樋口被斬(ひぐちのきられ) |
その前年(寿永二年)の冬の頃から、平家は讃岐の国八島の磯を出て、摂津の国難波潟に押し渡り、西は一の谷に砦を構え、東は生田の森を正面の木戸口と定めていた。その間の福原、兵庫、板宿、須磨に立て籠もる軍勢は、山陽道八カ国、紀伊・淡路・四国方面六カ国、都合十四カ国を打ち従えて呼び集めた十万余騎だという。一の谷は北は山、南は海、入口は狭くて奥は広い。周囲のがけは高く、屏風を立てたかのようである。北の山際から南の海の遠浅まで、大石を組み上げ、大木を切って逆茂木(敵の侵入を防ぐ柵)にし、深いところには大船を並べて盾にし、砦の正面の高櫓には、四国・九州のつわもの共が甲冑弓箭に身を固め、雲霞のごとく並んでいる。櫓の前には鞍を置いた馬どもが十重二十重に引き立てられ、兵どもは常に太鼓を打って鬨の声を上げている。「一張の弓の勢いは半月が胸の前に懸かったかのごとく、三尺の剣の光の冴えは秋の霜のごとし」と言ったありさまである。高い所には多くの赤旗が打ち立てられているので、春風に吹かれて、天に翻る様子はあたかも火炎が燃え上がるかのようである。
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六箇度合戦(ろくかどかっせん) |
平家が一の谷へ渡って後、西国の武将の中には源氏に心を寄せ、平氏に対して反旗を翻すものが度々現われる。しかし平家の猛将能登守平教経は反乱が起こる度にこれをことごとく返り討ちにし、ついにその数は六度に及ぶ。ここに到って西国の武将はみな平家に従い、教経の武名は天下に知れ渡った。
(こうして、都から出たとはいえ平家は勢いを盛り返し、源氏を上回る軍勢で平氏の要塞一の谷に、源氏を迎え撃つ体制でいた。その一方、平家には源氏との和解を誘う後白河法皇からの院宣も下される。)
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三草勢汰(みくさせいぞろい) |
同年(寿永三年)正月二十九日、範頼義経は院に参上して、平家追討の為に、西国へ向かうべき由申し上げる。我が国には神代より伝わる御宝が三つある。すなわち、八尺瓊曲玉、草薙剣、八咫鏡である。これらを無事に都へお返し申し上げるべしとの仰せが下る。両人は庭に畏まって仰せを承り退出する。二月四日の日、福原では、故入道相国(清盛)の命日ということで、形通りに法事が行われる。
二月四日の日、源氏は福原を攻めようとしたが、故入道相国の命日と聞いて、法事を執り行わせる為に、その日は攻撃を仕掛けない。五日は西に向かうと凶、六日は外出を忌む日なので、七日の日の卯の刻に、一の谷の東西の木戸口で、源平が矢合わせを行うと定まった。しかしながら四日は吉日ということで、軍勢は正面と裏手と二手に分かれて攻め下った。
正面の大将軍には蒲御曹司範頼、侍大将には梶原平三景時、嫡子の源太景季、同じく次男平次景高、三男三郎景家、河原太郎高直、同じく次郎盛直等を主だった者として、都合五万余騎、二月四日の辰の刻に都を立って、その日の申酉の刻には攝津の国昆陽野に陣を張った。
裏手の大将軍には九郎御曹司義経、付き従うのは安田三郎義定、田代冠者信綱、侍大将には土肥次郎實平、畠山荘司次郎重忠、熊谷次郎直實、子息の小次郎直家、平山武者所季重、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤三郎継信、同じく四郎忠信、武蔵坊弁慶等を主だった者として、都合一万余騎、同じ日の同じ時に都を立って、丹波路を通り、二日かかるところを一日で抜けて、丹波と播磨の境の三草山の東の登り口、小野原に陣を取った。
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