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>>神戸の新聞 >>英字新聞(神戸旧居留地関係)

 英字新聞(神戸旧居留地関係)
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文書名
ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド(The Hiogo and Osaka Herald)(複写)
摘要
 神戸で最初の英字新聞であり、兵庫開港の3日後であった1868年1月4日(旧暦:慶応3年12月20日)に、横浜の「ジャパン・ヘラルド(The Japan Herald)」の社主、A.T.ワトキンス(A. T. Watkins)によって創刊された。同紙は週1回土曜日の発行の週刊紙であった。定価は月額で2ドル(メキシコドル)、ページ数は最初4ページであったが2年後には8ページとなった。創刊後は、T.W.マーサー(T.W.Mercer)、さらにC.オックスレー(C.Oxley)が編集者となったが、明治2年(1869)には神戸で弁護士を開業していたイギリス人フレデリック.M.クルッチェリー(Frederic.M.Cruchley)がこれを買い取って経営にあたった。さらに、同年4月17日からA.H.ブラックウェル(A.H.Blackwell)が編集者兼支配人として運営にあたった。
  「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」の記事は、居留地会議(会議録)をはじめ、居留地の工事(街路・照明・行事局庁舎など)・保健衛生・警察消防・娯楽(競馬、演劇など)、領事裁判・商業情報・領事館の布告・日本の国内情勢・本国情報、宣伝・広告などである。米国以外の在日外国公館の布告公示の権利を認められるなど比較的有利な条件のもと発行していたが、のちに販売競争を繰り広げていた「ヒョーゴ・ニューズ(The Hiogo News)」にしだいに押され、しばらく不安定な経営を続けたのち、廃刊となった。
 廃刊の時期には(1)明治4、5年(1871、1872)説、(2)明治8年(1875)説があるが、伊吹順隆氏は、伊東巳代治がこの新聞社に入社したのが明治6年(1873)3月であり、伊東が兵庫県六等訳官となったのがその年の8月8日、その後も新聞社との間で交渉がもたれていることから、(2)明治8年説をとられている。同紙は、外国人たちが収集した、あるいは提供したい情報が凝縮されており、彼らが日本の情勢をどうみていたか、外国人居留地でどのようにすごしていたかなど、この時期における居留地の様相の一端をうかがい知ることができる。
 当館では1868年2月〜1870年3月分について閲覧できる。
備考
・原本は天理大学附属天理図書館、神戸市立博物館
・上記については、「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド(一)」『神戸市史紀要神戸の歴史』(第4号,1981)、伊吹順隆「神戸と新聞−明治前期−」(『市史編集ノート』第2集,神戸市史編集室,1960)、堀博・小出石史郎共訳・土居晴夫解説『ジャパン・クロニクル紙ジュビリーナンバー 神戸外国人居留地』(神戸新聞総合出版センター,1993)を参照した。


文書名
ヒョーゴ・ニューズ (The Hiogo News)
ヒョーゴ・シッピングリスト (The Hiogo Shipping List)(複写)
摘要
 「ヒョーゴ・ニューズ(The Hiogo News)」「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド(The Hiogo and Osaka Herald)」の植字工であったポルトガル人フィロメノ・ブラガ(Filomeno Brage) が1868年4月23日に創刊した。毎木曜日に1回発行され、定価は月額2ドル(メキシコドル)であった。同紙は米国領事館の公示掲載紙に指定されている。「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」と熾烈な販売競争がおこなわれたが、当初は「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」紙が優勢であった。この後経営は転々としていたが、長崎で「ナガサキ・タイムズ(Nagasaki Times、1868年創刊の週刊英字新聞紙)」を発行していたフランク・ワルシュ(Frank Walsh)が発行責任者となり、W.J.ジョンソン(W.J.Jhonson)が編集者となった頃から形勢は徐々に逆転してきた。水・土の週2回発行となり、「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」を凌ぐようになった。「ヒョーゴ・ニューズ」は紙面を斬新で読みやすく、充実したものに改革した。また船舶の出入港表(「The Hiogo Shippning List」)を月1ドル、隔日での発行をはじめた。こうして「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」の廃刊後は神戸の英字新聞として独占的な地位を占め、明治10年(1880)1月3日には日刊紙となった。これにより「ヒョーゴ・ニューズ」は横浜の「ジャパン・ヘラルド(The Japan Herald)」などとともに日本における代表的な外字新聞と称されるようになった。
 しかし、明治14年(1881)4月29日に新たに日刊「コーベ・ヘラルド(The Kobe Herald)」 が出現、明治24年(1891)10月2日には「ヒョーゴ・ニューズ」 に対抗して日刊「コーベ・クロニクル(The Kobe Chronicle)」 が創刊され、三紙対立の時代に入る。そして「ヒョーゴ・ニューズ」 はこの「コーベ・クロニクル」との競争に敗れ、コーベ・クロニクルの ロバート・ヤング(Robert. Young)に買収されて「ヒョーゴ・イブニング・ニューズ(The Hiogo Evening News)」と改題(夕刊)した。しかし、まもなく火災で全焼、「コーベ・クロニクル」 に合併された。(明治38年(1905)1月)
 当館ではヒョーゴ・ニューズ1868年4月23日〜1871年/1876年〜1888年、ヒョーゴ・シッピングリスト1875年〜1879年までの分について閲覧できる。
備考
・原本は天理大学附属天理図書館、神戸市立博物館
・上記については、「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド(一)」『神戸市史紀要神戸の歴史』(第4号,1981)、伊吹順隆「神戸と新聞−明治前期−」(『市史編集ノート』第2集,神戸市史編集室,1960)、堀博・小出石史郎共訳・土居晴夫解説『ジャパン・クロニクル紙ジュビリーナンバー 神戸外国人居留地』(神戸新聞総合出版センター,1993)を参照した。


文書名
コーベクロニクル(The Kobe Chronicle)
ジャパンクロニクル(The Japan Chronicle)(複写)
摘要
 イギリス人R.ヤング(R. Young)が創刊。英国の利権擁護の立場を基調としていた。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン=Lafcadio Hearn)も一時、記者として在籍した。また、英語教育家の第一人者であり、「ジャパン・メイル(Japan Mail、横浜の外字新聞)」の寄稿家であったW.B.メイソン(W.B.Mason)ほか著名な文筆家が多く筆をとっていた。明治32年(1899)7月、紙名を「ジャパン・クロニクル」と改題。改題当時の紙面は朝刊8頁であった。このころから同紙は一地方紙の域を脱して、日本における外字新聞のなかで一時最大発行部数を誇るまでに成長した。しかし、昭和14〜15年(1939〜1940)に日本で起こった激しい排英運動の影響であろうか、新聞の外国人経営が認められず、昭和15年12月「ジャパン・タイムズ」が経営権を獲得し、発行を続けていた。しかしその後、新聞の戦時統制で「ジャパン・タイムズ」に吸収合併された。
 当館では、コーベクロニクル1897年7月3日〜1901年12月31日、ジャパンクロニクル1902年1月8日〜1912年12月26日分について閲覧できる。
備考
・閲覧可
・原本は東京大学法学部明治新聞雑誌文庫
・上記については、「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド(一)」『神戸市史紀要神戸の歴史』(第4号,1981)、伊吹順隆「神戸と新聞−明治前期−」(『市史編集ノート』第2集,神戸市史編集室,1960)、堀博・小出石史郎共訳・土居晴夫解説『ジャパン・クロニクル紙ジュビリーナンバー 神戸外国人居留地』(神戸新聞総合出版センター,1993)を参照した。

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