森づくりの歴史

神戸市初代市長の予算説明

神戸市初代市長 鳴瀧幸恭
(1849〜1925年)
[神戸市文書館所蔵]

神戸市初代市長の鳴瀧幸恭は嘉永2年(1849年)に生まれ、市制町村制が公布後、明治22年より初代神戸市長に就任した(在任期間:明治22年5月21日〜同34年5月20日)。
就任期、神戸市での緊急の問題は水道の敷設であった。当時、井戸水の使用による伝染病の被害は日本の多くの都市を襲っていたが、急速な都市化がおこっていた神戸市もその例外ではなかった。
当初水道敷設に関しては市議会において公営論と民営論にわかれ、対立していたが、公営論者として水道建設を推進したのが鳴瀧であった。
財源不足などの問題を乗り越え、ついに明治33年(1900年)3月には通水式が挙行され、同年4月、本給水が開始されるにいたった。このような鳴瀧の功績は、「水道市長」のニックネームにもあらわれている。(神戸市文書館ホームページより)
安全な水道水を確保するためには、水源の周辺の森林を整備することが必須であった。当時、市議会に対し、はげ山であった六甲山の植林の必要性を訴えた際の議事録が神戸市に残っており、「森林施業について、担当が替わっても継続すべき計画をつくり、それが後患を防ぎ広く市民の福祉につながる」と述べている。これをきっかけに、神戸市において植林事業が始められることとなった。

奥平野浄水場の通水式(1900年3月)[「神戸水道創設」(2000年神戸市水道局発行)]

1901年(明治34年)3月23日、神戸市議会への予算説明より

本市の山林たる、概ね赭山(はげやま)にして所々に地骨を露わし、為に年々土砂を崩流し、独り耕地の灌漑を欠き飲料の源泉は全く汚濁せらるるのみならず、莫大の費用を投じて築設したる水道貯水池も為めに埋没せらるるの憾なしとせず。今や一部の修繕として湊川の改修に勗むる(つとむる)者ありと雖も(いえども)、源泉にして治まらざれば、「百年河清を待つ」に均しく、底止(ていし:行きつくところまで行って止まる)するところなからん。
斯の如く本市山林をして空しく収むる処なく、風光を殺き、気候の調和を乱し、衛生上至大の関係を有するにも拘らず、未だ其修理を見る能わざる所以のものは、要するに其着手の容易ならざるに職由(しょくゆう:主としてそれを根拠とすること)すべしと雖も、そもそも林業の収益確実たるべくして本市の一財源ともなるべきものを、今日まで等閑(なおざり)に付したるものと信ず。
故を以て、本市山林の地形・地味を按じ、適当なる植樹を為し、反別を測量し、土地を区画し、予じめ植伐の順序を合理にし、連年若しくは隔年に於ける伐採面積及び伐採量を定め、施業按(せぎょうあん)を設定し置かば、仮令(たとえ)幾回当事者を代わることあるも、其方針に於いて毫も誤る処なかるべく故に、此際各所有主に向て利害を詳説し、永久同一の施業を循環せしむるを得ば、本市万代の利益にして所有者に於ても十分の収得を挙ぐべき両全の策なるべし。若し然らざるして、荏苒(じんぜん:なすことをなさずして物事が伸び伸びになるさま)歳月を経過するときは、荒廃の極遂に法律の制裁により植栽を見るがごとき失態なきを保し難きを以て、寧ろ進んで自営の方法を採り、本調査を遂げ、其進行に伴い已むを得ずんば市費を以て逐次植栽を為し、以て永久の策を立て、後患を未然に防ぎ、本市の福祉を全うするは最も急用のことなりと認む。是れ本目を新設したる所以なり。