お問合せ・刊行物申込 ホーム
神戸市文書館
利用案内 刊行物 収蔵資料 検索 展示の案内 神戸史跡地図 神戸歴史年表 リンク
展示の案内
過去の展示物
過去の展示物

>>神戸水道の誕生 >>第二次産業 >>第三次産業  >>昔の神戸の写真展  

 「鳴瀧幸恭(初代神戸市長)と鹿島秀麿(元衆議院議員)」

鳴瀧幸恭(初代神戸市長)と鹿島秀麿(元衆議院議員)の図

 神戸市水道建設の歩み(館内展示より抜粋)―写真集)

写真1 (写真左)
水道起工式(明治36年)奥平野浄水場にて

(写真右上)
布引貯水池堰堤工事(明治33年頃)神戸最初の水源地。重力式コンクリートダムとして日本最古であり、現在も使われている

(写真中下)
烏原貯水池(明治34年着工 38年完成)

(写真右下)
砂子橋(明治30年代。水道管路のため架設)

写真2 (写真上)
完成した千刈貯水池堰堤

(写真右下)
上ヶ原送水管布設工事

(写真左下)
奥平野急速ろ過池(現在、水の科学博物館)

 神戸水道の誕生  ―創設への道程― (鳴瀧幸恭と鹿島秀麿)

 明治の開港により急速に発展した神戸であったが、人口急増と国際都市のためコレラ等の大流行に見舞われ、井戸水に代わる上水道の整備事業が急務となっていた。
この大事業の実現のため特に活躍したのが、初代神戸市長 鳴瀧幸恭(なるたき ゆききよ)(1849〜1925)と、初代の衆議院議員でもあった 鹿島秀麿(かしま ひでまろ)(1852〜1932)である。この2人は、実業家としても、多くの足跡を残している。
 神戸の上水道建設は、日本最古の重力式コンクリートダムを百年後の現在にも残す当時の先進的な歴史的事業で、明治期の神戸市三大事業(上水道工事、港湾修築、湊川付替工事)にも数えられている。【新修神戸市史歴史編W「近代・現代」293頁〜】

鳴瀧幸恭(1849〜1925)
 嘉永2(1849)年生まれた。京都仁王寺の寺侍の出身で、戊辰戦争に参加したといわれている。のち、兵庫県に奉職、内海忠勝知事のもとで活躍した。明治20 (1887) 年には神戸区長に就任。のち神戸市初代市長に就任した。鳴瀧の市長就任期は、上水道敷設に尽力し「水道市長」のニックネームで知られる。当時の神戸市は、たびたび伝染病に見舞われ、上水道敷設は神戸区時代からの重要な政策課題であった。鳴瀧は、敷設を時期尚早とする市会議員を説得し、明治30(1897)年第一期工事の竣工をみた。明治34(1901)年に市長退任後は、神戸銀行頭取、兵庫県農工銀行頭取などをつとめている。大正14(1925)年、76歳で死去した。


鹿島秀麿(1852〜1932)
 嘉永5(1852)年に近江国水口に医師大村純道の次男として生まれた。幕末に徳島藩侍医鹿島家の養子となる。その後、藩職を去ったのち、慶応義塾に学ぶ。明治前期に神戸に移住し、明治23(1890)年7月第一回衆議院議員に当選、以後大正期に至るまで合計8回当選、兵庫県を代表する国会議員として活躍する。一方、政界だけでなく、多くの会社の設立に関わった。特に鉄道関係が多かったが、神戸市の水道敷設にもかなり努力しており、神戸の近代化都市化への貢献は大きいものがある。政界勇退後は、神戸市会議員、播但鉄道社長、阪神電鉄や山陽電鉄の重役をつとめた。昭和7(1932)年、81歳で死去した。


 神戸の上水道建設の歴史

 明治33年(1900)4月、神戸水道は日本で7番目の近代水道として給水を開始した。
新神戸駅の北側にある布引貯水池五本松堰堤は創設時に建設されたが、100年を経過しても変わらず神戸市民の生活を支え続け、当時の人々の水道創設への努力を今に伝えている。

 慶応3年(1867年)開港の国際貿易港を擁する神戸に市制が布かれたのは、明治22年(1889年)のことであった。人口の増加による飲料水不足が続く中、明治23(1890年)にはコレラが大流行、1000人あまりの死者を出すに至り、これを契機として水道布設の気運が高まった。神戸市は明治25年(1892)6月、内務省の雇工師であったイギリス人技師W.Kバルトンに水道施設の設計を委託したが、水道布設は巨費を投じる大事業であったため、市民や市会から賛成・反対の大議論が巻き起こった。しかし、明治26年(1893年)7月、市会はとうとう水道布設を可決し、水源を布引谷及び再度谷に求めたバルトンの原設計が今日の神戸水道の出発点となったのである。
 日清戦争により、認可取得は中断を余儀なくされ、明治30年(1897)にようやく創設工事に着工した。計画給水人口25万人・一人一日計画給水量83.5リットル・総工費340万5000円うち国庫補助金68万円の大事業であった。この間の神戸の発展はめざましく、原設計の範囲で工事を進める一方で計画の拡張が必要となった。こうして、バルトンの原設計に佐野藤次郎を始めとした日本人技師が修正を加える形で設計及び工事が進められ、明治33年(1900年)、現在の神戸水道の原形が姿をあらわすことになったのである。


1867〜1893(開港から水道着工まで)

開港とともに日進月歩で発展するまち神戸は近代的水道を必要とした
公衆衛生思想の芽生えと高まる水道布設の機運

 慶応3(1867)年3月神戸港が開港、当時、人々の生活に必要な飲料水をほとんど井戸に頼っていた為、開港後、外国船がもたらしたとされる伝染病(コレラ)を追放する抜本的な対策は講じきれなかった。明治23(1890)年からコレラが大流行した事が契機となり、市会は明治24(1891)年9月水道事業調査委員会を発足させた。委員会は内務省の雇工師であったイギリス人技師バルトンに設計を依頼し、明治26(1863)年7月には、水道創設工事の予算が市会を通過、神戸市に近代的な水道が建設される事になった。


1897〜1905(給水開始−我が国7番目の近代的水道の誕生)

待望の給水開始。市営水道事業のはじまり

 明治30(1897)年5月、奥平野浄水場予定地での起工式を皮切りに工事を着手、計画
給水人口25万人、一人一日計画給水量83.5リットル、総工費340万5000円(うち国庫補助金68万円)の大事業となった。工事は佐野藤次郎博士を中心に進められ、明治33(1900)年3月布引貯水池が完成。4月には待望の給水を開始した。我が国としては7番目の近代的水道の誕生であった。その後烏原貯水池堰堤建設を進め、明治38(1905)年10月水道創設工事全体が完成し竣工式が行われた。


1911〜1921(第一回拡張工事−神戸の拡がりに新たな水源を求めて)

増え続ける水需要、新規水源の調査と施設の拡張はじまる

 明治33(1900) 年、市内7600戸だった水道利用家庭が、明治38(1905)年には2万6200戸に達した為、武庫川支流の干苅川を水源とした貯水池の設計を開始した。著しい市勢の発展、第一次大戦による鉄の高騰等により、幾度となく計画の変更をよぎなくされたが、10年の歳月と1166万円の工費をかけ、5万戸への給水計画、貯水量779万立方メートルを誇る干苅貯水池が、第一回拡張工事として大正10(1921) 年3月に完成した。


1926〜1932 (第二回拡張工事−阪神上水道市町村組合の誕生)

第一次世界大戦が産業をそして神戸を変えた
大戦景気に沸く神戸港、産業の発展は水需要を2倍にした

 第一次世界大戦による大戦景気を迎え、人口が急増した。そのため、大正11年にはすでに給水能力限界量に近い水が使用される状態になっていた。第二回拡張工事は、干苅貯水池堰堤をかさ上げし、貯水量を2倍にする工事のほか、上ヶ原浄水場急速ろ過池の新設工事、須磨方面への給水体制を強化する工事が行われた。大正15(1926)年5月に着工、6年の歳月と、1046万円の工費をかけて、昭和7年(1932)3月に完成した。これにより1日の最大計画給水量が以前の2倍近くの17万1200立方メートルへと増強された。


1941〜1944 (琵琶湖の水を神戸へ)

百万人以上に水を届ける計画に大戦の壁が立ちはだかる
阪神上水道市町村組合による淀川取水工事、そして無念の拡張工事中断

 昭和12(1937)年から16年かけて阪神水道企業団の前身である阪神上水道市町村組合は、淀川を水源にした取水工事を実施し、昭和17(1942)年8月より給水が始められた。これにあわせて神戸市では、篠原量水井から長田区五位ノ池まで送水トンネルの建設工事(第三回拡張工事・計画給水人口119万5000人)に着手したが、昭和16(1941)年12月太平洋戦争に突入、日増しに激化する戦争のさなか昭和19(1944)年12月第三回拡張工事は中断されることとなった。


1951〜1961 (第三回拡張工事−継げよ、延ばせよ)

工事の再開、神戸市西部の水不足解消へ

 終戦の混乱も落ち着きはじめた昭和26(1951)年第三回拡張工事が再開されることになった。着工時の予定より送水トンネルを垂水区名谷村(延長17キロ)まで延ばし、それにあわせて、7つのポンプ場を建設し、送水トンネルそのものを配水池とする工夫がされた。他にも本山浄水場の建設も並行して行われ、第三回拡張工事のうち、再開後の工事費は約19億に達した。


1972〜1996 (北神水道)

昭和42年北神地区に給水開始

 昭和20年代以降、現在の北神地区が神戸市と相次いで合併し、住宅地の大規模開発に伴って水の需要が増大した。その対応策として、昭和38(1963)年度から昭和46年度にかけ(総工費32.5億円・計画給水人口約10万人)北神地区水道拡張工事に着工。干苅貯水池を水源に、有馬町・山田町・道場町・有野町・八多町を対象に、昭和42年から一部給水を開始したが、工事の間も鈴蘭台地区などの開発で都市化進み、水道未普及地区解消のため、昭和47(1972)年総工費284億円で、北神地区24万人に供給するため、北神地区第二回拡張工事に着手。干苅浄水場の増強、大規模開発地域への給水、長尾町・大沢町・淡河町などの未給水地区解消の工事が行われた。その後、北神水道は、平成8年(1996)3月に廃止、同年4月市街地水道事業に統合された。拡張工事も第7回拡張工事に統合され現在に至っている。