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安政5年(1858)、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・フランス・オランダの5カ国と修好通商条約を締結しました。各国は、開港場のひとつを畿内におくことを基本的要求のひとつとしていました。幕府は、大坂開港を避けることを譲歩の限界として、当初堺の開港を考えていました。しかし、堺周辺に皇陵が多いことから、最終的に兵庫に替えられたのです。文久3年(1863)のことでした。 慶応3年(1867)4月13日、「兵庫・大坂居留地に関する取極」十二条が締結され、兵庫開港の準備が本格的に開始されます。このとき、開港場は、兵庫ではなく事実上神戸に変更となりました。その理由は、すでに市街地として発展していた兵庫で開港場に附属する諸施設の設置が不可能であることが挙げられました。しかし、そこには、市街地を避け、外国人と日本人との接触をできるかぎり少なくしようとする幕府の意図がみてとれます。 ![]() 明治5年居留地の地図 居留地の景観 開港が決定すると居留地の造成が始りました。居留地というのは、貿易を行うために一定の境界をもうけて外国人の居住や営業を許可する地域で、日本政府が外国人に貸与するものです。 東は生田川(現在のフラワーロード)、南は海、西側は鯉川(今は鯉川筋という商店街ですが、もとは小さな細い川で、これを暗渠にして道路にしています)、そして北は西国街道と、三方を水で囲まれています。ここにも、日常できるだけ日本人と接触しないように外国人を隔離していこうという発想のあらわれだといわれています。 しかし、行政側の意図に反して庶民は、「異人見物」と称し、外国人が宿泊している宿などに見物に行ったりしている様子が当時の史料からうかがうことができます。もちろん政府はトラブルがおこってはいけないというのでこれを禁止するのですが、一般の庶民は外国人に対して大変興味をもっていたようです。 ちなみに、生田川ですが、居留地造成の当時、生田川の堤防が低かったために少し雨が降るとたちまち川の水があふれでて、居留地内に流れ込んでくるという状態で、外国人たちは困っていたようです。そこで生田川を付け替える計画が持ち上がりました。この工事を請け負ったのが加納宗七という人物です。加納宗七は、紀州藩の御用商人の家に生まれて、紀州藩士・陸奥宗光とともに尊皇運動に随っていましたが、その後神戸に来て材木商を営んでいました。神戸が開港早々で、材木の需要が多く、これで産をなしたようです。 生田川の付け替え工事は明治4年(1871)3月10日に着工し、同6月9日完成しました。
これによって旧生田川の河川敷は埋め立てられ、道路(フラワーロード)と宅地が造成され、市街地の形成に役立ったのです、加納宗七が埋め立てた場所は、彼の姓にちなんで「加納町」と名付けられています。また、フラワーロード沿いの東遊園地の東端には、加納宗七の像があります。 神戸には居留地のほかに、居留地の外側に雑居地とよばれる地域がありました。雑居地は横浜などの他の開港地にはない神戸特有のものです。雑居地はもともと、居留地の造成が遅れ、イギリス・フランス・オランダの三国代表から苦情が出たため、政府が臨時の措置として明治2年(1869)7月に設定したものです。しかし、居留地の完成後も外国側が既得権として雑居地の存続を望んだために維持され続けました。 範囲は、東は生田川、西は宇治川、北は山辺、南は海岸を限りとして、外国人がその範囲で居住することを認め、日本人が外国人に対して土地あるいは家屋を貸してもよいこと、また外国人が家屋を買って普請することも自由となりました。 山手の山麓は、恰好な住宅地として外国人に注目され、明治20年代には山手に多くの異人館が建設されました。北野町周辺にある風見鶏の館やうろこの館など、現在は神戸の観光名所となっています。 (旧トーマス邸 風見鶏の館) 北野町異人館 南京町 (旧 雑居地内) 居留地の北境界にそった雑居地には、清国人が集住するいわゆる南京町が形成されました。これが現在につながる「南京町」です。清国人は条約国人ではないためほんらい居住権をもちませんが、日本政府は入国を拒否できませんでした。 神戸の開港と同時に長崎在住の清国人10数人がただちに神戸にきて、主として海産物を清国に輸出して神戸での経済活動の基盤を築きました。とくに明治30年以降、広東・福建省の人々が大坂から神戸に移住し、神戸での活動がますます活発となりました。中国の人たちは明治20年代以降神戸の基盤産業のひとつとなっていたマッチを、中国をはじめアジアの国々に輸出し、神戸経済の発展の基礎を築きました。また、南京町は、食料品や日用品を売る露店が数多く並んでたいへんにぎやかだったといいます。戦後、一時寂れた時期がありましたが、地元の人たちの町おこしなどによって活気をとりもどし、北野の異人館同様に、神戸の観光地のひとつです。 このように、現在の神戸の観光資源の多くは、近代の幕開けともいえる開港とそれにともなう居留地や雑居地・南京街の形成に、その淵源をみいだすことができます。近代都市としての神戸は、開港とそれにともなうさまざまな事業に支えられて発展してきたのです。 (文責:神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター研究員 人見佐知子)
現在の旧居留地 (三宮 東遊園地) 現在の旧居留地 発展を続ける神戸 兵庫開港の頃の歴史年表抜粋
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