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特集 歴史編2 古代・中世

2006.10.30upNew
新たに公開された
京都大学総合博物館所蔵「宝珠院文書」と神戸

(1)「宝珠院文書」とは
 2006年3月、京都大学総合博物館が所蔵する、中世から近世にかけての、760通あまりの東大寺の関係史料からなる「宝珠院文書」(ほうしゅいんもんじょ)が公開されました。この「宝珠院文書」とは、同じく京都大学総合博物館蔵の「法華堂文書」、東大寺図書館蔵の「宝珠院記録」とともに一括で東大寺の塔頭、宝珠院に伝来した文書と考えられています。中世から近世にわたり、東大寺の実態を伝える、あまり例のない史料といえ、その規模ともあいまって、学界で大きな注目を集めています。

(2)神戸市域と「宝珠院文書」
 760通もの新史料が得られたわけですから、色々なことが明らかとなりました。京都大学では公開と同時に報告書を発表し、鎌倉時代における東大寺から朝廷への訴訟や、室町時代の東大寺領荘園の管理の様子を明らかにしています(*1)
 ここではその報告書の中から、熊谷隆之氏の論文「摂津国長洲荘悪党と公武寺社」を参考に、尼崎を中心に兵庫関など、西摂津で活動した悪党に関する史料から、楠正成(くすのき・まさしげ)や赤松円心(あかまつ・えんしん)といった、摂津・河内・大和等の悪党たちについて、新たにわかったことをご紹介します。

(3)兵庫関を襲撃した悪党たち
 延慶元年(1308)東大寺は、兵庫関において、年貢米のうち一石あたり一升の「升米」、および湊を修築する「置石」のための津料を徴収する権利を獲得しました。
 もともと津料というのは、港湾修築・整備のためにそれを利用する船舶から費用の合力をうけるという公共的性格をもっていました。しかしこの時期、朝廷は寺社造営費用助成のために、津料の徴収権を特定の寺社に認めるようになったのです。特に兵庫関の場合は、普通は期限つきであるのを無期限に徴収が認められ、かつ免除が認められているはずの年貢船でも例外なく徴収され、そして余剰は東大寺の収入となる、という非常に特権的なものでした。(*2)
 これに対して、瀬戸内海を行き来する商人たちは敵意を高めたのでしょう。応長元年(1311)と正和四年(1315)に、悪党たちによる兵庫関の襲撃事件がおこったことが知られています。

(4)長洲悪党教性
 さて、正和四年(1315)に兵庫関を襲撃した悪党九十余名のなかに、「江三」という尼崎の住人がいました。彼は、嘉暦元年(1326)に鴨御祖(かものみおや)社領長洲御厨(ながすのみくりや)の代官・沙汰人(さたにん)・番頭等起請文(きしょうもん)(*3)のなかに長洲御厨番頭の一人として署名している、「江三入道教性」と同一人物とされています。彼はまた、長洲の地をめぐる鴨御祖社と東大寺の対立の中で、嘉暦四年(1329)に東大寺雑掌(ざっしょう)を殺害した「悪党人」としても有名です(*4)
 今回の新史料からは、その教性が元徳二年(1330)に東大寺領長洲荘へ、大和・河内・摂津国の悪党とともに乱入していたことがわかりました。教性一党の追捕(ついぶ)を命じられた斉藤某の請文(報告書)(*5)に、元徳二年(1330)9月に長洲荘に乱入した大和・河内・摂津国の悪党約四十名の名前が記されており、当時の悪党同士の広範なつながりが明らかとなったのです。

(5)平野将監入道
 このなかで注目すべきは河内国の「平野将監入道」(ひらの・しょうげんにゅうどう)という人物です。詳細は省略しますが、今回の新史料によって、彼が持明院統(じみょういんとう)に近侍する西園寺家(さいおんじけ)の家人(けにん)として一定の地歩を京都に築いていたこと、その一方で大覚寺統(だいかくじとう)ゆかりの僧と関係があり、彼を通じて長洲荘乱入中止の申し入れをうけた際に、多額の裏金を請求し、それが拒否されたためにて乱入に加わっていたことが明らかとなりました。交通の要衝平野の地を苗字にもつ彼は、諸方の悪党と組んで各地を闊歩していたのです。
 実はこの「平野将監入道」ですが、『太平記』をみると、より有名かつ重要な戦場に登場していた人物なのです。正慶元年(1332)末、楠正成は倒幕の兵を挙げ、翌年二月には河内国千早・赤坂の両城に籠り、幕府の大軍を前に奮闘します。千早城城主はもちろん楠正成。そしてもういっぽうの赤坂城主こそ、この平野将監入道なのです。さらには他の史料からも、楠正成と平野将監入道の連携は、これ以前からはじまっていた可能性がある、と考えられています。
 それほどの実力を有した「平野将監入道」ですが、『太平記』によると、赤坂落城後、投降した城兵282人は京都六条河原で残らず処刑されたといいます。もしも生きながらえていれば、彼もまた正成と同様、南北朝時代史の表舞台に、その名を残したにちがいありません。
 新史料の発見により、今まで「研究上では一顧だにされぬ存在」であった「平野将監入道」が、畿内近国に名の聞こえた「名誉悪党」であったことが明らかになったのです。

(6)楠正成と赤松円心
 そして、新史料において「長洲悪党」教性と、平野将監入道との連携が明らかになったことが、楠正成の挙兵以前にかかわるもう一つの問題をうかびあがらせます。教性は、前に書きましたとおり鴨御祖社領長洲御厨の番頭です。そして番頭の上位、沙汰人の地位には赤松円心の息子とされる範資(のりすけ)と貞範(さだのり)がいたのです。つまり、楠正成―平野将監入道―江三入道教性―赤松範資・貞範―赤松円心とつながる人脈が存在した可能性がうかびあがったのです。
 平野将監入道と江三入道教性、二人の連携があきらかになったことにより、楠正成と赤松円心という、南北朝時代を代表する二人の人物とを結びつける人脈が存在した可能性が浮上してきたのです。

(7)おわりに
 以上のように、新しい史料、宝珠院文書の公開により、神戸市域にかかわる、歴史上の人物どうしの人脈の存在があらたに明らかになったことをご紹介しました。新しい史料によって分かることは断片的であることが多いですが、他の既に知られた史料と組み合わせることにより、非常に豊かな歴史像がうかびあがってくる様子がおわかりいただけたでしょうか。なお、この宝珠院文書に関する京都大学の報告書は神戸市文書館に一部ございますので、より詳細なことをお知りになりたい場合は、ご来館いただければ閲覧が可能となっております。
 より豊かな中世の神戸市域の様子を明らかにするために、現在、新修神戸市史中世編編纂委員会では、神戸市内の中世史料の調査をおこなっています。みなさまのご協力をお願い申し上げます。

 註
(*1) 平成15〜平成17年度科学研究費補助金研究成果報告書『中世における内部集団史料の調査・研究』(課題番号 15320084) 研究代表者 勝山清次。なお、この報告書は神戸市文書館で閲覧することができます。本文に戻る
(*2) 戸田芳美「鎌倉時代の尼崎」(『尼崎市史 第一巻』第四章第一節、1966)。本文に戻る
(*3) 『鎌倉遺文』38巻29610号文書(東京堂出版)。本文に戻る
(*4) 『兵庫県史 史料編 中世五』摂津国猪名荘・長洲荘、55号文書。本文に戻る
(*5) (*1)報告書史料翻刻編、宝珠院文書 平安・鎌倉時代分、147号文書。本文に戻る

(新修神戸市史専門調査員・伊藤啓介)

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