神戸市-KOBE-


上ヶ原浄水場のあゆみ

最終更新日
2018年2月13日

第1回拡張工事での新設

 神戸市が明治33年(1900年)に給水を開始した当時は、市内59,410戸のうち水道の利用家庭はわずか7,600戸ほどに過ぎませんでしたが、創設工事(布引、烏原の貯水池や北野、奥平野浄水場などを建設)の完成した明治38年(1905年)には26,200戸に達していました。
 また、市民一人一日の使用水量も当初計画の83リットルを大きく上回る139リットル近くにまで増えていました。
 このため、新たな水源として千苅水源を開発することになり、明治44年(1911年)から大正10年(1921年)にかけて、千苅貯水池や上ヶ原浄水場などの施設が建設されました。
 大正9年(1920年)4月の須磨町との合併条件として大正12年(1923年)までかかった水道管敷設工事と併せて、「第1回拡張工事」といいます(1911年〜1923年)。
 千苅貯水池の水を浄水するため、千苅堰堤から約15キロ南の海抜約100メートルの地(当時は甲東村神呪)に上ヶ原浄水場が新設されることになり、大正6年(1917年)に完成しました。なお、千苅貯水池は大正8年(1919年)に完成しています。
 上ヶ原浄水場で作られた飲料水は、奥平野浄水場まで約19キロにおよぶ送水管で送られていました。このときの水道管用の通路が、今も水道筋(灘区)という地名になって残っています。

第2回拡張工事での増強

 第1回拡張工事中に起こった第1次世界大戦(1914年〜1919年)によりヨーロッパ全土が戦場となったため、日本とアメリカに各種資材の注文が殺到し、いわゆる大戦景気を迎えました。この時期に、神戸港を持つ神戸市に多くの産業が立地し、人口も急激に増加しました。
 このため、第1回拡張工事が完成した翌年の大正11年(1922年)には、もう給水能力いっぱいの水が使われる状態になっていました。
 この水需要の増大に対応するため、千苅堰堤のかさ上げによる千苅貯水池の貯水量の倍増と併行して、千苅導水路の増強工事や上ヶ原浄水場の急速ろ過池の新設工事などが行われました。その結果、給水能力は2倍近くに増強されました。このための一連の工事を、「第2回拡張工事」といいます(1926年〜1932年)。
 そのうち、上ヶ原浄水場の増強工事に要した期間は、昭和2年(1927年)2月〜昭和4年(1929年)4月でした。

工業用水道施設の築造

 神戸市では、高度経済成長期に入った産業界の要請を受けて、昭和36年(1961年)4月に工業用水道の第1期工事に着手しました。
 上ヶ原浄水場における工業用水道施設の築造工事に要した期間は、昭和38年(1963年)7月〜昭和39年(1964年)9月でした。