お問合せ・刊行物申込 ホーム
神戸市文書館
利用案内 刊行物 収蔵資料 検索 展示の案内 神戸史跡地図 神戸歴史年表 リンク
平家物語
全巻目次
樋口被斬
六箇度合戦
三草勢汰
三草合戦
老馬
一二の懸
二度の懸
坂落
盛俊最後
忠度最後
重衡虜
敦盛
濱軍
落足
小宰相
首渡
一二の懸・二度の懸
 一二の懸 ( いちにのかけ )
  六日の夜半ほどまでは、熊谷と平山は(義経率いる)搦め手軍にいた。熊谷は息子の小次郎を呼んで言うには「この方面は難路であるから誰が先陣だと争うどころではないだろう。さあ、土肥が向かった西の方へ行って一の谷への先陣を駆けよう。」小次郎は「最もなことでございます。誰もそう申したく思うでしょう。ならば早く攻めかかりましょう。」と答える。熊谷は「そうだ、平山もこちらにおったな。あやつも(先陣を切れない)乱戦は好まない者だ。平山の様子を見て参れ。」と言って下人を見にやらせた。思ったとおり平山は熊谷より先に出立の用意をして「人はいざ知らず、この季重は
一歩も遅れはとるまいものを、とるまいものを。」などと独り言を言っていた。馬に飼葉を食わせていた平山の下人が「この馬め、いつまで食っているのだ。」と鞭で打ったのを平山は「そのような乱暴をするな。この馬とも今宵限りの別れだぞ。」と言って出立していった。様子を見ていた熊谷の下人は走り返って主人にこの様子を告げたので、それならばと熊谷親子も打って出た。
  主従三騎が連れ立って、降りようとする谷を左手に見て、右手へと歩み行くうちに、永年人も通わなかった田井畑という古道を経て一の谷の波打ち際へ出た。一の谷の近くに塩屋という所がある。未だ夜は深いので土肥次郎實平は七千余騎で控えている。熊谷は夜に紛れて波打ち際からそこを一気に駆け抜けて一の谷の西の木戸口に攻めかかった。その時もまだ夜は深かったので、砦の中は静まり返って音もしなかった。熊谷が息子の小次郎に「搦め手は難所であるから(自分たちのように)我も我もと先陣を切りたがっているものは大勢いるだろう。既にここに来てはいるが、夜の明けるのを待ってこの辺に控えている者がいるかもしれないぞ。直実一人が心細く居るとは思うまい。いざ名乗ろう。」と並べてある盾の際まで歩み寄って鐙に踏ん張って立ち上がり、大音声で「武蔵の国の住人熊谷次郎直実、子息小次郎直家、一の谷の先陣ぞ。」と名乗りをあげる。砦の中ではこれを聞いて、「いいから音をたてるな。敵の馬の足を疲れさせ、矢種を射尽くさせておけ。」といって相手になるものも居なかった。
  しばらくして後ろから二騎の武者が続いて来た。「誰だ。」と問うと「季重。」と答える。「そう問うのは誰か。」「直実である。」「熊谷殿はいつから居られた。」「宵から。」と熊谷は答える。「季重もすぐ後に続いて来るはずだったのだが、成田五郎に謀られて今までぐずぐずしていたのでござる。成田とは死ぬときは一緒に死のうと誓ったので、一緒に連れてこちらへ向かったのだが、『平山殿、先駆けをしようとあまりはやりなさるな。先駆けというのは、味方を後ろに置いてこそ、手柄も人に知って貰えるというもの。あの大勢の中にたった一騎だけで駆け入って討ち取られでもしたら何の意味もありますまい。』と言うのでいかにもと思って、小さな坂があったのを上って、下がりざまに馬の手綱を引いて味方の勢を待っていた所、成田も続いて上ってきた。馬を並べて戦の打ち合わせでもするのかと思っていたら、そうではなく、季重の方をちらっと見ただけで、そばをすっと通り過ぎていったので、こやつ季重を謀って先陣を駆ける気かと思って、五六段ほど進んだ所でどうもあやつの馬はわが馬より弱そうだと見て一鞭打って追いつき、『如何に成田どの、卑怯にもこの季重程のものを謀ってくれたな。』と言いおいてそのまま放ってきたので、今頃はだいぶ遅れているだろうよ。わが後影も見えていないであろう。」と語った。
  そのうちに、しだいに夜が明けて来たので熊谷と平山は都合五騎で木戸の前に控えた。熊谷は前にも名乗ったが、平山が聞いている所でまた名乗ろうと思い、盾の前まで歩み寄り、鐙に踏ん張り立ち上がり、大音声で「そもそも以前名乗ったる武蔵の国の住人熊谷次郎直実、子息小次郎直家、一の谷の先陣ぞ。」と名乗りを上げる。砦の中ではこれを聞いて、「いざ、一晩中名乗った熊谷親子をひっ捕らえて来よう。」と越中次郎兵衛盛嗣、悪七兵衛景清を始めとする一門の武者二十騎余りが木戸を開いて駆け出してきた。平山も、「保元平治二度の戦に先駆けの名誉を得た武蔵の国の住人、平山武者所季重。」と叫んで駆けてゆく。熊谷が駆ければ平山が続き、平山が駆ければ熊谷が続き、互いに遅れは取るまいと入れ替わり入れ替わり、名乗り合い名乗り合い、揉みにもんで火が出るような勢いで攻め立てる。平家の侍どもは、熊谷平山に余りに手痛く攻められて、かなわないと思ったのだろうか、砦のうちにさっと引上げ、敵を外に置いて防いでいる。熊谷は馬の腹を射られ、大きく跳ねた馬から弓を杖について降り立った。息子の小次郎直家も当年十六歳と名乗って真っ先に駆け出して戦ったが、左手の肘を射られ、これも馬から下り、父と並んで立った。熊谷は「どうした小次郎。傷でも負ったか。」「その通りです。」「隙間の無いように常に鎧をゆすり上げよ。鎧の隙間を狙われるな。錣を傾けろ。兜の内側を射られるな。」と教える。
  その後熊谷は乗り換えの馬に乗って喚き叫んで戦う。平山も熊谷親子が戦う間に、馬の息を休めてこれも同じく続く。平家の方はこれを見て、射取れ射取れと散々に射るが、敵は小勢、味方は大勢なので味方の勢に紛れて矢に当たらない。「押し並んで組討にせよ。」と命を出すが、平家の馬はろくに飼葉もやらずに散々乗り回し、また長いこと舟に乗せていたので、疲れ切って彫り物の馬のように動きもしない。熊谷平山の乗った馬は十分餌をやった立派な馬である。一鞭当てれば皆蹴倒されてしまうので、押し並んで組討にできる武者は一騎もいない。平山は、わが身に替えてもと思っていた旗持ちの郎党を討ち取られて心安からず思ったのであろうか、砦の中に討ち入って、しばらくしてその敵の首を取って出てきた。熊谷親子も多くの敵の首を取った。熊谷は先に攻めかかったが木戸が開いていなかったので攻め入れず、平山は後から攻めかかったが木戸が開いていたので駆け入れたのである。これぞ熊谷平山の一二の懸けの争いである。

          
 二度の懸 ( にどのかけ )

   *「長門本平家物語」や「源平盛衰記」では、景季は梅の枝を箙(えびら)に挿して
   出陣する話が加わっているその影響で謡曲「箙」が生まれ、崖ではなく梅の木を
   背にたたかう姿に脚色されるようになった。

  そのうちに成田五郎も出てきた。土肥次郎實平の七千騎も数々の旗指物を掲げ、鬨の声を上げて攻めかかる。(一方)正面の生田の森は源氏の五万余騎が固めていたが、その軍勢の中に武蔵の国の住人、河原太郎、河原次郎という兄弟がいた。河原太郎が弟の次郎を呼んで言うには、「大名は自ら手を下さなくても、家来の手柄を名誉とすることができるが、われら
のようなものは自分で手を下さなくてはどうしようもない。敵を前にしながら、矢一つさえ射掛けずに待っているのは余りに待ち遠しいので、この高直は砦の中に紛れ入って一矢報いようと思う。千万に一つも生きて帰ってくることは無かろう。お前は残り留まって後日手柄の証人に立て。」弟の次郎は涙をはらはらとこぼして、「たった二人の兄弟が兄を討たせて弟が後に残ったとてどれほどの栄華を保つことができましょうか。別々に討ち取られるより一つ所で討ち死に致しましょう。」と言って下人どもを呼び寄せ、妻子の許へ最後の有様を言い遣わし、馬には乗らずに草履をはき、弓を杖について生田の森の坂茂木を乗り越えて砦の中へ入った。星明りだけで、鎧の縅毛の色も定かではない。河原太郎は大音声を上げて「武蔵の国の住人、河原太郎私市高直、同じく次郎盛直、生田の森の先陣ぞ。」と名乗る。砦の中ではこれを聞いて、「何と東国の武士ほど恐ろしいものは無い。この大勢の中に兄弟二人で駆け入ってどれほどのことができるものか。適当にあしらって放っておけ。」とて討とうと言う者もいなかった。河原兄弟は優れた弓の手だれなので、差しつめ引きつめ散々に射る。砦の中ではこれを見て、「今となってはこの者どもを放っておけぬ。討て。」と言う程もあればこそ、西国に聞こえた強弓の使い手、備中の国の住人、真名辺四郎、真名辺五郎という兄弟、兄の四郎は一の谷に配置され、生田の森にいたのは弟の五郎であるが、これをみて、きりきりと弓を引き、しばし保ってひょうと射る。河原太郎は鎧の胸板を後へつっと射抜かれて、弓に縋ってよろめく所を、弟の次郎が走り寄って兄を肩に引っ掛けて生田の森の坂茂木を乗り越えようとしたところを、真名辺の二の矢が次郎の鎧の草摺りのはずれを射抜き、兄と同じ場所に打ち臥した。真名辺の下人が走り寄って河原兄弟の首を取る。大将軍新中納言知盛卿の御見参に入れると「あっぱれな剛の者、彼らのごとき者こそ一騎当千の兵というべきであろう。命を助けられなかったのが残念である。」と仰せられた。その後河原の下人が走り散って、「河原殿兄弟、ただ今砦の内に真っ先に駆け入って討ち死になさいました。」と呼ばわったので、梶原平三これを聞いて「河原兄弟が討ち死にしたのは(兄弟の属する)私市党の不覚。時は来たぞ、攻めよ。」とて、梶原の五百騎は生田の森の逆茂木を取り除けさせて、砦のうちへと鬨の声を上げて駆け寄せる。次男の平次は先駆けをしようと余りに進むので、父の平三は使者を立てて、「後の勢が続いて来ないのに先駆けをするものには、(見届け人がいないので)恩賞は出ないぞとの大将軍の仰せであるぞ。」と言い送ると、平次はしばらく控えて「もののふの取り伝えたる梓弓引いては人のかえすものかは と申し上げて下さい。」と言ってまた駆けていく。梶原党はこれを見て、「平次を討たすな、者ども景高を討たすな、続け。」とて父の平三、兄の源太、同じく三郎が後に続いた。梶原五百余騎は大勢の中へ駆け入って縦、横、蜘蛛手、十文字に駆け巡って、ざっと引いて出てくると、嫡子源太の姿が見えない。梶原は郎党どもに、「源太はどうした。」と問えば「余りに深入りして討ち取られておしまいになったのでしょうか。どこにもお姿が見えません。」と申すので、梶原ははらはらと涙を流して、「戦の先陣の名誉を得ようと思うのもわが子らの将来のため、源太を討たれて景時が生きながらえた所で何になろうか。引き返すぞ。」とてまた敵陣へ取って返す。
  その後梶原は鐙に踏ん張り立ち上がり、大音声を上げて、「その昔八幡殿の後三年の戦いに出羽の国金沢城を攻めた折、当年十六歳と名乗って先駆け左の眼を兜の鉢附けの板に射つけられながら、その矢を抜きもせずに返しの矢で敵を射落とし、恩賞を被り、名を後世に揚げたる鎌倉権五郎景正の五代の後胤、梶原平三景時とて東国に聞こえたる一騎当千のつわものぞ。我と思わんものは寄り合えや、相手になるぞ。」と名乗り上げて切り込む。砦の内ではこれを聞いて、「只今名乗ったは東国に聞こえたつわものだぞ。討ちもらすなよ。」と梶原を中に取り囲んで、我こそ討ち取らんと進み出る。梶原はまずわが身の上を構わずに、源太はどこにいるのかと陣中を駆け割り駆け回り探すうちに、思ったとおり源太は馬を射られ徒歩になり、兜も打ち落とされた大童の姿になって、二丈ほどの高さの崖を背にして郎党二人を両側にたて、刀を抜いて、五人の敵に取り囲まれて、わき目もふらず、命も惜しまずここを最後と攻め戦う。梶原はこれを見て源太はまだ討たれていなかったとうれしく思い急いで馬から跳んで下り、「いかに源太、景時ここに有り。同じ死ぬとしても、敵に後は見せるなよ。」とて、親子で五人の敵を三人討ち取り、二人に手傷を負わせ、「弓矢取る者は、懸けるも引くも折を見るもの。さあ行くぞ、源太。」とて連れて出る。梶原の二度の懸けとはこのことである。