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一ノ谷合戦
はじめに
1.『玉葉』にみえる一ノ谷合戦
2.『吾妻鏡』にみえる一ノ谷合戦
3.『玉葉』と『吾妻鏡』の総合的解釈
4.『吾妻鏡』の史料性と覚一本の位置
4.『吾妻鏡』の史料性と覚一本の位置
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(執筆・ 近藤 好和)

 『吾妻鏡』の史料性

 さらに「坂落とし」を考えるためには、『吾妻鏡』一ノ谷合戦譚の史料性を改めて問題にしなければならない。その際に重要になるのが、冒頭でより現実味があるとした『吾妻鏡』と『平家物語』の相違点である。具体的には、@義経が「坂落とし」の際に率いたのが七十余騎である点と、A安田義定の名前が出てくる点である。
 まず@から考えよう。『平家物語』によれば、義経軍は一万余騎であり、「坂落とし」の軍勢は、延慶本では七千余騎、覚一本では三千余騎である。総勢そのものが誇張と考えられたが、「坂落とし」という奇襲作戦を行う軍勢としても、三千余騎やまして七千余騎はいくらなんでも多すぎる。
 これに対し、『吾妻鏡』の七十余騎ははるかに現実的である。また、鉢伏山や鉄拐山に何千騎もの軍勢が通る道がないことも、「坂落とし」を否定する根拠のひとつとなっている。『吾妻鏡』でも鵯越には獣道しかないことになるが、七十余騎程度ならば、そうした道でも通れることになろう。
 ついでA。『平家物語』では、義経が抜けた本隊は土肥実平や田代信綱が指揮する。これに対し、『吾妻鏡』から、安田義定が指揮したことが予想できた。たしかに実平や信綱は、義経に補佐役として付けられた頼朝の代官であるが、あくまで御家人である。それに対して、義定は甲斐源氏、つまり源氏一族であり、一軍の指揮を執る資格は充分にある。義経が抜けた本隊を指揮したのは、御家人である実平等よりも、源氏一族である義定と考える方が、むしろ説得力があると考えられる。本隊を義定に預けて、義経は「坂落とし」を行うのである。逆に本隊を指揮したからこそ、軍功者として義経・範頼とともに名前があがっているのであろう。
 また、『吾妻鏡』二月十五日条によれば、義経・範頼等は、一ノ谷合戦後に、「合戦記録」なるものを鎌倉に提出した。こうした合戦記録は、合戦ごとに提出されていたものと考えられ、こうした記録をもとに『吾妻鏡』や『平家物語』の合戦譚は記されているという説もある。これは、『吾妻鏡』の一ノ谷合戦譚が『平家物語』に依拠しているという説の反論になろう。『吾妻鏡』と『平家物語』が似ているのは、この合戦記録のような共通の原史料があったからとも考えられるからである。
 以上の諸点に、『吾妻鏡』にみえる義経の動向は『玉葉』と矛盾しない点や、断崖絶壁を騎馬で降りることが可能である点などを加味すれば、『吾妻鏡』一ノ谷合戦譚の史料性が再認識されるのであり、それを虚構とみなすことは躊躇されるのである。

 覚一本の位置

 しかし、ここで問題となるのが覚一本である。つまり覚一本によれば、三草山合戦敗北の報告を受けた宗盛は、越中盛俊・平通盛・平教経等を「山の手」(山手)に派遣する。延慶本では、盛俊はすでに山手に布陣していて、新たに教経等が派遣される流れであるが、三草山合戦後に教経が派遣された場所が山手であることは『平家物語』で共通する。
 ところが、覚一本には、そこで「山の手と申は鵯越のふもとなり」という独自記事がみえる。そして、義経が「坂落とし」をするのは鵯越であり、「坂落とし」をした麓には、「山の手の侍大将」盛俊が陣取っている。だから、これによれば、義経は「坂落とし」で山手を攻略したことになる。しかし、『玉葉』では、義経は一ノ谷を攻略し、山手を攻略したのは行綱であったから、この解釈は『玉葉』とは矛盾することになる。逆に覚一本の独自記事を生かして『玉葉』と合わせて考えると、実際に「坂落とし」を行ったのは行綱であり、それが義経の行為として置き換えられた可能性もでてくる。また、その場所も、現在地の鵯越である可能性が高くなってこよう。
 ところが、覚一本には、「一谷のうしろ鵯越」という他の『平家物語』や『吾妻鏡』と共通する表現もみえる。これによれば、山手と一ノ谷は同じ場所となってしまう。しかし、それは大きな矛盾であり、覚一本は「坂落とし」の考察には使えないことになろう。となれば、現在地の鵯越で行綱が「坂落とし」を行ったという解釈も、結局は「山の手と申は鵯越のふもとなり」という覚一本の独自記事から導かれるものだから、根拠が薄弱となり、その可能性はなくなってこよう。

 おわりに
 以上のように、一ノ谷合戦の文献史料、特に『玉葉』と『吾妻鏡』を分析・解釈する限り、「坂落とし」は、義経が現在の鉢伏山や鉄拐山から、一ノ谷城郭に対して行ったということになってくるのである。
 
 編集者より     逆落としの場所はどこか
 以上の原稿は、近藤好和氏による 『玉葉』と『吾妻鏡』の文献資料を基にした、「逆落とし 須磨一ノ谷説」といえましょうが、逆落としの場所がどこかについては、須磨一ノ谷説や鵯越説など、未だに論争が絶えず、歴史的な興味の尽きないテーマです。

平家物語には、「鵯越の下の、越中前司 平盛俊の館めがけて逆落としをかけた」と記されています (平家物語巻9坂落) 。これだと逆落しの場所は鵯越ということになりますが、平家物語に「一ノ谷後の鵯越」と書かれ、鵯越の直ぐ下が一ノ谷と思えるところが、なぞを呼ぶ元になっています。神戸市の中で須磨区の一ノ谷と兵庫区の鵯越とはずいぶん離れているのです。
平家物語では一ノ谷合戦は、 東木戸を生田の森とする以西の神戸市街全体で戦闘がくりひろげられています。安徳帝は海上の御座船におられたようです。西木戸や主戦場一ノ谷の場所については説が分かれているのです。

落合重信氏の「神戸の歴史」(昭和50年刊)によれば、1184年2月7日午前6時、平家の陣の東西の木戸めがけて源氏の「一斉攻撃が開始されたが、平氏の軍もよく守り、勝負はなかなか決しそうになかった。そうした中で、鵯越を下った義経が、通盛・教経・盛俊の守る山の手の陣を破って、中央突破を敢行する。これによって、平氏の陣はたちまち浮き足立ち、…2−3時間で源氏の大勝利に帰した。」…「なぜ、この戦いが一ノ谷合戦と呼ばれるのか。…一ノ谷が主戦場であったからという説。一ノ谷というのはもっと広い地域を指したという説 等がある。…京出発の時から義経に人気があり、義経が一ノ谷に向かうというので…一ノ谷合戦と京で言いならされたのではなかろうか。」としています。
一ノ谷というのはもっと広い神戸市街地全体の地域を指したという説には、田辺眞人氏などがおられます。
あなたも、この歴史ミステリーを考えてみて下さい。