お問合せ・刊行物申込 ホーム
神戸市文書館
利用案内 刊行物 収蔵資料 検索 展示の案内 神戸史跡地図 神戸歴史年表 リンク
平家物語
全巻目次
樋口被斬
六箇度合戦
三草勢汰
三草合戦
老馬
一二の懸
二度の懸
坂落
盛俊最後
忠度最後
重衡虜
敦盛
濱軍
落足
小宰相
首渡
落足・小宰相・首渡
 落足 ( おちあし )
  小松殿の末子備中守師盛は、主従七人で小舟に乗って落ち延びようとしていた所へ、新中納言知盛卿の配下で清衛門公長というものが馳せ来たって「備中守師盛殿のお船とお見受けいたす。私もそちらへ参ります。」と呼ぶので船を渚へ漕ぎ寄せた。が、鎧を着た大の男が馬からばっと飛び乗ったからたまらない。小さな船はたちまちくるりとひっくり返って、備中守は海に投げ出されて浮き沈みしている所を畠山の郎党本田次郎親経に熊手で引きずり上げられて首を討たれた。当年十四歳であったという。
  越前三位通盛卿は山の手の大将軍であらせられたが、大勢に押し隔てられて弟の能登守に遅れてしまわれた。今は心静かに自害しようと東に向かって逃げ延びる途中で、七騎ほどに取り囲まれてついに討たれた。その時までは従者が一人ついていたが、これも最期の時はお供しなかった。
  時が移るに従って、東西の木戸口では源平両軍ともに夥しい死者を出した。櫓の前、逆茂木の下には人馬の死体が山のごとく積みあがり、一の谷の山の緑は血で薄紅に染まるほどであった。源氏の方に討たれた(平家方の)首は二千余り、その中に平家一門のものは、先ず越前三位通盛、弟蔵人大夫業盛、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、経盛の嫡子皇后宮亮経正、弟若狭守経俊、その弟大夫敦盛以上十人であったという。
  戦に破れたので、主上を始めの人々は皆お船に乗って何処へともなく漕ぎ出した。あるいは紀州へ、或いは芦屋の沖に、あるいは須磨から明石の浦伝いに、或いは淡路海峡を渡って絵島(淡路島の淡路町岩屋)の磯に、或いは未だ何処へとも行方が定まらないのか、一の谷の沖にさまよう船もある。このように浦々島々へとばらばらに漂って行ったので、互いの生死も分からない。十四カ国十万騎を従えて、都へ僅か一日の所まで戻って来ていたので、今度こそ大丈夫と頼もしく思っていただけに、一の谷を攻め落とされて、(一門の人々は)大層心細くなっておられる。

 小宰相 ( こざいしょう )
  さて越前三位通盛卿の従者の見田瀧口時員と言うものが急ぎ通盛卿の北の方のお船に参って言うことには「わが君は今朝湊河の下流で、敵七人に取り囲まれて遂に討ち死になさいました。時員めも最期のお供を仕るべきでありましたが、かねてよりの仰せには、通盛がどうなっても汝は命を捨てるな、どんなことをしても生き延びて北の方の行方を尋ねよとの事でしたので、厚かましくもここまで参った次第でございます。」とのことだったので、北の方は返事も出来ず、床に臥してしまわれた。二三日のうちは、討たれたとは聞いても、もしや誤報ではないか、生きて帰って来るのではないかと、望みをつないで待っておられた様子であったが、四五日も過ぎると、もしやの頼みも弱り果て、次第に心細い様子になって行かれた。只一人付き従っていた北の方の乳母も同じく床についていた。
  通盛卿戦死の報をお聞きになってから七日目の暮れ方から十三日目の夜までは起き上がることもお出来にならなかった。明けて十四日目の八島へ渡る宵のうちまでは横になっておられたが、夜が更けて船の中が静まり返るのをみて、乳母におっしゃるには「今朝までは三位殿が討たれたと聞いても本当とは思えませんでしたが、夕方からは、やはりそうなのだろうと思えるようになりました。三位殿が港河とか言うところで討たれたいうことは皆口々に言っていますが、生きて出会ったと言う者は今になっても一人も出てこないのですもの。(中略)生きていてあの方を恋しいと思い続けるより、水の底へでも行ってしまおうと思い定めています。そなたをたった一人残して悲しませるのは心苦しいけれど、妾の装束をどこかのお坊様に差し上げて、亡き人と妾の菩提を弔っておくれ。書き置いていた文を都へ届けておくれ。」等と細々と言うのに乳母は涙ながらに「幼い子も老いた親も捨ててあなた様のお供をして参った私の志を思いやっては下さらないのですか。今度一の谷で討たれなさった他の方々の北の方の嘆きも皆同じこととはお思いにならないのですか。ここは静かに身二つになられて、(北の方は妊娠していた)どのようなつらい所ででも幼い方をお育てになって、ご出家なされて仏の御名を唱えつつ、亡き人の御菩提を弔って下さいませ。」とさめざめと掻きくどく。北の方は、乳母が誰かにしらせるとでも思われたのか「いいえ、つらい事、悲しいことが有ると言って身を投げるという人はいくらもいますが本当にそういうことをする人はほとんど居ないでしょう。本気で考えたのならばそなたにもきっと知らせますよ。今は夜も更けました。もう寝ましょう。」などと仰ったが、乳母は、この四五日水すらろくにお飲みになっていないお方がこんなに細々と仰せになったからには本気でお考えになっているのだと悲しくなって、「都の事もお気がかりでしょうが、本気でお考えになったのなら、私も千尋の底までお供させて下さいませ。あなた様に遅れて片時たりとも生きていられましょうか。」と申してお側に居た。しかし少しまどろんだ隙に北の方はそっと起き上がって船端へ行き、広々とした海の上なのでどちらが西とも分からないが、月が沈む山の端を西の空だと思い定めて静かに念仏を唱え、「南無西方極楽浄土の教主、阿弥陀如来、心ならず別れた私たち夫婦を必ず一つ蓮の上に。」と泣く泣く掻きくどき、唱える声と共に海に沈んだ。
  一の谷から八島へ渡る途中の夜中ごろのことなので、皆寝静まっていたが、寝ずにいた船頭の一人がこの様子を見つけて、「やや、あの船から女房殿が海へお入りなすったぞ。」と呼ばわったので、乳母ははっと目を覚まし傍をさぐっても北の方がおられないのでただ「あれあれ」と呆然としていた。大勢の人が海に入って北の方を救い上げようとしたが、春霞で視界がきかず、やっと引き上げたときにはすでにこの世には無い人となっておられた。乳母は北の方に取り縋って「ここまで思いつめておられたのなら私も千尋の底までお連れ下さいませ。恨めしくも私一人を残して行かれたのですね。どうかもう一度私に何か仰ってくださいませ。」ともだえ焦がれたが、もはや亡き人となった北の方からは何の返事も返って来ず、僅かに残っていた息も絶え果ててしまった。
  そのうち春の夜の月も雲井に傾き霞の空も明け行くので、別れの悲しさは尽きないがいつまでもそうしてはおられぬと、浮き上がらないように故三位殿の鎧が一領のこっていたのを北の方にお着せして、とうとう海へと沈めた
  この北の方は頭の刑部卿範方の娘で禁中一の美人と言われ、名を小宰相殿と申し上げる。

      
 首渡(くびわたし)
  1184年2月12日、一の谷で討たれた平家の公達の首は都へ入り、翌13日に獄門の木に掛ける為大路を渡される。公家からは高官だった平家の首をさらすなど先例なしとの反対もあったが、父義朝らの仇を思う源範頼・義経らは断固たる処分を要求したのである。都に残っていた平維盛の妻子は、もしや維盛も討ち取られたのではと気をもむが、病気のため屋島に残っていたと聞かされて、返って心配をつのらせる。維盛は妻子を安心させるため手紙を書くが、逢いたいと訴える返事を見て、妻子への思いが絶ち難いことを知るのであった。
  源平の戦は、屋島(高松)、そして平家滅亡の壇ノ浦(下関)へと進んでいくのである。