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2008.2.20up
「山田出張所文書」の
「管領斯波義将施行状」

管領斯波義将施行状(しぎょうじょう)
斯波義将施行状 拡大画像 史料を読む※PDF
 本文書は、神戸市文書館架蔵の「山田出張所旧蔵文書」のうちの一通です。「山田出張所旧蔵文書」は、かつて神戸市北区役所の山田出張所(現山田連絡所)に保管されていた文書群で、近世文書の一部は、すでに『歴史編III近世』の中で活用されています。しかし、中世文書である本文書は、『歴史編II古代・中世』の編集中断によって、活用されないまま、忘れられた存在となっていましたが、このたびの編集再開に伴う館架蔵文書群の再調査によって、ようやく日が当てられることになりました。
斯波義将花押 本文書は、同じく「山田出張所旧蔵文書」に含まれる、応永5年(1398)4月11日付の室町幕府(むろまちばくふ)三代将軍〈応永5年当時はすでに将軍職を退き、実質上の最高権力者〉足利義満(あしかが・よしみつ)の下知状(げちじょう)(写)と一対になるものです。応永3年ころから始まった山田荘(やまだのしょう)(*1)と隣接する押部荘(おしべのしょう)(*2)・淡河荘(おうごのしょう)(*3)の荘界をめぐる争いの際、義満が、下知状によって山田荘の四至(しいし)(東西南北の境界)を定め、押部荘・淡河荘による侵犯の禁止を命じたのを受けて、将軍の補佐役にあたる幕府管領(かんれい)・斯波義将(しば・よしゆき)が、山田荘が属する摂津国(せっつのくに)の守護・細川満元(ほそかわ・みつもと)に対して、その命令の執行を伝達しています。義満の下知状は江戸時代以降の写しですが、こちらは義将の花押(かおう)(手書のサイン)が据えられた、室町時代の武家文書の原本として、大変貴重なものです。
 ところで、こうした荘園(しょうえん)同士の争いの裁決に関する文書は、荘園の領主に与えられ、通常はそこに伝来することになります。本文書についても、山田荘の領主であった京都の醍醐寺(だいごじ)(文書の文面では山田荘は「六条八幡宮(ろくじょうはちまんぐう)領」となっていますが、同社〈現若宮(わかみや)八幡宮。京都市東山区〉は鎌倉時代から醍醐寺の管轄下にありました)に写しが残されていることが知られており(*4)、かつて同寺にあったことは確実です。よって、本文書の発見は、不明だった原本の所在を明らかにした一方で、これがいつどのようにして醍醐寺から山田荘現地にもたらされたのか、という新たな謎を生じさせることになりました。この点については、中世以来の山田荘の名家で、荘官(しょうかん)(荘園の現地管理にあたる役職)を務めたといわれる栗花落(つゆ)家に、義満の下知状の写しとともに、本文書の写しが残されていることが注目されます(*5)。あるいは、同家がいずれかの時点で本文書(と義満の下知状も?)を醍醐寺から譲り受け、地元に伝えたのかも知れません。さらなる検討が待たれるところです。
証拠番号部分 なお、本文書を含む「山田出張所旧蔵文書」は、明治8年(1875)から9年にかけて山田荘と南麓の町村の間で行われた中一里山(なかいちりやま)(六甲山地の西部にあたり、山田荘の南部をしめる東西に長い林野。江戸時代、南麓の町村は、山手(やまて)〈入山料〉を納めて利用していました)の所有権を巡る訴訟(*6)の際、裁判所に証拠として提出された文書を始めとする訴訟関係文書が大半を占め、他にも、江戸〜明治時代の、中一里山の所有権の根拠となるような文書が集められています。本文書も、証拠文書の一つとして提出されており、文書の表に、証拠番号である「第貳(壹を訂正)号」や、大阪上等裁判所(当時)判事の署名・捺印等が朱で生々しく記されているのが印象的です。室町時代の文書が、明治時代の裁判で証拠として提出され、採用された事実に驚かされます。先の伝来の問題とあわせて、本文書は、実に数奇な運命をたどった文書といえるでしょう。

 註
(*1) 摂津国八部郡(やたべぐん)にあった荘園。現在の北区本区・山田町付近。本文に戻る
(*2) 播磨国明石郡にあった荘園。押部保(おしべのほ)ともいう。現在の西区押部谷町付近。本文に戻る
(*3) 播磨国美囊郡(みのうぐん)にあった荘園。現在の北区淡河町付近。本文に戻る
(*4) 『兵庫県史』史料編中世七所収『醍醐寺文書』七六号。本文に戻る
(*5) 『兵庫県史』史料編中世一所収『栗花落家文書』一号・二号。本文に戻る
(*6) 『新修神戸市史』産業経済編I第一次産業132〜136頁参照。本文に戻る

(新修神戸市史執筆委員・森田竜雄)