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>>神戸の新聞 >>英字新聞(神戸旧居留地関係)

 神戸の新聞
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文書名
神戸新報(複写)
摘要
 明治13年(1880)2月17日創刊。自由民権的な立場に立つ、慶応義塾―交詢社系の新聞。創刊当時は毎月10回、火、金の発行であったが、同年5月2日より隔日発行、14年1月より日刊となった。明治18年(1885)廃刊。明治14年(1881)9月分、明治15年(1882)1〜5月分のみ現存している。
 創刊当時の社主は安倍誠五郎(自由民権運動家、のち県会副議長)で、代表三木善八(のち『郵便報知新聞』社主)、主幹鹿島秀麿(のち県会議員をへて改進党系代議士)、主筆箕浦勝人(兵神交詢社会員、商法講習所所長)らが中心的メンバーである。淡路出身者が多いのは、『淡路新聞』(明治10年創刊の自由民権的な政論新聞)発行のメンバーらが発行の中心となったからである。
 発刊当初は県の後援を得ていたが、明治14年政変ののち、森岡昌純兵庫県権令をはじめとする県上層官僚は政治運動に激しい弾圧をくわえるようになった。一方で、安倍・鹿島らが改進党へ入党、『神戸新報』も明治15年3月にはみずから改進党の機関紙となることを宣言した。これに対して県は、同年5月『神戸新報』記者の県庁立ち入りを禁止し、6月には県庁印刷物引き受け業務を取り上げた。その後も発行停止や編集長の投獄が続き、しだいに発刊が難しくなっていった。
 そのようななかで、県会議員を中心に新たな新聞発行がめざされていく。明治16年(1883)11月12日、新聞発行と印刷業のための会社として五州社が設立され、明治17年(1884)5月19日『神戸又新日報』が創刊された。『神戸新報』は五州社設立時から『又新』への吸収が問題となっていたが、明治18年(1885)初頭、『神戸新報』の社主となっていた鹿島から吸収合併案が出され、5月20日付をもって廃刊し、24日から『又新』に吸収された。三木善八は営業部長、鹿島は論説担当として『神戸又新日報』に入った。
備考
・閲覧可
・原本は神戸市立中央図書館
・上記は奥村弘「開港場・神戸からみた「アジア」―『神戸又新日報』を中心に―」(古屋哲夫編『近代日本のアジア認識』緑蔭書房、1996)を参考にした。


文書名
神戸又新日報[こうべゆうしんにっぽう](複写)
摘要
 明治17年(1884)5月19日第1号創刊。ただし、創刊号は未発見で、明治17、18年の多くは欠紙である。発行元の「五州社」は、摂津・播磨・淡路・丹波・但馬の五州を意味する。創刊当時の「神戸又新日報」の題字は尾崎行雄が書いたといわれている。当初、立憲改進党系の政論新聞として出発したが、のちに報道第一主義に転換し、紙数をのばした。
 大正期には、溝口健二(戦後「雨月物語」でベニス国際映画祭「銀獅子賞」を獲得)が、広告図案や挿し絵を描いた。大正10年(1921)の川崎・三菱造船所の大争議では、川崎資本の『神戸新聞』が事実の報道にとどめたのに対し、『神戸又新日報』は労働者の側に立ち積極的にストを支持するなど特色あるうごきをしめした。
 昭和にはいると経営者の相次ぐ交代や経営方針をめぐる内紛で経営基盤が不安定となり、発行部数も激減した。昭和14年(1939)6月30日、戦時下の新聞統制(「一県一紙」)により19131号をもって休刊となった。
 近代史料のうち新聞は、地域社会の近代化の過程をリアルタイムで記録したものとして、地域の動向を捉えるのに欠くことのできない史料である。とくに、明治20年代の市域の動静を伝える新聞で、神戸を基盤に発行されまとまって現存する新聞はほとんどなく、貴重な史料である。
 当館では、現存する明治19年(1886)年1月分以降、休刊の昭和14年までの閲覧が可能である。
備考
・閲覧可
・原本は神戸市立中央図書館
・上記は、『兵庫県大百科事典』上(神戸新聞出版センター、1983)、西松五郎「『神戸又新日報』略史」(『歴史と神戸』第18巻第2号、1979・4)、若林泰「五州社の創業と役員について」(『歴史と神戸』第17巻6号、1979・4)、奥村弘『兵庫県における改進党系政治運動の展開過程―兵神交詢社を中心に―』(神戸市史紀要『神戸の歴史』第20号、1990・2)、『兵庫県百年史』(兵庫県、1967)などを参考にした。


文書名
神戸日報(複写)
摘要
 明治23年(1900)6月創刊。自由党系の代議士高瀬藤次郎らが関西における自由党の機関紙として発刊。当初は『愛国新聞』と称された。日刊(週1休刊)。4頁だて、6段組。廃刊の時期は不明である。明治25年(1902)1、2、5、6月、明治26年(1903)5、6月のみ現存している。
 発行兼印刷人は内藤数之助、のち筧政平、編集長は芝本貞治、のち土肥浅次郎であった。発行所は神戸市相生町の神戸日報社。紙面構成は『神戸又新日報』に非常によく似ており、同時期『又新』が政論新聞としてのあり方を変更し、中立主義をかかげて再出発した経緯があり、新たに政論新聞の発行が目指されたのではないかと考えられるが詳細は不明である。
 明治25年(1902)1月10日付社説では、『神戸又新日報』を御用新聞であると批判するなど、気炎を上げた。同21日には、法律博士櫻井一久を社監とし、元『神戸又新日報』主筆村上定を主筆に迎え、同じく元『神戸又新日報』社主河合香を庶務管理に据える。しかし、それからわずか10日後の2月1日付社説で編集方針を変更することを読者に伝え、不偏不党の中立主義に立つことを宣言した。そのため、主筆の村上定や自由党代議士高瀬藤次郎らが神戸日報社と絶縁するにいたった。以降、廣津柳浪の小説を新聞の長期購読者に配布するなどして、販売促進に力を入れるようになった。しかし、村上らとともに神戸日報社を退職した土肥浅次郎が編集長に就任した明治26年(1903)ころから論説の掲載が増え、政論新聞としての性格はふたたび強まった。
備考
・閲覧可
・原本は神戸市立中央図書館
・上記は、「神戸と新聞―明治前期―」(『市史編集ノート』第2集、神戸市史編集室、1960)、『兵庫県百年史』(兵庫県、1967)を参考にした。


文書名
神戸新聞(マイクロフィルム)
摘要
 明治22年(1889)7月創刊の立憲改進党系の政論新聞。菊版4頁。東川崎町の神戸新聞社から発行。明治31年(1898)創刊の『神戸新聞』とは同名異紙である。明治23年(1891)12月末廃刊。明治22年(1899)10〜11月、明治23年(1890)1〜7月のみ現存している。当館ではマイクロフィルムで閲覧可能。
 市域では、もともと兵庫県改進党の機関紙を標榜する『神戸又新日報』が存在したが、同紙は明治21年(1898)ころから三大事件建白運動・大同団結運動に積極的に加わるようになり、同年末には大同派の機関紙のようになった。これに対して、改進党の鹿島秀麿らは『又新』を離脱し、明治22年(1899)秋、政友社をつくり、隔週の雑誌『政友』を発行した。さらにこれを基礎として『神戸新聞』を創刊し、『神戸又新日報』に対抗した。明治23年の発行部数は1,215,783部で、『又新』の996,867部を凌駕したが、明治23年末には廃刊となった。
備考
・閲覧可
・原本は神戸市立中央図書館
・上記は、奥村弘「開港場・神戸からみた「アジア」―『神戸又新日報』を中心に―」(古屋哲夫編『近代日本のアジア認識』緑蔭書房、1996)を参考にした。
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