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一ノ谷合戦
はじめに
1.『玉葉』にみえる一ノ谷合戦
2.『吾妻鏡』にみえる一ノ谷合戦
3.『玉葉』と『吾妻鏡』の総合的解釈
4.『吾妻鏡』の史料性と覚一本の位置
はじめに
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(執筆・ 近藤 好和)

 一ノ谷合戦を考えるための文献資料

 元暦元年(寿永三年、一一八四)二月七日、現在の神戸市域の広い範囲で、源範頼・義経率いる源氏(官軍)が、平氏を打ち破った。これが一ノ谷合戦である。ただし、この名称は通称であり、のちにみるように一ノ谷だけで戦闘が行われたわけではない。しかし、ここでは通称を使っておく。また、一ノ谷合戦の前哨戦として、二月五日に、摂津と丹波の境の三草山で、義経軍と平氏が対戦し、夜襲により義経軍が勝利した。これを三草山合戦というが、ここでは、この三草山合戦を含めて広く一ノ谷合戦とよぶことにする。
 こうした一ノ谷合戦を考えるための文献史料としては、九条兼実の『玉葉』、『吾妻鏡』、そして『平家物語』がある。このうち、やはりもっとも信憑性の高いのが、当時の同時代史料である『玉葉』であり、一ノ谷合戦を考えるための文献史料の基本となろう。
 いつで、一般論からいえば、後世(鎌倉末期)の編纂物だが公的性格の強い『吾妻鏡』、そして『平家物語』の順となる。ただし、『吾妻鏡』の一ノ谷合戦譚に関しては、『平家物語』に依拠しているという指摘がある。そのためもあって、一の谷合戦譚に関しては、『吾妻鏡』は顧みられないことが多い。しかし、『吾妻鏡』には『平家物語』とは相違する記述もあり、しかもその相違の部分は、『平家物語』よりも現実味があると考えられるのである。
 とりわけ、一ノ谷合戦といえば、義経によるいわゆる「坂落とし」の問題が大きくクローズアップされる。「坂落とし」のことは『玉葉』には記されておらず、『吾妻鏡』と『平家物語』に記されている。そこで、これまでは「坂落とし」といえば、『平家物語』中心に考えられてきた。
 しかし、『平家物語』の一ノ谷合戦譚には個々の記述(とりわけ地名など)に矛盾があり、また戦闘の行われた神戸市域すべてを一ノ谷とよぶような作為もある。一ノ谷合戦という通称も『平家物語』からきているわけだが、そのため、『平家物語』を中心に考えると、かえって問題は混乱する。言い換えると、これまで「坂落とし」の問題はいろいろと議論されて結論が出ていないけれど、その混乱の原因は『平家物語』中心に考えてきたことにあったと考えられる。
 そうしたなかで、『吾妻鏡』の一ノ谷合戦譚を改めて見直してみると、じつは『平家物語』と相違する部分に、「坂落とし」の問題を考えるための鍵があるように感じられる。そこでここでは、一ノ谷合戦のうち「坂落とし」の問題に焦点を当て、『玉葉』と『吾妻鏡』の分析を中心に据えてみていきたい。

合戦前の動向


 本題に移る前に、源平両軍の合戦前の動向を簡略に示しておこう。
 まずは平氏。寿永二年(一一八三)七月に都落ちした平氏は、まず福原に入り、そこを焼き払った後に九州に向かう。しかし、九州を追われ、その後、讃岐の屋島に入った。それ以後は勢力を盛り返し、木曽義仲や源行家などの追討軍を打ち破り、翌元暦元年正月頃には、ふたたび福原に入り、上洛の機をうかがっていた。
 一方、源氏は、正月二十日に木曽義仲を追討し、二十九日には平氏追討に出立する。木曽義仲追討から出立までの間、朝廷では、平氏追討か、和平により、都落ちの際に平氏が持ち去った三種の神器を無事に返還させるかで、意見が分かれており、和平の使者さえ送ろうとした。そうしたジレンマのなかでの出立であったが、源氏は、範頼軍が大手として、海岸沿いの山陽道を進み、義経軍が搦手として、北の丹波路の山中を迂回する作戦を取ったのである。