神戸市:ごろごろ、神戸2「第18回 ライスカレーの夢」

第18回 ライスカレーの夢

カレーといえば、ルーを自作したり、玉ねぎをあめ色になるまで炒めたり、野菜をたくさん入れて長時間煮込んだり、かくし味を入れたりと、これまでひと通りの工夫はしてきたが、最近は市販の箱入りルーを買って、箱の裏に書かれた調理法通りにしか作ってない。家で作るカレーに関して言うと、ひと手間かけて不味くなるわけではないが、総合的に見て労力に見合った効果は得られないと判断したからだ。材料も箱の裏に書かれている通り玉ねぎ、人参、ジャガイモという定番野菜と肉のみ。ほとんどのカレーはメーカーは違えど作り方は同じで、玉ねぎ、人参、ジャガイモ、肉を鍋で炒め、水を入れて煮込み、火を止めてルーを入れる。この完璧すぎる工程には工夫のしようもなく、料理する時間も40分ほどで済み、味もいつも同じ、高いレベルで安定する。ところがである。先日、いつものように私の作ったカレーを食べた妻が興奮気味にこう言った。
「今日のは味が違う、すごくおいしい」
そんなはずはない。…と言えば嘘で、心当たりがある。その日のカレーはいつもと一つだけ具材が違っていた。それは但馬牛である。数日前に「すき焼きにでもして食べてくれ」と言われて頂いた五千円近い値札の付いた牛肉をなかばやけくそな気分で「えいや!」と鍋に全投入していたのだ。カレーに高級肉を使うのはもったいない気がしたが、その日の私は疲れていて、すき焼きを作る体力がなかった。しかしおかげで私はこれまでにない知見を得たのである。つまり「高い肉をたっぷり使ったカレーはうまい」という身も蓋もない知見だ。

汁の中に肉があるのではなく
肉のすき間に汁があるカレー!
カレー汁の表面が、平らではなく
肉のために激しいデコボコのあるカレー!
(『ショージ君の青春記』(文春文庫)所収、『漫画行商人』より)

東海林さだおは『漫画行商人』というエッセイの中で、漫画家になるために家を出て一人暮らしを始めた若かりし頃の愛すべき生活を描いている。作者はこれまで何度もカレーを食べたが、一度として「ああ、きょうのカレーは、肉が豊富だった。充分だった。満足だった」と感じたことがなかったという。そこで一人暮らしを始めたのをきっかけに、長年の夢をかなえる事にした。それは「肉だらけのカレーライス」を作ることだ。作者はさっそくスーパーマーケットに行き肉屋の店先で考える。はたして、何グラムで「肉だらけ」と言えるのか。300でも400でもない。得た結論は、500グラム。
東海林青年は豚のコマ切れ肉を500グラム購入し、自分の城に帰っては玉ねぎ、人参、ジャガイモとともに、すべてを鍋に放り込む。

 

食物には、一定の値段の限界があり、ライスカレーはせいぜい二百円が限度である。それが千円もするのでは、うまいもまずいもない。「うまい」という言葉には、「安くて」という気持ちがその基本になければならないはずだ。

ライスカレーは、あくまでもライスカレーである。千円のライスカレーは、すでにライスカレーではない。
(『月夜の記憶』(講談社文芸文庫)所収、『千円のライスカレー』より)

カレーには「家で食べるカレー」と「外で食べるカレー」の二種類がある。味だけの比較で言えば、家で作るカレーはどれだけ頑張ってもプロが作った外で食べるカレーにはかなわない。しかし、カレーというのはラーメンと同じで「庶民の側の食べ物」という強固なイメージがあって、プロがどれだけ創意工夫と手間ひまをかけて渾身のカレーを作っても、なかなか思い切った値段は付けにくいものだ。作家の吉村昭は外で食べるライスカレーにことのほか手厳しい。味ではなく値段に厳しいのだ。引用した「千円のライスカレー」というエッセイが書かれたのは1969年。知人から聞いた話として、ある食通の文筆家がレストランの千円のライスカレーを激賞している事に対して腹を立て、噛みついたエッセイで、乱暴に要約すると、カレーってのは庶民の食い物だろ? それに千円も出せるかコノヤロー、というわけだ。この千円という値段は、今の感覚になおすと適当な計算だが三、四千円くらいだろうか。この価格帯のカレーライス(ライスカレー?)を私の普段の散歩道で目にする事はないが、今インターネットを使って神戸でも東京でも、名のある高級ホテルのレストランメニューを調べると、だいたいどこを見てもカレーが2500円前後で提供されているので、そのあたりを想像するとわかりやすいかもしれない。
同じテーマは他の文章にも書かれている。

私は、酒が好きだが、食通とは無縁の男である。どこどこの高級料亭の料理は結構なものだ、などと書いてある随筆を読むと、まず頭にうかぶのは、その料亭の料理の値段である。一人前何万円とかで、そんな途方もなく高額の金銭を支払ってまでその料亭の料理を口にする気はなく、反撥する気持が湧く。若い人たちが一ヶ月間満員電車にゆられて往復し働いて得る報酬の、二分の一または三分の一に当たる金額の料理を、一時間かそこらで胃の腑におさめては罰があたる、と考える。食物には、それ相応の代金があるべきで、それをはるかに超えた食物は食物ではない、と思うのである。
(『味を追う旅』(河出文庫)所収、『食物の随筆について』より)

私はこれまで様々な場所で高級料理に悪態をついて生きてきたので、ここで作者の言う「罰があたる」という皮膚感覚は、あくまでも自分なりに解釈しての話だが、わかる気がする。しかしその認識は最近少し変わってきた。
若いサラリーマンの月給の半分という料亭はさすがに想像できないので…横に置いといて、数千円というがんばれば手の届く範囲での贅沢な料理を食べるのは、何も気取った食通だけとは限らないからだ。

かつての私は1500円のラーメンや2000円以上する洋食を見ては、「ラーメンってのはもっと安くてさ、漫画雑誌片手にすする、自由な食い物だったはずだろ? ありがたがって神妙に食ってどうすんだ?」などと言って絶対に認めてこなかった。しかし酒場通いも煙草もやめて、映画にも行かず服も買わず、毎日が地味で忙しく回って行くだけのそんな暮らしの中に埋もれていると、生活の中に何かひとつこう、風穴をあけたくなる。
「千円のライスカレー」の役割とはそういうもので、それは日常を吹き抜ける心地良い風である。
「千円のライスカレー」を食べている間だけ、私たちは夢を見る事ができる。空をも飛べるのだ。

ジャガイモの皮をむくのも初めてであったし、タマネギをきざむのも初めてであった。
ジャガイモもニンジンもタマネギも、どういう形に切ってもよいようなものであるが、いざ包丁の刃をあてるときはかなり迷うものである。
大型鍋にお湯を煮たて、全部を一ぺんに投入した。
やがてカレーの匂いが、おいしそうにたちこめてきた。
カレー汁の表面は、肉のために激しいデコボコができていた。
いや、激しいデコボコというより、肉がなみうつ、というような状態であった。
なぜかぼくは、
「ザマミロ」
と叫んだ。
(『ショージ君の青春記』(文春文庫)所収、『漫画行商人』より)

この短い文章には、一人暮らしを始めて高揚する気持ちと、料理に関して未熟であるがゆえの雑さと、それでもカレーは正義なのだというカレーに対する絶対的な信頼、すべてがある。自炊という大海に漕ぎ出す自由ととまどい。
なんて夢のある文章だろう。
とりあえず鍋に突っ込んでおけ。二十代の東海林青年が作るカレーのなんとシンプルで、うまそうな事か。

私は「肉を500グラム全投入したカレー」を作る事も、そして「千円のライスカレー」を食べる事も、すべてが最後の
「ザマミロ」
のひとことに語り尽くされているような気がした。

私たちをつかの間ホッとさせ、救うのは、日常に裂け目を入れる「ザマミロ」という叫びである。
さあ、今日はとびっきり美味い肉をたっぷりと入れて、デコボコのカレーを作ろう。

 
 
 
 
 
 
 


ザマミロ!!!!!


文と写真 平民金子

写真を撮ったり文章を書いたりしています。1975年生。東京か大阪かメキシコにいましたが、現在は神戸在住。


神戸市広報課より

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(掲載内容は2017年9月13日現在の情報です)

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