お問合せ・刊行物申込 ホーム
神戸市文書館
利用案内 刊行物 収蔵資料 検索 展示の案内 神戸史跡地図 神戸歴史年表 リンク
一ノ谷の合戦
一の谷の合戦 (前)
一の谷の合戦 (後)
一の谷の合戦 〜義経・鵯越の坂落し
 一の谷の合戦 (後)
  このように、義経の「坂落し」場所は断定し難いが、管見を述べるなら、義経の「坂落し」は、平家の山の手軍(鵯越の麓)の背後に一挙に抜けるための奇策ではなかったかと思う。平家の山の手の防備軍を正面から攻撃するのではなく、背後に出て攪乱し、一ノ谷の搦手軍(土肥実平に預けていた自軍)を援護する策を採ったと考えるのである。その正否は読者諸氏の判断に任せるとして、ともかく、寿永三年(一一八四)二月七日朝、義経は「坂落し」を決行して平家軍の不意を衝き、源氏軍を大勝利に導いたのである。

 しかし、この一ノ谷の合戦、勝敗を決定づけた最大の要因は義経の奇襲「鵯越の坂落し」ではなかったかも知れない。 そこには後白河法皇による停戦命令という、平家の油断を誘う動きがあったのである。 一ノ谷の合戦後に平宗盛が都に書状を送っており、それを『吾妻鏡』が記録しているが、その書状には、

(寿永三年)一月二十六日に、院宣にしたがって福原に帰って来ました。 加えて二月四日は亡父・清盛の遠忌に当たりますので、法要もしたいと思っておりましたが、船を下りることもできず輪田の海上で日を過ごしていますと、 去る六日(一ノ谷の合戦前日)、後白河院の近臣・修理権大夫から書状が届きました。 その書状は
「源平の和平の件で、使者として来たる八日に出京し、そちらに向かうので、交渉が終るまでは一切の戦闘行為をしないように。 そのことは関東武士にもすでに伝えているので、平氏方も徹底するように」
ということでした。その仰せを守り、停戦のための院からの使者の到着を待っていたところ、同七日、関東の武士らが急に襲ってきました。 我々は院宣を受けているので積極的に攻撃することもできず退却しましたが、関東武士らは勝つに乗って、なおも襲い懸かり、 たちまちに大勢が殺されてしまいました。これはいったい、どういうことなのです。不審でしかたがありません。 もしかすると、我々が院宣を待っていて戦う意志がないということを関東武士たちには伝えていなかったのでしょうか。 それとも、停戦の院宣を下したにもかかわらず、関東武士たちが聞き入れなかったのでしょうか。 ひょっとすると、院宣は我々を油断させるための謀略であったのですか。いくら考えてみても、こんなひどい話はありません。 まったく理解に苦しみます。わけを聞きたいものです。(筆者訳)

と書かれている。  つまり、策謀かも知れなかった後白河法皇の停戦命令を律儀に信じて安心していた平家に、源氏の大軍が襲い掛かったのである。 これでは平氏に勝ち目はない。平氏側の死者は一千人余り。 重衡は捕虜となり、忠度以下、清房、清定、経正、経俊、敦盛、通盛、業盛、師盛、知章など、多くの一門が討たれてしまうという惨状となった。 これに憤慨した宗盛が抗議の手紙を返したのが右の書状であった。

 おそらく、この宗盛の書状にいうことが史実なのだろうと思う。当時の貴族の日記や記録を調べてみると、源平の兵力の差は歴然としている。 平家軍の兵力は、少なく見積もっても源氏軍の二倍、計算の仕方では十倍近くにもなる。圧倒的な兵力の差があったのである。 しかも戦場は平家の勝手知ったる福原の地であり、関東武士を中心とする源氏の不利は絶対である。 いかに「坂落し」の奇襲があろうが、これほどまでに平家軍が一方的な敗北を喫するはずがない。
 平家軍に積極的な攻撃の意志がなかったことは、陣形にもよく現れている。 それは、平家軍の陣形が、防備のための陣形であり、けっして攻撃軍の陣形ではなかったということである。 京都奪回を積極的に狙う攻撃軍なら、全軍進撃の構えを見せていたはずで、遥か後方の一ノ谷の陣営など全く必要なかったはずである。
 平宗盛は、早くから後白河法皇に背く意志のないことを表明しており、この時も、後白河法皇との和平交渉が第一の目的であった。 そして、和平交渉がうまく進まず、合戦になった時のために防備陣をしいたのであろう。 したがって、平軍の防備は都の動き、あるいは官軍として都を発した源氏軍の動きに応じて、段階的になされたものと思われるが、 『平家物語』その他の記すところにしたがうと、結果的には次のような配備になったようである。

〔生田森〕 (大手、東の木戸。東から攻撃して来る敵の大手軍を防ぐ)
平知盛を大将軍として、重衡・清房・清定・知章らを配備。
〔一ノ谷〕 (搦手、西の木戸。播磨に迂回し西から背面攻撃をして来る敵を防ぐ)
平忠度を大将軍として、敦盛・貞能・景清らを配備。
〔三草山〕 (丹波路から攻めて来る敵の搦手軍を防ぐ。)
平資盛を大将軍として、有盛・師盛・忠房らを配備。
〔山の手〕 (鵯越の麓。北方からの敵の搦手軍を防ぐ。侵入ルートは数箇所ある。)
平通盛を大将軍として、教経・経正・経俊・業盛・盛俊らを配備。
〔軍船上〕 (輪田あるいは駒ヶ林に停泊する軍船上)
安徳天皇・平宗盛・二位の尼・健礼門院ら。要人と非戦闘員。

 このような配備をした平家軍にとって、義経の「坂落し」は確かに奇襲であった。 全軍を扇形に外に向けて配備していた背後の空洞に源氏の一団が入り込んで、結果的には外と内から挟撃される形となり、 もともと戦闘意欲の乏しかった平家軍は、包囲される前に退却するのが精一杯であったに違いない。 そのように考えると、「坂落し」の直後に、通盛、教経、盛俊らの山の手軍と義経が正面から戦った気配のないことも理解できる。
 ともあれ、何もかも後の祭りで、この合戦がターニング・ポイントとなり、以後、平家は急速に滅亡へと向かっていくのである。 平家軍は総崩れとなり、一門の多くを失って失意のうちに屋島に逃げ帰る。 そして、さらに約一年後の元暦二年(一一八五)二月十九日には、義経によって屋島からも追い落とされ、 その翌月三月二十四日には壇ノ浦の合戦にも敗れて、安徳天皇も入水、平家一門は滅亡してしまうのである。

(出典:神鉄観光且幕ニ部 すずらん編集室発行・野村貴郎氏著「源義経 鵯越の逆落し」)