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一ノ谷の合戦
一の谷の合戦 (前)
一の谷の合戦 (後)
一の谷の合戦 〜義経・鵯越の坂落し
 一の谷の合戦 (前)
 一時は栄華を極めた平家であったが、各地の源氏の蜂起、一門の大黒柱であった平清盛の死などによって、滅亡への道を歩み始める。 寿永二年(一一八三)七月二十五日、木曽義仲の侵攻を恐れた平家一門は、京の都を捨て、安徳天皇を奉じて福原の旧都(神戸)へ逃れて来る。 しかし福原をも一夜限りで焼き払い、九州、四国と、転々としながら兵力の回復を図っていくのである。 そして瀬戸内一帯を制圧して再び勢力を蓄えた平氏は、翌三年一月末に輪田(神戸)に集結、生田の森、一ノ谷の間に陣をしいて都の形勢を窺う。 それに対し、源氏軍は二月四日早朝、平家陣めざして京都を進発、大手範頼軍は西国街道を生田の森へ、搦手義経軍は丹波路から一ノ谷をめざす。

 義経は先ず四日の夜半に三草山を守る平資盛軍に夜襲をかけて撃破し、六日の曙に自軍を二分して大半(『平家物語』七千余騎・実際は七百騎?) を土肥実平に預けて一ノ谷の西へ向かわせ、自身は少数の精兵(『平家物語』三千余騎・『吾妻鏡』七十余騎・実際は三百騎?)を率いて鵯越をめざす。 しかし、その間の五日朝から六日曙までの義経の具体的な行動については『平家物語』諸本にも諸史料にも記載がなく、謎なのである。 伝承地も各所に散らばり義経の足取りは特定できなくなってしまう。そして、七日朝、義経は「坂落し」を決行して平家軍の不意を衝き、 源氏軍を大勝利に導くのであるが、この「坂落し」も、まったく史料には記されておらず、『平家物語』に描かれているだけなのである。

 さらに、その『平家物語』にしても「坂落し」の描写は非常に曖昧で、地元の人間には首をかしげたくなる部分がある。 『平家物語』は伝本の種類が多く、諸本によって内容も大きく異なっているのであるが、「坂落し」について諸本ほぼ一致しているのは、 義経は「鵯越」を「坂落し」して、その下にある「一ノ谷」の平家陣地を奇襲したということである。 しかし、実際には鵯越と一ノ谷とは直線距離にしても七〜八キロも離れており、鵯越の下に一ノ谷はなく、一ノ谷の上に鵯越はないのである。

 そのために、義経の進軍ルートや「坂落し」の場所をめぐる論争が長い間続いてきた。 その長年にわたる論争を細かく説明する紙面は許されていないが、大雑把にいうと、義経の「坂落し」の場所を鵯越であるとする《鵯越説》と、 その場所を須磨一ノ谷であると考える《一ノ谷説》の二つに分かれての論争だと言ってよい。語り本系『平家物語』の描写に即して考えると、 現在の鵯越の麓に一ノ谷があり、そこを義経は「坂落し」したという《鵯越説》になり、読み本系『平家物語』の描写にしたがうと、 現在の一ノ谷の上に鵯越はあったという《一ノ谷説》になるのである。 しかし、同じ説を唱えながらも、その説くところ、あるいは具体的な「坂落し」の場所には微妙な違いも存在し、簡単には説明し難い状態となっている。 どちらの系統の『平家物語』を信用し、どのテキストを根底に解釈するか、また、多数ある伝承の中からどれを選ぶかで立場が分かれ、 「坂落し」場所をめぐる論争が生まれてくるのである。
(→ 「一の谷の合戦 (後)」に続く)

(出典:神鉄観光且幕ニ部 すずらん編集室発行・野村貴郎氏著「源義経 鵯越の逆落し」)