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一ノ谷合戦
はじめに
1.『玉葉』にみえる一ノ谷合戦
2.『吾妻鏡』にみえる一ノ谷合戦
3.『玉葉』と『吾妻鏡』の総合的解釈
4.『吾妻鏡』の史料性と覚一本の位置
1.『玉葉』にみえる一ノ谷合戦
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(執筆・ 近藤 好和)

 原文と要約

 では、『玉葉』からみていこう。『玉葉』にみえる一ノ谷合戦に直接関わる記事はつぎの両日条である。まずは原文を読み下して示そう。

○元暦元年二月四日条
源納言示し送りて云ふ、平氏主上を具し奉り、福原に着きおわんぬ、九国いまだ付かず、四国・紀伊国等の勢数万と云々、来る十三日一定入洛すべしと云々、官軍等手を分くるの間、一方僅かに一、二千騎過ぎずと云々、天下の大事大略分明と云々、
○元暦元年二月八日条
未明人走り来りて云ふ、式部権少輔範季朝臣の許より申して云ふ、この夜半ばかり、梶原平三景時の許より飛脚を進めて申して云ふ、平氏皆悉く伐り取りおわんぬと云々、その後午刻ばかり定能来り、合戦の子細を語る、一番に九郎の許より告げ申す<搦手なり、まづ丹波城を落とす、次いで一谷を落とすと云々>、次いで加羽の冠者案内を申す<大手、浜地より福原に寄すと云々>、辰の刻より巳の刻に至る、猶一時に及ばず、程なく責め落としおわんぬ、多田行綱山方より寄せて、最前に山手を落とさると云々、大略籠城中の者一人も残らず、但しもとより乗船の人々四五十艘ばかり島辺に在りと云々、廻らし得べからざるにより、火を放って焼死しおわんぬ、疑ふらくは内府等かと云々、伐り取る所の輩の交名いまだ注進せず、よって進らずと云々、剣璽・内侍所の安否、同じくもっていまだ聞かずと云々、

 四日条によれば、両軍の勢力は、平氏は四国と紀伊の軍勢を合わせて数万、一方の源氏は、大手・搦手の二軍に分けたので、一方で一・二千騎にすぎなかったという。このことを兼実に報告した源納言(源定房)は、「天下の大事大略分明」(すでに勝負はついた)と諦観をもらしているが、軍勢では平氏が圧倒的に有利だったらしい。
 八日条は一ノ谷合戦の戦況報告である。これによれば、九郎つまり義経が搦手として、丹波城と一谷(一ノ谷)を攻略し、加羽冠者つまり範頼が浜地(海岸)から福原を攻めたという。戦闘は、辰刻(午前八時前後)から巳刻(午前十時前後)までで、一時(二時間)も経たないうちに終わったらしい。また、多田行綱が山方から最前(最初)に山手を攻略したという。平氏は「大略籠城中の者一人も残らず」という有様であり、壊滅的な打撃を被ったらしい。また、平氏は上陸せずに船にいた人々もあり、四・五十艘の船が島辺(経が島辺)にあったが、船をめぐらすことができずに、火を放ち焼死したという。それは平宗盛達であったかという。しかし、いまだ合戦で討ち取った人々の交名(姓名)は届いておらず、また、神器の安否も不明であった。

 つまり八日条によれば、平氏は、丹波城・一ノ谷(搦手)・浜地・福原(大手)・山手・島辺(経が島)に布陣しており、義経が搦手としてまず丹波城、ついで一ノ谷を攻略し、範頼が大手として浜地から福原を攻撃し、行綱が山手を攻略したことになる。このうち丹波城を攻略したというのは、三草山合戦のことに相違ない。また、山手(山の手)に平氏が布陣していたことは、『平家物語』にもみえるが、そこを行綱が攻略したことは、『玉葉』の独自記事である。
 なおうえで、義経・行綱は「攻略」、範頼は「攻撃」と語句を使い分けたことには意味がある。つまり『玉葉』では、義経や行綱は一ノ谷や山手を「落」(落とした)とあるのに対し、範頼は福原に「寄」(寄せた)とあるからである。範頼軍は福原を攻撃はしたが、攻略はしていないらしい。以下でも、この解釈に基づいて、語句を使い分けていく。
 ところで、多田行綱は、摂津源氏出身で摂津多田荘を本拠地として京都で活動している京武者である。治承元年(一一七七)、藤原成親らが平氏転覆を策した鹿ヶ谷の密議に参加していたが、それを清盛に密告したことで有名である。その後は、平氏・義仲・義経と時の権力者を次々と渡り歩き、日和見主義の典型とまで言われている人物である。この時は義経に協力しているが、のちには義経にも反旗を翻す。