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一ノ谷合戦
はじめに
1.『玉葉』にみえる一ノ谷合戦
2.『吾妻鏡』にみえる一ノ谷合戦
3.『玉葉』と『吾妻鏡』の総合的解釈
4.『吾妻鏡』の史料性と覚一本の位置
3.『玉葉』と『吾妻鏡』の総合的解釈
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(執筆・ 近藤 好和)

 『平家物語』

 では、つぎに『玉葉』と『吾妻鏡』を、これまでふれたことや『平家物語』も使いながら、総合的に解釈してみよう。なお、『平家物語』には何十種類にもおよぶ異本があり、異本によって記述が異なる場合もある。そのため、一口に『平家物語』といってもどの異本を使用するかが問題となる。まずはその問題についてふれておきたい。
 『平家物語』の異本を大別すると、琵琶法師の語りのテキストであった語り本系と、そうではない読み本系に分けられ、後者の方が逸話が多い。そのため、かつては語り本系に逸話を増補したのが読み本系と考えられ、読み本系は増補本ともいわれた。つまり語り本系よりも読み本系の方が後出本と考えられていたのである。
 ところが、最近は、逆に読み本系をむしろ整理したのが語り本系と考えられるようになった。つまり語り本系の方が後出本というわけである。それをうけ、読み本系を逸話が多いことから広本系、語り本系を逸話が整理されていることから略本系とよぶこともある。
 それぞれの系統の代表が、広本では延慶本であり、略本では覚一本という異本である。前者は現在では異本のうちでもっとも古態を示すと考えられている本であり、後者は、一般書店で手にすることのできるもっともポピュラーな『平家物語』である。そこでここでは、『平家物語』は延慶本と覚一本を中心に考えたい。なお、延慶本・覚一本ともに、一ノ谷合戦関係の記事は巻九にある。

 両軍の軍勢と生田の森

 まず両軍の軍勢は、『玉葉』・『吾妻鏡』ともに平氏は数万、一方の源氏は、『玉葉』では一方で一、二千騎であり、『吾妻鏡』では、範頼軍五万六千余騎、義経軍二万余騎とあり、大きな隔たりがあった。
 源氏の軍勢は、延慶本では、範頼軍五万六千余騎、義経軍一万余騎、覚一本では、範頼軍五万余騎、義経軍一万余騎とあり、『吾妻鏡』に近い。つまり『吾妻鏡』や『平家物語』によれば、源氏の軍勢は平氏に匹敵するかそれ以上となる。
 しかし、数万という軍勢の数は誇張に相違ない。これは『玉葉』にみる平氏の軍勢でも同様であろう。したがって、ここで軍勢の具体的な数を問題としてもあまり意味がないであろう。考えるべきは、対戦前の軍勢は、『玉葉』にみえるように平氏が優勢であったか、『吾妻鏡』や『平家物語』にみるように拮抗していたかであるが、その点はやはり『玉葉』を信頼すべきであろう。
 ついで平氏の布陣とそれに対する源氏の動きを確認すると、『玉葉』によれば、平氏は、丹波城・一ノ谷(搦手)・浜地・福原(大手)・山手・島辺(経が島)に布陣していた。一方、源氏のうち大手の範頼軍は、浜地から福原を攻撃したという。しかし、『平家物語』によれば、範頼が攻撃したのは生田の森である。
 現在、神戸市中央区の生田神社の背後の雑木林を生田の森と称しているが、そこがかつての森の名残であることは間違いないであろう。しかもこの地は、現在では埋め立てによって、当時よりも陸地が広くなっているが、それでも海は近く、神戸市の東側ではもっとも陸地が狭い場所といえるし、しかも現生田の森の東側には明治初年まで生田川が流れていた。その下流に外国人居留地ができ、洪水被害を防ぐために、現在の位置に改変されたのである。
 ということは、生田の森も、一ノ谷と同様に防衛施設を設置するのに最適の場所といえる。さらに生田の森の背後には、福原が控えており、『玉葉』とも矛盾しない。つまり範頼軍が福原を攻撃するためには、生田の森城郭を突破しなければならなかったのである。

 義経軍と行綱軍の動向

 これに対し、搦手の義経軍は、『玉葉』・『吾妻鏡』ともに、三草山(『玉葉』では丹波城)夜襲の後に、一ノ谷城郭攻撃へ向かう。その際に、『吾妻鏡』を解釈すれば、義経軍は、一ノ谷城郭の背後の鵯越に向かった義経率いる七十余騎、そこから抜け駆けして一ノ谷城郭の正面に向かった熊谷・平山、そして同じく一ノ谷城郭の正面に向かった、安田義定が率いたと考えられる本隊に、三分割したと考えられた。つまり義経軍は、一ノ谷城郭を背後の山と正面からの二方向から攻撃して、攻略したのである。
 そして、一ノ谷の後山を鵯越とする理解は、『平家物語』とも共通するが、『吾妻鏡』によれば、一ノ谷城郭は摂津と播磨の境にあり、このことは『平家物語』にもみえる。とすれば、一ノ谷城郭の位置は、現在の神戸市須磨区以外には考えられず、その後山という鵯越は、現在の鉢伏山や鉄拐山ということになる。この点は、延慶本で、「坂落とし」をするために義経が登った場所を「一ノ谷ノ上、鉢伏、蟻ノ戸」と記しているのと付合する。つまり『吾妻鏡』によれば、鵯越は現在地とは異なる位置となる。
 一方、『玉葉』によれば、行綱軍が山方から寄せて山手を攻略したという。この山手というのは、神戸市北方の山側であることは間違いなかろうが、具体的にどこうを指すのかは、『玉葉』からはわからない。また、行綱がどのような行程で山手に向かったかも不明である。しかし、搦手に向かう義経軍と途中まで一緒であったのではなかろうか。摂津源氏で現地の地理に詳しい行綱が、はじめての不案内な土地で、山中を搦手に向かわなければならない義経軍の道案内をしたと考えることは十分に可能であろう。この解釈が正しいとすると、義経軍は行綱軍を加えて、三草山合戦の後に四分割したことになろう。
 以上のように整理すると、特に義経軍は背後の山と正面の二方向から一ノ谷城郭を攻撃したと解釈すると、義経が一ノ谷を攻略したとする『玉葉』の記事と『吾妻鏡』の記事は何ら矛盾が生じないことになる。つまり義経は、鉢伏山・鉄拐山から一ノ谷城郭に「坂落とし」を行ったことになる。

 「坂落とし」は虚構か

 しかし、最近は義経の「坂落とし」についての否定的な見解が多い。つまりは『吾妻鏡』や『平家物語』の記述を虚構とみなすわけである。この虚構説の根底にあるのが、「坂落とし」という行為、つまり騎馬で断崖絶壁を降りることに対する疑念である。言い換えれば、騎馬で断崖絶壁を降りるのは無理だというのである。特に現在地の鵯越ならばともかく、鉢伏山・鉄拐山では険しすぎて無理だというのである。そこで、その点を検証してみよう。
 まず注目したいのは、三浦義連である。『吾妻鏡』では、「坂落とし」を決行した勇士七十余騎のなかで特に三浦義連の名前が挙がっていた。義連は相模の豪族三浦氏の出身で、三浦郡佐原を拠点とし、そこから佐原義連ともいう。『平家物語』でも義経とならぶ「坂落とし」の主役は義連であり、鵯越を率先して落としている。
 その際、義連は、覚一本では「三浦の方の馬場や」と言って落とす。また、延慶本では、まず畠山重忠が「我レガ秩父ニテ」は、鳥一羽、狐一匹を取るときでも「カホドノ岩石ヲバ馬場トコソ思候へ」と言い放って馬を担いで徒歩で降り、ついで義連が「三浦ニテ朝夕狩スルニ、是ヨリ険シキ所ヲ落セバコソ落スラメ」と言い、三浦一族とともに落とす。つまり義連や重忠は、鵯越のような峻険な場所で日常の狩猟を行っていた、言い換えれば、「坂落とし」のようなことは日常的なことというのである(狩猟が、弓射騎兵の日常的な騎射の訓練として最適なことは、本特集「合戦と武具」参照)。
 むろん義連や重忠が実際にこうした言葉を口にしたかどうかは不明である。また、その言葉は「坂落とし」にのぞむ全軍を鼓舞する意味もあろうから、虚勢や誇張も含まれよう。しかし、義連の言葉は、三浦氏の本拠地であった現在の神奈川県横須賀市やその周辺の地形を考えれば納得がいく。横須賀市は平地が少なく、山(急傾斜地)ばかりであり、山すぐ海の地形が多い。JRでも、地元の私鉄である京浜急行でも横須賀に入るとトンネルばかりになる。
 じつは筆者は横須賀生まれで、五十年近く暮らしている。自宅も山に囲まれているし、三浦氏の居館があったという衣笠城址は近い。現在でも城址に登っていく途中には、馬力の弱い車ではエンストしてしまいそうな急坂がある。鵯越のような場所で日常の狩猟を行っていたという義連の言葉は、筆者には実感として納得できるのである。これは重忠の言葉でも同様で、重忠の拠点である秩父の地形を知っている人ならば納得がいくであろう。そもそも日本全国で鵯越のような場所での狩猟は、珍しいことではなかったのではなかろうか。
 さらに、戦争において騎兵の役割がいまだ重要であった十九世紀末から二十世紀初頭におけるヨーロッパのミリタリースクールでは、騎兵訓練の一環として、クロスカントリー乗馬と称し、「坂落とし」のような断崖絶壁をはじめとする様々な障害物が立ちはだかる難コースをめぐる乗馬訓練を、毎日行っていたという。
 その証拠写真をここで掲載はできないのが残念だが、この事実だけで、騎馬で断崖絶壁を降りることができるできないという議論そのものが無意味となってこよう。たしかにこれは現代の西洋の例である。しかし、洋の東西や時代を問わず、訓練(調教)次第で馬は何でもできるのである。
 まして「坂落とし」は、陸上の交通手段を馬に頼っていた時代の話であり、武士の家に生まれた者が、幼い頃から武芸や騎馬の訓練をしないはずがない。当時の武士の乗馬技術は現在人の想像をはるかに超えて巧みだったはずである。その点でも義連や重忠の言葉は納得できよう。
 以上から、騎馬で断崖絶壁を降りることは充分に可能であると考えられ、そのことへの疑念から「坂落とし」を虚構とみなす説には強く異義を唱えたい。「坂落とし」という行為は可能なのである。