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2007.2.2upNew
市史の調査で新たに判明した
淡河石峯寺関連史料

(1)石峯寺について
三重塔(室町時代) 神戸市北区淡河(おうご)にある石峯寺(しゃくぶじ)は、現在は高野山真言宗の寺院で、本尊は延命地蔵です。寺伝によれば、白雉2年(651)、法道仙人によって開基し、天平19年(747)には行基によって薬師堂が、さらに弘仁14年(823)には三重塔が建立されたとされます。 現在は竹林寺と十輪院の二つの子院が残りますが、かつては多くの子院を有していました。江戸時代の絵図では岩本坊など23の子院の存在が確認できます。
 今回、新修神戸市史の調査では、石峯寺の史料に加え、これまで調査されていなかった子院の竹林寺・十輪院の史料を調査し、その結果、中世の古文書を含む新出史料が見つかりました。ここでは、中世のものを中心に新出史料を紹介します。

(2)新出史料の紹介

〈石峯寺僧某勧進帳〉
永徳3年(1381) 南北朝時代 石峯寺所蔵
石峯寺僧某勧進帳
拡大画像
 金泥を塗った紙に書かれた文書です。もともと三枚が貼り継がれていたものですが、現在は糊がはがれて、三枚に分かれています。また、金泥の上に文字を書いたためか、かなりの箇所で墨が消えてしまい、文字が判読しにくくなっています。このため内容が十分に読み取れませんが、読み取れる文字の中に経典の名称や「補闕文修復」などの文字が見えることから、おそらく経典の修復事業をおこなうにあたって、費用を集めるための趣意書のようなもの、いわゆる勧進帳ではないかと推測されます。

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〈阿闍梨讃琉ヵ荒野寄進状〉
永和4年(1378) 南北朝時代 竹林寺所蔵
阿闍梨讃琉ヵ荒野寄進状拡大画像 史料を読む※PDF
 堀越にある荒野を石峯寺に寄進した寄進状です。寄進者の名前は虫食いにより判読しづらい部分もありますが「阿闍梨讃琉」と推定されます。「阿闍梨(あじゃり)」とは密教寺院における僧職のひとつで、石峯寺では延文2年(1357)に経尊という僧が後光厳天皇から、これに任じられていることが、石峯寺文書からわかります。讃琉も、あるいは石峯寺の住僧の一人であったかもしれません。
 なお、荒野とは開発されていない土地のことをいい、開発によって田畠になったり、あるいは溜池や放牧などにも利用されました。堀越の場所については未詳です。

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〈某貞家・某家綱連署書状〉
享徳2年(1453) 室町時代 竹林寺所蔵
某貞家・某家綱連署書状拡大画像 史料を読む※PDF
 貞家と家綱という人物が、石峯寺に宛てて出した書状です。この書状の出された享徳2年は、嘉吉の変(かきつのへん=播磨守護の赤松満祐が将軍足利義教を殺害した事件)により、赤松氏が播磨守護職を失い、山名氏が播磨守護を務めていた時期にあたります。このため、差出人である貞家と家綱は山名氏の関係者であると考えられますが、詳しくは不明です。  書状の内容は、石峯寺領の百姓が、石峯寺に納める年貢や公事(くじ=雑多な税)の納入をサボタージュしたため、石峯寺が、おそらく山名氏に訴え出て、山名氏から命令が下された結果、百姓たちが納入を請け合って、石峯寺にとっては一件落着となり、これに対して貞家と家綱が祝意を示したものです。この地域の農民の動向がわかる貴重な史料です。

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〈赤松政秀判物〉
文明6年(1474) 室町時代 竹林寺所蔵
赤松政秀判物拡大画像 史料を読む※PDF
 この文書は、江戸時代に書かれた「微考録」の中に書き写され、それによって存在を知られていましたが、今回新たにその原文書が見つかりました。「微考録」には、ほかにも関連文書が写されており、この文書が出された経緯がわかります。
 石峯寺は勅願所(天皇のために祈祷をおこなう寺)として、臨時の課役(税)を免除される特権を得ていましたが、近隣の領主・淡河越後守が臨時課役を賦課してきたため、寺僧が寺から退去するという事件が起きていました。このため播磨国の守護である赤松氏は、淡河越後守の行為をやめさせ、寺僧に寺に戻るよう命じています。差出人の赤松政秀は守護の有力な一族です。

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〈下神田村北畑田地手継証文写〉
正平7年(1352)以降 南北朝時代 十輪院所蔵
下神田村北畑田地手継証文写拡大画像 史料を読む※PDF
 淡河の下神田(しもこうだ)村北畑にある田地の売券(売却の証文)です。その土地が転売されるたびに新しい証文が貼り継がれますが、こうした一連の売券を「手継(てつぎ)」と呼びます。この史料は、その手継を筆写したもの(写)です。前後の紙が失われ、正平七年の売券の全文と、その前の 売券の最後の部分と、次の売券の冒頭部分だけが残っています。
 紙の継ぎ目の裏に、紙の差し替えなどを防ぐための花押(かおう=本人であることを示す記号。サインのようなもの)があり、写といっても単なる控えではなく、この写自体が一定の効力を有するものであったと考えられます。

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〈石峯寺絵図〉
寛政3年(1791) 江戸時代 竹林寺所蔵
石峯寺絵図
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 この石峯寺絵図は、石峯寺の院主・十輪院が、子院や寺院施設の面積などを書き上げて、寺社奉行に申告した文書に添付されたものです。子院については「跡」という記載が目立ち、すでにこの時点で多くの子院がなくなっていたようです。しかし、現在でも跡地の田には子院の名称が残り、当時の様子をしのぶことができます。
 また、仁王門の脇には「制札」と表記があり、「筑秀公」と記載されています。「筑秀公」とは羽柴筑前守秀吉(のちの豊臣秀吉)のことを指しています。石峯寺には、秀吉が出した、軍勢の乱暴狼藉などを禁じる制札(せいさつ=領主権力が木の板に権利の認定や禁止事項などを書き記したもの)の写が残されていますが、絵図は、これが江戸時代にも掲示されていたことを示しています。なお、制札の写には秀吉の署判(署名と花押)がありませんが、江戸時代に書かれた「微考録」に、この制札の写があり、そこには秀吉の署判が筆写されています。

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