神戸市-KOBE-


KOBEの本棚 第31号 -神戸ふるさと文庫だより-

最終更新日
2008年3月25日

旧居留地15番館旧居留地15番館

福の神ビリケン

尖った頭に釣り上がった目、裸で微笑んでいるビリケンといえば通天閣が有名ですが、神戸では松尾稲荷神社(兵庫区東出町)に祀られています。

1908年、シカゴの女性彫刻家が夢に見た神像を描き、展覧会に出品したのがきっかけで、ビリケンは幸運のシンボルとして世界的な人気となります。日本には明治43年頃に渡来し、商売繁盛、金運招福などの御利益があると、もてはやされました。さらに大正5年、首相に就任した寺内正毅には、その頭の形から「ビリケン首相」という渾名がつきました。

神戸には大正時代の初期、アメリカの水兵によってもたらされますが、元町の洋食店主が真似て作らせたのが松尾稲荷神社にあるビリケン様です。米俵に座り、手には打出の小槌、大判を背負うなど、大黒様を思わせるいでたちが、神戸っ子の人気となりました。

当時の人は、新しい神様をどんな気持ちで迎えたのか、この神様はなぜ忘れ去られたのか、など、ビリケンの笑顔の奥には多くの謎が隠されています。

新しく入った本

神戸歩いて100景−ネオ・クラシックな街

神戸新聞社編 (神戸新聞総合出版センター)

神戸歩いて100景−ネオ・クラシックな街表紙神戸の街は、復興の名のもとに急速に様変わりした。だが、ほんとうに何もかもが変わってしまったのか。震災を経てもなお変わらないもの、失ってはいけないこの街の良さを、記者たちが足で捜して掘りおこす。

灘の酒蔵、新開地界隈、三宮周辺、舞子や塩屋、北野町、2つの人工島、兵庫運河近辺、山手の住宅街、旧居留地。それぞれの場所の歴史と現在、これからが、そこに暮らすさまざまな人たちによって語られる。

震災にもゆるがなかった、神戸の原点ともいえる魅力。震災後加わった神戸の新しい魅力。この街に共存する2つの姿を確かめること。それが真の復興へとつながると彼らは考える。

村おこしは包丁のリズムにのって−兵庫丹波の「食の村おこし」10年

坂本廣子(農山漁村文化協会)

村おこしは包丁のリズムにのって−兵庫丹波の「食の村おこし」10年表紙著者は、神戸生まれで神戸育ちの料理研究家。幼児や高齢者向けの料理教室や安全な調理法の指導、食生活を豊かにする商品の開発など、暮しを見据えた料理づくりに取り組んでいる。これは、著者が、地元の女性達とともに活動した「食」を通じた一味違う村おこしの体験記録である。村おこしのあり方だけでなく、田舎と都会の新たな関わりについても教えてくれる。

兵庫のキャンプ場&ログハウス

兵庫県キャンプ協会監修(神戸新聞総合出版センター)

海山の自然にめぐまれた兵庫県には、たくさんのキャンプ場がある。この本はその中から100近くを選んで紹介する。営業期間や料金、トイレや風呂などの施設、レンタル用品など、出発前に知っておきたいことがきちんと盛り込まれている。巻末には自然観察や野遊び、野外料理、応急手当てなど、アウトドアをより楽しむためのページがある。

兵庫県地震災害史−古地震から阪神淡路大震災まで

寺脇弘光(神戸新聞総合出版センター)

兵庫県地震災害史−古地震から阪神淡路大震災まで表紙本書は兵庫県下で起こった地震について、平安時代の播磨国大地震から、それぞれの震度や規模、被害状況などをまとめた。江戸以前は各種の地震史料の原文にあたり、明治以後の地震は新聞記事などを丹念に調査した。地震や地震資料に関する基礎知識もわかりやすく解説され、巻末には兵庫県地震災害史年表も付けられている。

県下の地震災害を知るための入門書として最適であり、また、地域の防災計画を考える上で参考となる書である。

虫は友だち−思い出さまざま

大森要(神戸新聞総合印刷)

垂水区在住の著者によって書かれた、虫に関するエッセイ集。

工夫してトンボやセミをとっていた少年時代の話、擬態で有名なナナフシの鳴き声を聞いた時の興奮、また、ハチに自分の肩をチクリと刺させ、肩こりを治す養蜂業者の奥さんに会った話など、話題はバラエティに富んでいる。観察と体験にもとづく文章は、著者がいかに虫好きかをうかがわせる。

提言・大震災に学ぶ住宅とまちづくり

阪神・淡路大震災まちづくり支援機構附属研究会(東方出版)

震災復興の大きな柱は住宅供給だった。より早く、大量に、低家賃の住宅を作り、避難所、仮設住宅からの移住をめざした。いわば緊急に実施された住宅施策や都市計画などを再検討する。

地域再開発事業やインナーシティ問題、マンション関連の諸問題など、新たな状況が生まれ続けている現在、本書には、耳を傾けるべき声が詰まっている。

わが妻恋し−賀川豊彦の妻ハルの生涯

加藤重(晩聲社)

わが妻恋し−賀川豊彦の妻ハルの生涯表紙著者はキリスト教系の横浜共立学園の教師として長年勤務し、定年後、学園史の編集に携わった。その中で、学園の前身、共立女子神学校の卒業生に賀川ハルがいたと知り、調べ始めた。

ハルの夫、賀川豊彦は、肺結核に侵されながらも政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動の創始者的存在であった人。神戸の貧民街に身を置き、人びとの救済を実践する中で、ハルは理想家の豊彦を、その理解者として支え続けた。

ハルや豊彦が遺した著作を引用し、彼女の気高く凛とした生き方を描き出した。タイトルは豊彦からクリスマスに贈られた詩「妻恋歌」から。

さらば愛しき街

柿沢晃(鳥影社)

さらば愛しき街表紙私立探偵の坂田は「ここではないどこか」を求め、事務所をたたんで神戸を離れようとしていた。その矢先、失踪した幼なじみの女性を探す若者の相談にのるはめになる。しかし、三宮の繁華街を調べていた若者は、あるクラブの聞き込みの翌日、射殺されてしまう。「あのクラブには近づかないで」という坂田の行きつけのスナックのママ真知子。その忠告に耳をかさず、探偵坂田は動き始める。冬の神戸を舞台にしたハードボイルド。

暮れ果つるまで−尾崎放哉と二人の女性

小山貴子(春秋社)

暮れ果つるまで−尾崎放哉と二人の女性表紙「咳をしても一人」 の句で知られ、須磨寺に寄寓したこともある漂泊の俳人尾崎放哉は、若き日は東大卒のエリートであり、恋に苦悩する一人の男であった。従兄妹同士であるがゆえ結婚は断念したが、互いへの想いを捨てることはなかった、澤芳衛。結婚生活を13年間で終止符をうった、坂根馨。放哉のそんな日々を、書簡や俳句をもとに克明に浮かび上がらせる。

淀川長治−ぼくの映画百物語

(平凡社)

淀川長治−ぼくの映画百物語表紙この本には、淀川氏がものごころついた頃から愛してやまなかった映画の話が溢れている。淀長節は、記憶の彼方から自由自在に無限に引き出され、まるで不思議な玉手箱を見るかのようだ。また、モノクロ写真や山本容子氏の美しい版画が彩りを添え、魅力的な仕上がりとなっている。

もう1冊の遺作『最後のサヨナラサヨナラサヨナラ』(集英社)は比較的最近の映画についての連載をまとめたもの。「映画は人間探求の教科書」という言葉が説得力を持つ。

映画少年の心を持ったまま89歳の生涯を終えた、希に見る幸福な人生を祝福したくなる。

その他

わが街再発見コーナー

兵庫図書館

日本映画史の幕があがったのは、明治29年(1896)の神戸。その拠点は、当時神戸一の繁華街、新開地でした。その後の歩みは『神戸とシネマの一世紀』(神戸新聞総合出版センター)に詳しく書かれています。

当館では、アミューズメントの一つに「映画」を取り上げ、神戸と映画の関係を語るうえで欠かすことのできない、故淀川長治氏の著作を集めています。

他に氏に関するものとして、淀川長治が遺してくれたこと−映画が人生の学校だった 佃善則(海竜社)などがあります。

ランダム・ウォーク・イン・コウベ 31

大谷光瑞と二楽荘

大正元年11月2日、武庫郡本山村(現在の東灘区岡本)から扇山山麓(現在の甲南大学の北)への道は、大谷光瑞の別荘「二楽荘」の公開を目当てに集まってきた人々で埋まりました。

二楽荘の二楽とは「山と海の2景を楽しむ」という意味です。明治40年、西本願寺22世門主、大谷光瑞は、本山村所有の扇山を買い取り、この眺望のよい土地に二楽荘を建築します。光瑞自らが設計を指揮し、築材は、神戸沖で沈没した英国商船の船材を用いました。赤褐色の外壁と西端にドームを持つインド・イスラム風の本館1階には、英国室、中国室、アラビア室、2階にはインド室、エジプト室がつくられました。そして、山麓から二楽荘本館へはケーブルカーが敷かれました。

大谷光瑞といえば、彼が中央アジアに派遣した「大谷探検隊」が有名です。異国趣味の各部屋には、探検隊が持ち帰った発掘品が飾られました。二楽荘は、巨大な収蔵庫でもあったのです。

山腹を階段状に削った広大な敷地には、本館以外に、光瑞の書斎である含秀居、園芸試験場、温室、印刷所、測候所、光瑞の私塾の武庫中学が建てられました。

光瑞が特に力を入れた武庫中学には、全国の西本願寺の末寺から、約450名の優秀な子弟が集まりました。光瑞自身も教壇に立ち、時には彼らとともに山中を駈け回りました。当時、教団の改革と組織強化を目指していた光瑞にとって、彼らへの教育は将来への布石でもあったのでしょう。

大正元年10月末、光瑞は、それまで占有していた山海の2景を衆人とともに楽しもうと、新聞紙上で、二楽荘の公開を宣伝しました。当時の新聞には、公開時間や道案内をはじめ、履物を入れる風呂敷の持参や、住吉駅や青木駅からの人力車の運賃など、細かい注意が載っています。2日間の公開で、初日は8千人、二日目は2万3千人の人々が訪れ、珍しい建築と発掘品に見入りました。

世間の注目を浴び、時の要人や皇族を賓客に迎えた二楽荘ですが、その歴史は、意外にあっけなく幕を閉じます。

まず、数年来の大谷家の負債処理問題が浮上し、大正3年には、西本願寺の財務をめぐる疑獄事件がおこりました。光瑞は引責で門主を辞任、二楽荘は、同年3 月に閉鎖されました。11月、光瑞は神戸港からアジア放浪の旅へ出ます。主なき後の二楽荘は荒廃し、大正5年、当時、野寄村に豪邸を構えていた実業家久原房之助に、残っていた発掘品もろとも売却されました。当時で16万円とも20万円ともいわれています。

18年後の昭和7年10月18日、二楽荘は不審火で全焼しました。新聞取材に対し、光瑞は「建てるまでは楽しみで、1年もするとなんの愛着も感じなくなるような私の性分」と答えています。光瑞の言葉にはもはやなんの感慨も感じられません。二楽荘を出た後、光瑞は旅順、大連、上海、ジャワなどに別荘を構え、青年教育や農園事業を実践します。彼は、神戸の二楽荘を原点に、日本を越え、アジアで第2、第3の二楽荘を実現させていったのです。

(*現在、二楽荘跡地は私有地となっています。)