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源平特集
源義経の生涯 (前)
源義経の生涯 (中)
源義経の生涯 (後)
源義経の生涯
 源義経の生涯 (前)
  義経は、平治元年(一一五九)、清和源氏の棟梁、左馬頭・源義朝の九男、末子として生まれた。母は九条院の雑仕・常盤である。幼名を牛若といい、同腹の兄に今若(のち全成)と乙若(のち義円)がいるが、頼朝や範頼には異母弟に当たる。 誕生した平治元年十二月に、父・義朝は平治の乱を起こして敗死した。乳呑児であった義経は、母・常盤の懐に抱かれて惨めな都落ちをした後、母や兄たちとともに平家に囚われの身となるが、清盛の愛を受け入れた母の愛情によって辛うじて死を免れ、八歳の年に洛北の鞍馬寺に預けられる。 『義経記』によると、このころ彼は遮那王と呼ばれ、父・義朝の祈りの師であった東光坊の阿闍梨蓮忍のもとで学問に励み、はじめは、鞍馬寺の本尊・多聞天の御宝のように人々から崇められる人になるに違いないと期待されたが、やがて、源氏の旧臣・少進坊から自分の素性を知らされ、平家打倒を志して密かに武芸に励むようになる。そして、鞍馬に参詣した金商人・吉次の誘いによって鞍馬を脱出、陸奥の平泉に勢威を張る藤原秀衡を頼って奥州に下ったという。


         
  こうして奥州に潜伏して少年の日々を過ごした義経は、二十二歳の治承四年(一一八〇)八月、兄・頼朝の挙兵の報を聞くと、平家打倒の宿願を果たす好機と喜び勇んで戦場に駆けつけ、駿河国の黄瀬川で兄・頼朝との感激の対面を遂げる。 義経の歴史上の活躍は二十六歳の時から始まる。『平家物語』によると、寿永三年(一一八四)一月、異母兄の蒲冠者・範頼とともに木曾義仲の追討を命じられた義経は、搦手の大将軍として二万五千余の軍兵を率い、宇治の義仲軍を破って、義仲を琵琶湖畔・粟津の松原に討ち取った。 そして翌月、平家との一ノ谷の合戦でも、再び搦手の大将軍として一万余騎を従えて丹波路を進軍、平資盛らの守る三草山の前哨陣地を夜襲で撃破し、侍大将の土肥実平に
主力を預けて一ノ谷を西から攻撃させるとともに、自らは精兵三千を率いて密かに敵陣を背後に回り、いわゆる「鵯越の坂落し」の奇襲によって平家の陣営を撹乱、源氏を圧勝に導くなど、卓抜した指揮官、名将としての戦いぶりを見せ、人々の目を見晴らせた。
(→ 「源義経の生涯 (中)」に続く)


(出典:神鉄観光且幕ニ部 すずらん編集室発行・野村貴郎氏著「源義経 鵯越の逆落し」)