さん(須磨区)

昭和20年の神戸空襲の時は13歳、須磨区須磨浦通4丁目、国鉄須磨駅の少し北の家に住んでいました。

住んでいた家は焼けませんでしたが、離宮道のあたりまですっかり焼け、又、潮見台あたりの焼けた家の木材がカラケシになって家まで飛んできてくすぶったりして、1人で必死に水をかけました。空襲警報の時は、家の廻りに水を撒いて、山陽電車の高架下へ逃げることにしていました。

母と小さい弟妹は縁故疎開で、上の弟は学童疎開でそれぞれ岡山に居り、警防団長をしていた父と、私と2人が神戸に残っていたのです。

空襲で乗物も止まり、焼野原となった街を国鉄の線路を、必死に学校(当時湊川にあった市立第一高女)へ向って歩いていきました。

若宮あたりは、死骸がゴロゴロところがっている。子供が走っている姿のまま枯木のように焼け焦げている。熱さに水を求めて川までたどりついた死体はブヨブヨになっている。そんな中を人びとが歩いている光景を今も忘れることができません。

誰の死体とも知れず、あと離宮公園に集められ、夜通し焼かれていたと聞きました。

夢多い少女は、ミシンも顕微鏡もある。プールもあると聞いて、市立第一高女に入ったのですが、美しい女教師が教えていた、好きだった英語の授業は1年もしないうちに廃止、プールもなくなり、敵が上陸してきたら、1人が1人殺して死ぬのだと、ナギナタでワラ人形に向って「突き!」の稽古などをする日々となり、このころから警戒警報が多くなり、無我夢中で生きていました。

戦争が終わった時はホッとして、本当にうれしかった。母や弟妹たちが帰って来て、弟も栄養失調でガリガリに痩せ、シラミをわかせ皮膚病になって帰って来て、家族は揃いました。

もう戦争はイヤです。戦争は、くる日もくる日も怖くて、休まらないのです。


(平成19年8月1日号 広報こうべ 紹介記事 掲載)