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一ノ谷合戦
はじめに
1.『玉葉』にみえる一ノ谷合戦
2.『吾妻鏡』にみえる一ノ谷合戦
3.『玉葉』と『吾妻鏡』の総合的解釈
4.『吾妻鏡』の史料性と覚一本の位置
2.『吾妻鏡』にみえる一ノ谷合戦
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(執筆・ 近藤 好和)

 原文と要約

 ついで『吾妻鏡』の一ノ谷合戦譚をみよう。それは二月四日・五日・七日条が中心となる。やはりまず原文の読み下しを示そう。

○元暦元年二月四日条
平家日来西海・山陰両道軍士数万騎を相従へ、城郭を摂津と播磨の境の一谷に構へ、各群集す、
○元暦元年二月五日条
酉の剋、源氏両将摂津国に到る、七日卯の剋をもって、箭合の期と定む、大手の大将軍は蒲冠者範頼なり、相従ふの輩、(交名省略)、已下五万六千余騎なり、搦手の大将軍は源九郎義経なり、相従ふの輩、遠江守義定・(中略)・三浦十郎義連・(中略)・平山武者所季重・(中略)・熊谷次郎直実・同小次郎直家・(中略)、已下二万余騎なり、平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中守師盛(中略)已下七千余騎、当国三草山の西に着く、源氏また同山の東に陣す、三里の行程を隔て、源平東西に在り、爰に九郎主信綱・実平の如きに評定を加へ、暁天を待たず、夜半に及びて三品羽林を襲ふ、よって平家周章分散しおわんぬ、
○元暦元年二月七日条
雪降る、寅剋、源九郎主、まづ殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山に着く<鵯越と号す>、(熊谷・平山抜け駆け譚省略)、その後蒲冠者ならびに足利・秩父・三浦・鎌倉の輩等競ひ来る、源平の軍士等互いに混じり乱る、白旗赤旗色を交ふ、闘戦の為躰、山に響き地を動かす、彼の樊張良と雖も、輙く敗績し難きの勢ひなり、しかのみならず城郭、石厳高く聳へて駒蹄通ひ難く、澗谷深くして人跡已に絶ゆ、九郎主三浦十郎義連已下の勇士を相具し、 鵯越<この山猪・鹿・兎・狐の外は通はざるの険阻なり>より、攻め戦ふの間、商量を失ひて敗走す、或は馬に策ち一谷の館を出て、或は船に棹し四国の地に赴く、(重衡生け捕り・通盛討ち死等省略)、薩摩守忠度・若狭守経俊・武蔵守知章・大夫敦盛・業盛・越中前司盛俊、以上七人は、範頼・義経等之軍中討ち取る所なり、但馬前司経正・能登守教経・備中守師盛は、遠江守義定これを獲る、

 四日条によれば、平氏の軍勢は数万騎であり、摂津と播磨の境の一谷(一ノ谷)に城郭(一ノ谷城郭)を構えたという。
 ついで五日条。源氏はその日の酉刻(午後六時頃)に摂津に到着し、七日卯刻(午前六時前後)を「箭合」(戦闘開始)の時刻と定めたという。源氏の軍勢は、大手の範頼軍が五万六千余騎、搦手の義経軍が二万余騎であり、義経軍には、遠江守義定(安田義定)・三浦義連・平山季重・熊谷直実・直家等が従っていた。
 そして五日条は、三草山合戦の記事に移る。平氏は、平資盛等の軍勢七千余騎を派遣し、三草山の西に布陣し、一方、義経軍は同じく東に布陣した。両軍は三里(十二キロ程)を隔てて対陣した。義経は、田代信綱や土肥実平等に相談のうえで、平氏軍を夜襲して潰走させた。
 なお、田代信綱や土肥実平は、頼朝から義経の補佐役として付けられた鎌倉御家人であり、義経同様に頼朝の代官である。また、三草山の推定地は、現在の兵庫県加東郡社町と大阪府豊能郡能勢町(兵庫県川辺郡猪名川町との境)の二箇所がある。
 ついで七日条は一ノ谷合戦の本戦の記事である。その日は雪だったらしい。寅刻(午前四時前後)、義経は、軍勢のなかから勇士七十余騎を選び、「一谷の後山<鵯越と号す>」、つまり一ノ谷城郭の背後にそびえる「鵯越」という山に着いた。この七十余騎は義経軍のなかでも特に選りすぐりの勇士である。
 その後、引用は省略したが、この義経軍から平山季重・熊谷直実・直家が密かに抜け駆けし、一ノ谷城郭の前路を迂回して、海岸沿いに一ノ谷城郭に迫った。そして、源氏の先陣であることをその姓名とともに声高に名乗った。この直実・季重の挑発に平氏が応じるかたちで、一ノ谷城郭での戦闘が始まったのである。
 その後は、範頼と足利・秩父・三浦・鎌倉等の武士達も加わり、源平入り交じった大乱戦となり、一進一退で容易に決着の付かない状態となった。しかも一ノ谷城郭は、岩石が高くそびえて馬が通えず、谷川が深く人も通えない要害の地にあった。つまり源氏は一ノ谷城郭を攻め倦んだのである。
 この状況をおそらく「鵯越」の山上からながめていたであろう義経は、三浦義連以下の勇士とともに、猪・鹿・兎・狐以外は通わないという「険阻」(峻険)の「鵯越」から攻撃に出た。『吾妻鏡』には直接記されていないが、険阻からの攻撃ということであるから、それが「坂落とし」をいっていることは間違いないであろう。これに平氏は一気に崩れた。馬で城郭から逃げ出す者、船で四国を目指す者と様々であった。
 この合戦で平重衡は捕虜となり、平通盛・忠度・経俊・知章・敦盛・業盛・越中盛俊等七人が義経・範頼に、平経正・教経・師盛等の三人が安田義定に討ち取られた。
 なお、安田義定は、甲斐源氏の出身であり、水鳥の羽音に驚いて平氏が敗走したという治承四年(一一八〇)十月の富士川合戦でも大きな働きをし、また、木曽義仲に同行して入京するなど、頼朝に対して独立性も強かった人物である。
 また、七日条によれば、義定が討ち取った人々のなかに能登守教経(平教経)の名前がみえる。これは『吾妻鏡』二月十五日条にもみえ、『吾妻鏡』では、教経は以後の合戦には出てこない。しかし、『平家物語』では、教経は以後の合戦で大きな活躍をし、壇ノ浦で入水する。教経が一ノ谷で討ち死にしたのならば、『平家物語』での教経の活躍はまったくの虚構ということになる。しかし、それは考えづらい。
 そもそも教経の生存は、平氏の首が都大路を渡されるなか、「渡さるるの首の中、教経においては一定現存と云々」と『玉葉』に記されている(二月十九日条)。この「現存」は教経の首が確かにあったという意味にも取れるが、やはり教経の生存を確認したという意味であろう。生存が確認されたということは、死亡説もあったことの裏返しであるが、教経が一ノ谷合戦で討ち死にしたというのは『吾妻鏡』の誤報であるらしい。

 『吾妻鏡』の解釈

 以上の『吾妻鏡』のうち、七日条を解釈してみよう。
 まず大手の範頼軍の動向は記されていない。一方、搦手の義経軍は、三草山合戦の後、軍勢が三分割されたと考えられる。つまり義経が勇士七十余騎を率いて一ノ谷城郭の後山である鵯越に向かい、そのなかから熊谷・平山が抜け駆けして一ノ谷城郭の、おそらく正面(地理的には西側)に向かった。そこは義経軍が本来向かうべき所であり、義経が抜けた残りの本隊もそこに向かったものと考えられる。つまり義経軍は、後山と正面(西側)の二方向から一ノ谷城郭を攻撃したという考えが成り立つ。
 そして、ここが解釈のひとつのポイントだが、義経が抜けた残りの本隊は誰が指揮したのであろうか。そこで注目されるのが、義経・範頼とともに軍功者として名前の出てくる安田義定である。義経の抜けた本隊を指揮して一ノ谷城郭の正面に向かったのは、安田義定ではなかろうか。逆にだからこそ軍功者として名前が出てくるのであろう。
 一方、四日条によれば、一ノ谷城郭は摂津と播磨の境にあった。とすれば、その位置は、現在の神戸市須磨区、昭和五年(一九三〇)に一ノ谷町と命名されたという地域以外には考えられない。しかもこの位置に城郭を構えることは、神戸市の地形から戦略的に考えても納得がいく。
 というのも、神戸市は、北側には六甲山系が連なり、南側は海という、海山に挟まれた東西に長い地形である。そこを防衛する場合、やはり東西の海山に挟まれて地形がもっとも狭くなった場所に防衛施設を設置するのがもっとも有効であろう。あとは北の山側の谷筋にいくつかの防衛施設を設置すれば、陸路からの攻撃は防げたはずである。海上からの攻撃もできるが、当時の源氏軍にはまだ水軍はないし、平氏は陸上だけではなく、海上にも船を浮かべていた。
 そこで神戸市の地図をみると、鉢伏山が北に張りだして海に迫った須磨浦公園付近が、神戸市の西側ではもっとも地形が狭い地点となっている。したがって、その背後の一ノ谷は防衛施設を設置するのに最適の場所といえる。
 そして、一ノ谷城郭が須磨区にあったとすれば、その後山とは、現在の鉢伏山や鉄拐山ということになる。そこは断崖で谷川が深いという記述にも合致することになる。しかも『吾妻鏡』ではそこを鵯越といっているのであり、つまり『吾妻鏡』でいう鵯越とは、現在地の鵯越(神戸市長田区・兵庫区・北区にまたがる地域)ではなく、鉢伏山や鉄拐山ということになる。そこは猪・鹿・兎・狐以外は通らない(つまり獣道しかない)険阻であり、そこから義経は「坂落とし」という奇襲で一ノ谷城郭を攻撃し、合戦に決着をつけたことになる。

 宗盛の返書

 ところで、一ノ谷合戦後、屋島に逃げ帰った宗盛のもとに捕虜となった重衡から勅定(朝廷の意志)を伝える書状が届く。内容は安徳と神器の返還を促すものであった。それに対する宗盛の返書が『吾妻鏡』二月二十日条に載っており、その日に京都に届いたという。その返書のなかに一ノ谷合戦を考えるために示唆的な記述が含まれているので、『吾妻鏡』にみえる一ノ谷合戦の一環として、ここで紹介しておく。
 なお、この返書を『吾妻鏡』が二月二十日条に載せるのは、返書自体の日付が二月二十三日であることからも間違いで、『玉葉』などと併考すれば、二十六日条か二十七日条に載せるのが正しい。
 さて、返書のなかで宗盛は、平氏を「官軍」と位置付け、後白河に対して謀反の意志がないことを強調している。それどころか、還幸(安徳の帰京)しようとするたびに、軍勢を送ってそれを妨げている後白河をかえって非難している。還幸を妨げている軍勢とは義仲であり、今回の義経・範頼である。
 考えてみれば、清盛がクーデターを起こして後白河を幽閉して院政を停止したのは事実である。しかし、その後の内乱の過程のなかで、平氏は謀反といえることは何もしていない。官軍として内乱の鎮圧に務めていたわけである。それが義仲に追われるかたちで都落ちすると、手のひらを返すようにたちまち賊軍とされてしまったのである。こう考えると、宗盛の主張にも一理あると考えられる。官軍か賊軍かはすべて朝廷(後白河)の思惑で変わるのである。
 そして、返書には一ノ谷合戦の裏事情が記されている。それによれば、後白河から一ノ谷合戦前日(六日)に宗盛のもとに書状が届いた。それは、八日に御使(和平の使者であろう)を送るから、その御使が帰京するまでは合戦を起こさないようにという内容であり、そのことは関東武士等にも伝えてあるという。そこで、平氏はそのことを守り、またもとより戦闘の意志もなかったので、御使の下向を待っていた。ところが、七日になって関東武士等が急に襲撃してきて合戦となり、官軍(平氏軍)の多くが討ち死にしたというのである。
 宗盛は、関東武士等に院宣の内容が伝わっていないのか、伝わっていても武士等がそれを無視したのか、それとも後白河の策謀か、詳細を承りたいと強く抗議している。
 追討か和平かで朝廷側にジレンマがあったことはすでにふれた。また、朝廷は実際に合戦前に和平の使者を送ろうともした。だから、後白河の書状は真実を伝えていたのかもしれない。逆に平氏を油断させるための策謀かもしれない。その一方で、合戦前に平氏はすでに一ノ谷に城郭を構えているし、また五日には三草山に軍勢を送っているわけだから、もとより戦闘の意志がなかったという宗盛の主張も必ずしも信用できない。結局、真偽は不明なのだが、ともかくも『吾妻鏡』によれば、一ノ谷合戦には、平氏と後白河の間で、このような裏事情があったらしいのである。