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福原遷都
福原遷都
発掘された福原
語句解説
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(執筆・ 神戸大学 名誉教授 高橋 昌明)


平清盛(1118〜1181)
   平安時代末期の武将で最高権力者。忠盛の長男で、父の死後、武門の棟梁としての地位を継ぐ。 父同様、鳥羽上皇の近臣として昇進するが、 保元の乱では後白河天皇方の中心的な武力として活躍した。 さらに平治の乱では熊野詣から引き返して源義朝を倒した。 以後、全国的な軍事警察権を掌握し、仁安2年(1167)には従一位太政大臣に至った。 翌年出家して摂津福原に別荘を造営し、そこに移って京都の政界からは引退する。しかし、 以後も平家一門の家長として発言権を維持しつづけ、大事には上洛して存在感を見せつけた。 清盛は当初、妻の妹で後白河上皇最愛の后であった平滋子(建春門院)を仲立ちとして、 後白河上皇の院政とは協調的な関係にあったが、 安元2年(1176)に滋子が没すると、両者の対立が表面化した。治承元年(1177)には、 清盛打倒の謀議の発覚で院の側近を処刑 (鹿ヶ谷事件)。 同3年に院の政策に反発してクーデタを決行、後白河院を鳥羽殿に幽閉した。 清盛は娘徳子の生んだ 安徳天皇を即位させ、本格的な平氏政権が発足するが、一方で後白河幽閉や強引な政治手法に対し、反発も強まってゆく。 治承4年、以仁王の乱が起こり、それを機に内乱状態が全国に広がり、各地で武士が挙兵した。福原から還都した後、反乱への対応につとめたが、 治承5年熱病にかかり、 64歳で没した。なお、『平家物語』などに白河法皇の落胤であったと記されているが、その昇進が異常なスピードであったことからも、 その可能性は高いと見られる。
→関連リンク 源平特集-人物解説


上皇
 退位した天皇のこと。このころは幼い天皇に代わり、その直系尊属である上皇や法皇(出家した上皇)が政治に積極的に関与していた。 その中でも天皇家の家長を治天(治天の君)といい、退位した治天が政治の実権を握っている政治のあり方を院政という。


保元の乱
 保元元年(1156)7月、天皇家・摂関家の内部対立から京都で起きた兵乱。久寿2年(1155)、近衛天皇が危篤状態に陥ると、後継の地位をめぐって、 近衛の異母弟・崇徳上皇の皇子である重仁を推す勢力と、崇徳の同母弟の雅仁親王の皇子である守仁を推す勢力が対立した。 近衛の生母である美福門院得子は、崇徳が治天となることで、自らの影響力が低下することを恐れ、近衛が没すると、鳥羽にはたらきかけて重仁の即位を阻止し、 守仁の父である雅仁(後白河天皇)を皇位に就けさせた。これによって崇徳は治天(天皇家の家長)となる道を絶たれ、政界から事実上排斥された。 一方、同じ時期、摂関家でも摂政忠通が、父の前関白忠実および弟の左大臣藤原頼長と摂関職継承をめぐって対立していた。忠通は頼長を養子にしており、 摂関職は頼長に譲られる予定であったが、忠通に長男基実が生まれたため、忠通は頼長への摂関職譲与を渋ったので、久安6年(1150)、忠実はついに忠通を義絶して、 本来摂関職と一体化していた藤原氏の氏長者の地位を忠通から奪い、頼長に与えた。しかし、忠通は近衛天皇が没すると美福門院と連携して、後白河即位に動き、 即位後は近衛を呪詛していたとの噂を広めて、忠実・頼長に対する鳥羽の信用を失わせ、かれらを孤立に追いこんだ。 そして、保元元年、鳥羽法皇が没すると、美福門院・忠通は崇徳・頼長が謀反を企てているとして挑発、崇徳方が白河北殿に立て籠もって軍兵を招集すると、 これを攻撃して打ち破った。頼長は戦闘で負傷し、奈良に逃れようとしたが、その途中で没し、忠実は、京都郊外の知足院に幽閉された。崇徳は讃岐に配流。 崇徳方に参戦した武士の中で、主力として戦闘に加わった清盛の叔父忠正や源義朝の父為義は、乱の後、身内の清盛・義朝によって処刑された。


平治の乱
 平治元年(1159)12月、京都で起こった兵乱。保元の乱の後、後白河天皇の乳母の夫である信西入道(藤原通憲)が 台頭して、大内裏を復興、荘園整理などの政策を推し進めた。 後白河の側近であった藤原信頼はこれと対立、平治元年12月、反信西派の貴族や源義朝と結んだ信頼は、信西に近い平清盛が熊野詣に出た隙を狙って兵を挙げ、 後白河上皇・二条天皇を自らの下に確保した。信西は宇治田原まで逃れた自殺した。報を聞いた清盛は熊野から引き返して六波羅に入った。 その後、二条天皇側近グループが信頼から離反し、監視下の二条天皇・後白河上皇を内裏から脱出させ、六波羅に行幸させる。 天皇・上皇を奪われた信頼方は、謀反人として追討を受ける身となり、大内裏・六波羅で合戦に及んだ末に敗北、信頼は六条川原で斬首され、 義朝は尾張国(愛知県西部)に落ちのびたところを、家人の裏切りにあって殺害された。


後白河法皇(1127〜1192、在位1155〜1158)
 平安時代末期の天皇・上皇・法皇。名は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子で、母は待賢門院璋子。鳥羽天皇は、皇位を雅仁の同母兄の崇徳天皇に譲り、 崇徳の後は、鳥羽と寵后藤原得子(美福門院)との間に生まれた近衛天皇に皇位を継承させた。このため、長く政治面にかかわらず、今様などの芸能に没頭する生活を送る。 近衛天皇が急死すると、美福門院に養育されていた後白河の子・守仁(のち二条天皇)が脚光を浴び、久寿2年(1155)、雅仁が守仁への即位を前提に、中継ぎとして即位した。 翌保元元年、父の鳥羽法皇が没すると、崇徳上皇および摂関家の忠実・頼長との間に武力衝突が生じたが(保元の乱)、短時間の戦闘で勝利する。乱後、 後白河の乳母の夫であった信西入道(藤原通憲)が中心になって、荘園整理を断行、大内裏を整備して天皇への権力集中をはかった。 保元3年(1158)には二条天皇に譲位して上皇となるが、翌年には院近臣藤原信頼と信西との対立から平治の乱が起こった。また二条親政派と対立するなど政権は安定せず、 平治の乱後、国家的な軍事・警察権を掌握した平清盛を重用して、彼への依存を強めた。嘉応元年(1169)年出家して法皇となる。 清盛との協調関係は長続きせず、治承元年(1177)には院近臣らによる平氏打倒の陰謀が発覚(鹿ヶ谷事件)、同3年には後白河が重盛の知行国を没収した ことなどにより、両者の対立は頂点に達し、11月清盛のクーデタによって、鳥羽殿に幽閉された。 この翌年、後白河の第二皇子以仁王が反乱を計画すると、各地の武士がこれに応え挙兵する。 寿永2年(1183)、平家を追って木曾(源)義仲が上洛にするが、以後後白河は源頼朝と結んだ。 源義経が義仲や平氏を滅ぼすと義経を重用して、頼朝追討宣旨を下すなど、自らの権力維持につとめた。 なお、頼朝が述べた「日本一の大天狗」という表現は、権謀術数をこととした後白河のイメージを示すものとされている。
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摂津福原
 兵庫区のうち、旧湊川の中流域を中心とした地域。応保2年(1162)、平清盛は家司藤原能盛に命じて八部(やたべ)郡一帯の 検注(年貢・官物を確保するために行う土地調査)を行わせており、それとともに福原も平氏の支配下に入ったものと見られる。 仁安3年(1168)、清盛は出家すると六波羅の邸を重盛に譲り渡して福原に移り、隠棲生活を送った。嘉応2年(1170) 清盛が後白河法皇を宋人と会わせたことが知られるように、清盛はここを拠点として宋との貿易を行っていたと考えられ、 治承4年(1180)には天皇以下が行幸し、さらに都造りが試みられた。しかし、寿永2年(1183)、平氏政権が崩壊し、平氏一門が都落ちすると、 平宗盛らはこの地に火を放ち、邸宅や市街は焼き払われた。

大輪田泊(おおわだのとまり)
 現在の兵庫区和田岬東方にあった古代の港。古来瀬戸内海航路の停泊地として著名で、奈良時代に僧行基が整備したといわれる。古代には国家によって管理され、 入港する船舶から管理費用が徴収された。

中国との貿易
貿易に使われた宋船の模型 福岡博物館蔵
(神戸市立博物館発行
『日中歴史海道2000年』より)
 平安時代の前期には、遣唐使の廃止や唐商船の来航制限に見られるように、日本の外交は著しく消極的なもので、中国との交易は低調であったが、 978年、宋の太宗が中国を統一して政情が安定化すると、宋の商人が多数日本に来航し、日本商船も多くが宋へと進出していった。このような流れの中、 平氏も早くから中国との貿易に積極的に関わっており、清盛の父平忠盛は、長承2年(1133)、肥前国神崎荘の預所であった時、大宰府の許可を得ずに、 博多で宋人と直接貿易を行おうとして問題になっている。清盛は安芸守・播磨守に就任することで瀬戸内海沿岸に拠点を形成。 また大宰大弐となり、大宰府の官人を平氏家人に組織し、日宋貿易の最重要拠点を確保していた。清盛はさらに瀬戸内海航路を整備し、 大輪田泊を改修することで、宋船が直接輪田まで入港できるようにし、福原を拠点に貿易を進めた。


経の島
 平清盛が大輪田泊に承安3年(1172)から安元元年(1175)にかけ築造した人工島。その名は築造時、風波によって工事が難航したため、 築造用の石に経を書写して沈めたことに由来するとされる。場所・規模などは不明だが、現在も兵庫には島上町や築島という地名が残っており、この付近にあったものと理解される。

11月軍事クーデタ
 治承3年(1179)11月、平清盛が政権を掌握した政変。この年6月、清盛の娘で関白近衛基実の妻となり、 基実の没後は100ヶ所以上に上る摂関家領を相続した白川殿盛子が没し、 8月には清盛の後継者だった内大臣重盛が没する。 平家は、基実没後盛子が相続していた摂関家領を高倉天皇領に移そうとするが、清盛と対立していた後白河は これに介入、 自らの管理下においた。またこの時期、重盛が多年知行国主として支配権をもっていた越前を没収するとともに、清盛に敵対的な関白松殿基房の嫡男・師家を、 8歳で中納言に任官させるという強引な人事を行った。これに反発した清盛は、11月14日数千騎の大軍を率いて福原から上洛し、 後白河を鳥羽殿に幽閉、関白基房・太政大臣藤原師長以下、院の近臣公卿をいっせいに解任、一部を流罪に処した。清盛は基実の嫡子で盛子の養子になっていた近衛基通を関白にし、 さらに翌年娘徳子の生んだ外孫である安徳天皇を皇位につけて本格的な平氏政権を発足させる。 この事件によって、平氏は大量の知行国を獲得し、『平家物語』で「平家知行の国三十余カ国、既に半国に及べり」といわれるような状況が現出した。 しかし、藤原氏の氏長者でもあった関白基房が流罪になったことから、興福寺が平氏に敵対し、地方でも国主交替に伴って混乱が生じたように、 政変は平氏に反発する勢力を増やすことにもつながり、結果的には平氏政権崩壊のひきがねとなるものであった。

高倉天皇(1161〜1181、在位1168〜1180)
 平安時代末期の天皇。名は憲仁。後白河天皇の第三皇子で、母は建春門院滋子。 後白河は当初、第一皇子守仁(二条天皇)への中継として即位したが、譲位後院政をしこうとして、二条と対立。一方で後白河は平滋子を寵愛し、 応保元年(1161) その間に憲仁が生まれたので、彼が位継承候補者として注目されることになった。 同年憲仁の立太子を謀ったとして、滋子の兄時忠が流罪となる事件も起きたが、永万元年(1165)、二条が没し、 病弱な六条天皇(二条の皇子)が即位すると、その皇太子になり、仁安3年(1168)即位した。母滋子の姉時子が平清盛の正妻であったため、 平氏との関係は密接で、皇太子時代、その事務を管掌する勅別当の任には清盛があたり、 承安2年(1171)には清盛の娘徳子が中宮になっている。治承3年(1179)、清盛がクーデタを起こして 後白河法皇の院政を停止したことにより、高倉親政が開始される。 さらに翌年には安徳天皇に譲位して高倉院政が開始され、その中枢を平氏一門が占めた。 晩年、清盛に抗し自分の意志を通す面もあったが、健康を害し、養和元年(1181)、21歳という若さで死去した。
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安徳天皇(1178〜1185、在位1180〜1185)
 平安時代末期の天皇。名は言仁(ときひと)。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘徳子(建礼門院)で、 治承2年(1178)、誕生すると、1ヶ月足らずで皇太子になり、同4年、3歳で即位した。皇太子時代、西八条殿で安徳が障子に穴をあけ、清盛がその障子を倉に納めるよう命じたのは、 清盛の安徳への溺愛を示す逸話として有名。 即位後まもなく以仁王の乱が生じ、福原遷都と還都、南都焼き討ちなどがあり政権は安定せず、治承5年、清盛が死去する。 寿永2年(1183)、木曾(源)義仲が入洛すると、平氏にともなわれて都落ちし、西国に下向する。 元暦2年(1185)、壇ノ浦合戦で平氏は滅亡し、安徳も祖母時子に抱かれて入水、8歳で没した。 時子は三種の神器を持って入水し、うち神鏡・神璽はのちに発見されたが、宝剣は見付けることが出来なかった。
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平滋子(1142〜1176)
 後白河上皇の女御。鳥羽上皇の近臣だった平時信の娘。後白河の姉上西門院統子に仕えたのをきっかけに、後白河の寵愛を得、 応保元年(1161)、第三皇子憲仁親王を出産した。永万2年(1166)、憲仁が皇太子になると、従三位の位を与えられ、翌仁安2年には女御となった。 仁安3年、憲仁が即位すると(高倉天皇)、その母として皇太后となり、嘉応元年、女院号を宣下されて建春門院となった。 この間、後白河の寵愛を一身に受けて、後白河院政の中で一定の発言権を有し、熊野御幸などで後白河が不在の時には、彼女が院政を代行していたことも指摘されている。 姉時子が平清盛の正妻であったため、彼女の存在は平氏と後白河とをつなぐ重要な役割も果たしていた。 承安2年(1172)には、御願のための寺院として、後白河の法住寺殿の中に最勝光院が建立され、多くの荘園が寄進されて、権勢の大きさを示したが、安元2年(1176)病にかかり、 7月、35歳で世を去った。

平徳子(1155〜1213)
 高倉天皇の中宮。平清盛の娘で、母は正妻時子。承安元年(1171)、後白河法皇の養女として 従三位の位を与えられ、高倉天皇の女御となり、翌2年に中宮になった。 治承2年には高倉との間に言仁親王が生まれ、同4年、言仁の即位(安徳天皇)によって国母となった。 養和元年(1181)女院号を宣下され、建礼門院となるが、寿永2年(1183)、木曾(源)義仲の入洛によって平氏が 都落ちすると、安徳天皇とともに京都を逃れ、西国に下向する。しかし、元暦2年(1185)、平氏が壇ノ浦合戦で滅亡、天皇は入水する。 徳子も入水を試みたが、捕らえられて京都に送られた。以後、京都郊外の大原で出家し、平家一門の冥福を祈る日々を送ったことは、『平家物語』でよく知られるところである。
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以仁王(もちひとおう)(1151〜1180)
 後白河天皇の第二皇子。京都の三条高倉に邸があったので、三条宮・高倉宮ともいう。権大納言藤原季成の娘・成子を母に生まれたが、 平清盛の妻の妹を母とする憲仁が生まれたため不遇で、親王にもなれなかった。一方、鳥羽上皇最愛の娘で、 多くの所領を相続した八条院[](日へんに章の字)子内親王が、以仁を養子として養育しており、鳥羽から二条へと継承されてきた直系の皇統につながる存在であったと見る見解がある。 治承3年(1179)11月、平清盛クーデタによって後白河法皇が 鳥羽殿に幽閉され、翌年、清盛の外孫安徳天皇が即位すると、自らが正当な皇位継承者だとして、 源頼政ら八条院関係者とともに挙兵を計画した。計画は未然に露顕して捜索をうけるが、園城寺に逃亡し、さらに奈良への脱出をはかった。 これを追撃する平氏軍のとあいだに、平等院付近で戦闘があり、以仁王・源頼政は討ち取られた。 しかし、かれが諸国の反平氏勢力に挙兵をよびかけた「令旨」は、八条院蔵人・源行家によって、伊豆の頼朝の許にも届けられ、 頼朝はこれを根拠に平氏に対する挙兵を開始する。 また、以仁の皇子(北陸宮)は、都落ちした安徳天皇に代わる皇位継承候補として木曾(源)義仲に擁立された。
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平頼盛(1132〜1186)
 平安時代末期の武将で公卿。平忠盛の五男で清盛の異母弟。 母は忠盛の正妻藤原宗子(池禅尼)で、同母兄の家盛が早く没したため、忠盛没後、平氏一門の中で清盛とともに中心的な存在となる。永万2年(1166)大宰大弐となると、 慣例に反して大宰府に実際に赴任するなど、平氏の西国支配や対外交渉において重要な役割を果たした。 一方、正妻の子であったため清盛とは反目、後白河上皇に接近し、独自の行動をとったため、 治承3年(1179)11月のクーデタ時には、清盛が頼盛を攻撃したとの噂まで流れた。寿永2年(1183)の平家都落ちでも、 一門から離脱して京都に残留、鎌倉に下向して頼朝に歓待された。 鹿ヶ谷事件で流罪になった俊寛が彼の妻の兄弟であったことなどから、平氏に対する反乱の黒幕として頼盛を想定する見解もある。 子孫は平氏滅亡後も朝廷に仕えた。
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平教盛(のりもり)(1128〜1185)
 平安時代末期の武将で公卿。平忠盛の三男で清盛の異母弟。 淡路守や能登守などを歴任し、寿永2年(1183)には中納言に至り、門脇中納言と称された。 清盛没後、その後継者となった宗盛を後見し、壇ノ浦の合戦で入水自殺した。
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以仁王の背後にある勢力
 以仁王の挙兵計画が発覚したとき、捜索を逃れた以仁王がまず立て籠もったのが園城寺(三井寺)であり、落ちのびようとしたのが奈良であったように、 以仁王が挙兵に当たって頼みにしたのは京都周辺・奈良の大寺院であった。当時は「王法仏法相依」といわれるように、仏法の興隆が王法の興隆に直結すると観念されており、 さらに院政政権は、国家的法会の執行と人事権の掌握によって仏教界を統制していた。治承3年(1179)11月、清盛クーデタを起こし、後白河法皇を幽閉すると、これら大寺院は、従来の秩序を解体させるとして危機感を抱き、 反発を強めていた。中でも園城寺が反平氏の急先鋒となったのは、後白河の帰依がとくに厚かったためである。南都の興福寺も、藤原氏の氏寺であったため、 氏長者関白松殿基房の流罪に反発して、以仁王に呼応した。以仁王が園城寺に逃げ込むと、園城寺の僧徒は、延暦寺・興福寺に牒状を送って、 反平氏の寺院連合を形成しようとした。しかし、園城寺でも上層部が平氏に同調する動きを見せて内部がまとまらず、平氏に近かった延暦寺の連合から離脱もあって足並みが乱れた。 以仁王は形勢不利と見て奈良への脱出をはかり途中討たれる。以仁王挙兵を背後で支持した勢力として、ほかに以仁を養子として養育した八条院の関係者が考えられる。

奈良の寺院勢力
 以仁王の乱が鎮圧された後、その事後処理として焦点となったのは、奈良の興福寺を中心とした寺院勢力に対する処分の問題であった。院殿上での公卿合議で、親平氏派の公卿は、 以仁王が興福寺に逃げ込もうとした事実が明白である以上、興福寺に対する武力攻撃や所領没収が適当として強攻策を主張、それ以外の公卿からは、興福寺が藤原氏の氏寺であり、 攻撃がおこなわれると有力な仏法の一宗が壊滅してしまうとして、慎重な意見が相次ぎ、まとまらなかった。最終的に、興福寺に対しては、使者を派遣して事情を調査し、 結果によっては官軍を派遣という中道的な方針が決定したが、一方で園城寺への武力攻撃が決定すると、園城寺に呼応して、興福寺の大衆が入洛するとの噂が広がった。 福原遷都はこうした状況の中突然に決定されたため、当寺の貴族の日記でも、その目的について、興福寺攻撃にあたり、 不慮の事態が発生するのを恐れたためかとの推測がなされている(『玉葉』)。

桓武(かんむ)天皇(737〜806、在位781〜806)
 奈良時代末・平安時代初期の天皇。光仁天皇(白壁王)の第二皇子で、母は渡来系氏族出身の高野新笠。光仁は当初井上内親王を皇后とし、 その間に生まれた他戸親王を皇太子としていたが、呪詛事件により皇后・皇太子が廃され、第二皇子である山部(桓武)が皇太子となる。 天智系につながる光仁は、前代までの天武系王朝の政策払拭につとめた。 井上は聖武の娘であり、結果的に光仁は天武の血筋につらなる者を、天皇家から全て排斥することになった。 天応元年(781)に即位した桓武も、父の路線を継承し、天武系の天皇に対する仏事を廃止、天武天皇の定めた八種の姓にかわる新たな姓秩序を構築するなどし、 延暦3年(784)ついに天武系の都であった平城京を廃止して長岡京への遷都を決行した。 しかし、長岡京造営にともなって天皇周辺で不幸が相次いだことなどで、延暦13年(794)さらに平安京への遷都がなされる。 桓武は天上帝(昊天上帝)を祭る中国式の王権儀礼を取り入れるとともに、宮都の造作と対蝦夷戦争を推進して王権の強化につとめたが、晩年、財政の悪化などを理由に、ともに中止した。

天武(てんむ)系天皇
 天武天皇につながる皇統のこと。672年天智天皇が没すると、弟の大海人皇子と天智の皇子である大友皇子が後継の皇位をめぐって争い、 東国を掌握した大海人が勝利して即位した(天武天皇)。天武の後、天智の皇女で天武の皇后であった持統天皇、同じく天智の皇女で草壁皇子の妃であった元明天皇が即位するが、 天武直系の男性皇族即位への中継ぎにとどまり、元正以降称徳までの六代は、天武直系の天皇がつづいた。

天智(てんじ)系天皇
 天智天皇につながる皇統のこと。672年、壬申の乱で天智天皇の皇子大友皇子が敗死し、勝利した天武天皇が即位した結果、以後百年近くにわたり、 天智系の男性皇族からは天皇が出なかった。しかし、奈良時代末期以降、天武系の男性皇族が殺されたり配流されたりして不在になり、 神護景雲4年(770)称徳天皇が独身のまま没したため、天智の第七皇子である施基皇子の皇子にあたる白壁王が即位し(光仁天皇)、天智系天皇が復活した。

長岡京
 現在の京都府向日市・長岡京市などにあった宮都。延暦3年(784)、桓武天皇は元正天皇以来70年以上都として用いられた平城京を廃し、 この場所に新京を造営した。遷都の理由としては、天武系皇統の宮都としての平城京に代わる天智系の宮都を 創出しようとしたことや、寺院勢力の抑制といったことがあげられる。 造営の中心人物であった藤原種継の暗殺や天皇近親の不幸があいついだため、延暦13年(794)造営は中止され、平安京への遷都が実行された。

平安京
 現在の京都市にあった宮都。延暦12年(793)、桓武天皇長岡京にかわる新たな宮都の候補地として、 山背国葛野郡宇太村を調査させ、桓武自身が現地を巡覧するなどして検討を重ねた結果、翌年10月、この地に宮都を建設して平安京と名付け、 同時に山背国を改名して山城国と称することが決定した。 以来、10年以上にわたって造都が続けられたが、同時に行われた対蝦夷戦争による人民の疲弊や国家財政の悪化から、延暦24年(805)、中止された。 その後、桓武の後をうけた平城上皇は、平城京に都を移そうとして失敗する(薬子の変)。そのことにより、平安京はかえって「万代の宮」としての地位を確立し、 明治元年(1868)の明治天皇の東京行幸まで首都として存続した。

大輪田泊の国家の力による改修
 平家は承安3年(1172)から安元元年(1175)にかけ、大輪田泊を私的に修築し、埋立地である経の島を築くなどしたが、 治承3年(1179)平清盛クーデタによって後白河法皇を幽閉し、 政権を完全に掌握すると、翌4年から新たに大輪田泊の改修が国家の事業として行われることになった。 この改修推進の中心は平家の侍大将である平貞能で、朝廷に提出された実施要求書には、必要な労働力について、 (1)摂津(大阪府と兵庫県の一部)・河内・和泉(いずれも大阪府)および山陽・南海両道諸国では、荘園公領をとわず、田一町につき一人、 畠は二町につき一人の割合で人夫を強制雇用する、(2)東海・西海両道諸国については、大小の荷物を運んできた船の船頭・水夫が本国へ帰国する時、三日の人夫役を課する、 という案が示されていた。この年6月、福原遷都が行われたことにより、大輪田泊の改修も和田京造営計画の中に位置づけられたが、 内乱の進展によって新京造営が福原の地に変更縮小され、平安京への還都とともに、計画は頓挫した。

足利健亮(1936〜1999)
 文学博士。京都大学大学院文学研究科修了。大阪府立大学・追手門学院大学を経て京都大学教養部教授、同大学院人間・環境学研究科長を歴任。 日本を代表する歴史地理学者で、特に古代官道、宮都復元研究などの先駆的研究者。主著に『日本古代地理研究』『中近世都市の歴史地理』など多数。

西洞院大路(にしのとういんおおじ)
 平安京の左京を南北に走る大路の一つで、中央の朱雀大路から数えて東方9番目に位置する街路。 現在の京都市の西洞院通にほぼ該当し、南は東塩小路通から東九条を経て、大和街道(竹田街道)に接続する。江戸時代の地誌では、 地名の由来はかつてこの場所にあった洞院川にちなむという。

昆陽野(こやの)
 現在の伊丹市付近一帯をさした地名。古代より西国と京都を結ぶ交通の要衝で、「小屋」とも書かれた。この地に所在する昆陽寺は奈良時代、 行基が建立した崑陽院にはじまるとされ、昆陽池は平安時代以来、歌枕として有名であった。

印南野(いなみの)
 現在の明石市から加古川市一帯をさす地名。広大な台地で、歌枕として『万葉集』にも見え、神亀3年(726)、聖武天皇はこの地に行幸している。 平清盛は仁安2年(1167)、功績によって印南野を大功田として与えられ、子孫に伝えることを許されており、平氏の拠点の一つであった。

大嘗会(だいじょうえ)現大嘗祭(だいじょうさい)
 天皇が即位後、最初に行う新嘗祭で、即位が七月以前の場合は年内に、八月以降の場合は翌年に執り行われた。新穀を奉献する悠紀国と主基国が卜定によって決定され、 それぞれの国司が儀式の準備を担当した。その儀式は新嘗祭とほぼ同様だが、9月に新穀を収穫する抜穂の儀が行われた後、11月の下の卯の日に大嘗宮に設けられた悠紀宮・主基宮で、 供えられた神饌を天皇が神と共食する大嘗宮の儀が行われる。二日目の辰の日から三日目(巳の日)にかけて、宴がもよおされる。四日目には典楽院で豊明節会があり、 五日目に賜禄があって終了した。



九条兼実(くじょうかねざね)(1149〜1207)
 平安時代末期の貴族。関白藤原忠通の三男で、兄の関白基実の養子となる。故実に明るく、仁安元年(1166)に18歳で右大臣になった後、 文治2年(1186)まで20年にわたって右大臣に在任した。長男良通を清盛の孫娘(花山院兼雅の娘)と結婚させているように、 平氏との関係は必ずしも悪いものではなかったが、兄基実の没後、摂関家領が清盛の娘・盛子(基実の妻)を介して平家に横領されたこともあり、平家に対しては批判的な立場をとっていた。 文治元年(1185)平氏滅亡と義経没落後、頼朝後白河の行動を制約するため、 兼実ら親頼朝派公卿を議奏に任じ、同時に兼実を摂政とするよう圧力をかけた。 兼実は翌年摂政となり、頼朝と連携して朝政の刷新につとめた。しかし、頼朝は晩年、娘大姫の入内を画策して後白河の寵妃丹後局や源通親と連携したことから、 両者頼朝と兼実との関係はしだいに悪化し、通親の策謀によって建久7年(1196)失脚した。その日記『玉葉』はこの時代の政治・社会情勢を知る上で最重要史料の一つである。

即位の儀
 天皇の即位にあたっては、神器の継承を中心とする践祚の儀と、皇位継承を天下に知らしめす即位の儀が行われたが、本来二つの儀式は一体で、 桓武天皇以降分離した。 即位の儀は、大極殿の前庭に諸司百官が参列、天皇は中国風の衣装を身につけて高御座に着し、 宣命使が即位の詔を読み上げるという大規模な儀式で、大極殿が失われた中世以降は太政官庁や紫宸殿で行われ、この形式のものが近代までつづけられた。

八省院(はっしょういん)
 大内裏の中心的な官庁。朱雀門の正面に位置し、内裏の南西にあたる。もと朝堂院と称したが、9世紀初めごろより八省院と改称した。 平安京ではしだいに即位・朝賀といった国家的儀礼を行う場になってゆき、安元3年(1177)の火災で焼失した後、再建されなかった。

大極殿(だいこくでん)
 大内裏朝堂院(八省院)の正殿。平安京では八省院の北部方1町四方を大極殿院といい、その中心に大極殿があった。 その場所は現在、京都市上京区千本丸太町の交差点の少し北寄りに当たる。

内裏(だいり)
 天皇の平常の在所。正殿である紫宸殿のほか、仁寿殿・清涼殿・弘徽殿といった殿舎が立ち並び、北部には後宮が存在した。11世紀以降、天皇は正式な内裏ではなく、 京内の邸宅に移ることが多くなり、これを里内裏と称したが、これも内裏を模して造営されることが多かった。本来の内裏は儀式などに際して用いられる程度となり、 中世以降は廃絶した。なお現在の京都御所の原型は、南北朝時代に光厳天皇が御所として用いた土御門東洞院内裏で、やはり里内裏にあたる。

紫宸殿(ししんでん)
 内裏の正殿。内裏南部分にあるため、南殿(なでん)ともいう。檜の白木造、檜皮葺きの建物で、天皇の主催する国家儀礼のいくつかが、この場所で行われた。 東側の宜陽殿とは南北二つの渡廊でつながっていたが、南側の廊を軒廊(こんろう)といい、軒廊御卜と称される占いが行われた。北側の廊は真ん中を壁で仕切り、 その北側を東北廊、南側を陣座と称したが、このうち陣座は仗座とも称し、公卿の議定がとりおこなわれた。

源頼朝(1147〜1199)
 平安時代末期の武将。源義朝の三男で、母は熱田大宮司季範の娘。上西門院蔵人となり、平治の乱で父義朝が敗れると、 捕らえられて伊豆国に配流され、20年間を流人として過ごす。治承4年(1180)、以仁王が挙兵を計画し、諸国の反平氏勢力に挙兵を募ると、これに応じて反乱を起こし、伊豆国目代を討ち取った。 その後、石橋山の戦いで敗れて、いったんは安房国(千葉県南部)まで逃れるが、再び北上して武蔵に入る。平氏の追討軍を富士川の戦いで破って、南関東の支配権を掌握した。 鎌倉に居を構えた頼朝は、侍所をひらき御家人を統制し、鎌倉幕府の基礎をつくる。寿永2年(1183) 後白河上皇が、 木曾(源)義仲に攻められて幽閉されると、頼朝は弟の範頼・義経を派遣し、寿永3年義仲を滅ぼし、翌年には壇ノ浦で平氏を滅亡させた。 この間、後白河は寿永2年10月に宣旨を下し、頼朝による東国支配を公認し、文治元年(1185)義経が頼朝と対立して逃走すると、義経捜索のために、 全国にいわゆる守護・地頭を設置することが認められた。 そして、建久元年(1190)には後白河と対面して全国の軍事・警察権を認められ、幕府の位置を確立させた。このとき頼朝は、参議を経ずいっきに権大納言・右大将に昇進したが、 すぐ辞任して鎌倉に戻り、建久3年には征夷大将軍に任じられ、以後の武家の首長が将軍に任官する先例をつくった。
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木曾(源)義仲(1154〜1184)
 平安時代末期の武将。父は源為義の二男義賢。義賢は摂関家に仕え、上野国(群馬県)・武蔵国(東京都・埼玉県)などで勢力をふるっていたが、 対立する兄義朝の子義平によって討たれ、義仲は信濃国(長野県)の領主中原兼遠によって養育された。治承4年(1180)、以仁王が挙兵を計画し、 諸国の反平氏勢力に挙兵を募ると、これに応じ信濃国を制圧。対する平氏は、越後の城助職を信濃に侵入させたが、横田河原の合戦でこれを破った。 寿永2年(1183)、平氏は追討軍を北陸に進撃させたが、加賀(石川県)・越中(富山県)国境の砺波山(倶利伽羅峠)の戦いで大敗し、勢いに乗った義仲軍は北陸から京都に兵を進め、 平氏を西走させた。義仲は従五位下左馬守に任じられ、平氏没官領を手中にするが、安徳天皇西走後の天皇として、以仁王の子北陸宮を推したことや、 自分より頼朝が重視されたことなどから、後白河法皇との対立が表面化する。同年末、義仲は法住寺殿を攻撃して後白河を幽閉し、後白河の側近・摂政近衛基通を辞めさせて、 13歳の松殿師家を摂政とする政変を断行した。自らは征夷大将軍に任ぜられるが、頼朝派遣の範頼・義経軍に攻撃され、翌寿永3年1月、近江国粟津(滋賀県大津市)で敗死した。
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新平氏派の上流貴族
 清盛が永暦元年(1160)、正三位の位を与えられ、公卿の地位に列して以後、平家一門から次々と公卿に昇進する者が登場し、貴族社会に大きな位置を占めた。 しかし、武門である平家の公卿は、公卿議定と呼ばれる国政への意見反映の場に、直接参加をする識見・能力を認められておらず、 また貴族社会で最重要視された儀式を主宰する故実の知識にもうとかった。とくに政界の実力者である清盛福原に 隠棲して以後は、この点が問題で、未熟未練な平家公卿のかわりに、平氏の意志を代弁する役割を担ったのが、親平氏の公卿達である。その顔ぶれについては、承安元年(1171)、 清盛の娘徳子が女御宣旨が下された時の親族拝に参列した面々が参考になるが、そこには左大臣大炊御門経宗(徳子の養外祖父)、 権大納言四条隆季(息子隆房が清盛の婿、成親の弟)、権中納言藤原邦綱(清盛の息子重衡の妻の父で、清盛養子清邦の実父)、同花山院兼雅(清盛の婿)、参議藤原家通(清盛の養子)、 同藤原実綱(清盛の姉の前夫)、参議頼定(経宗の養子)の名前が見える。このほかにも平氏と密接な関係をもった公卿として、兼雅の父前太政大臣忠雅、 忠雅の弟権中納言中山忠親、忠雅の娘婿源通親などがおり、かれらはみなこの時期の公卿議定の常連メンバーだった。

中山忠親(1131〜1195)
 平安時代末期の貴族。藤原北家道長流の花山院家出身で、内大臣まで至り、中山家の祖となった。兄太政大臣花山院忠雅の嫡男である兼雅が、 清盛の娘を妻としたため、平氏とは親密で、清盛の娘・建礼門院徳子の院庁の別当もつとめた。 有識の公卿としても有名で、その日記である『山槐記』は、この時期の政治について理解する上で一級の史料である。
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堀川
 平安京建設に際し、物資運送の用水路として利用された南北の川。現在では水がわずかに流れている程度であるが、平安時代には川幅は12メートルとかなりの広さがあった。 川の両側に通されたのが堀川通りである。中世、五条堀川には材木市が形成され、材木が筏に組んで堀川に流された。

淀川
 近畿地方の中央部を流れ、大阪湾に注ぐ川。中世の淀川は西国から京都への物流ルートとして重要な位置を占め、楠葉関をはじめとする関所が各所に設けられた。 京都への出入口となる外港としては、平安時代には鳥羽殿に接する鳥羽湊が用いられた。白河法皇によってこの地に鳥羽殿がつくられたのも、 こうした物の流れを掌握する目的をもっていたと考えられる。しかし、鳥羽の外港としての機能は、鴨川の運ぶ土砂の堆積によってしだいに低下し、 鎌倉後期にはその南方に位置する淀が外港として定着、物流の拠点として発展した。

五節舞(ごせちまい)
 新嘗祭の辰の日に行われる豊明節会などで行われた女舞。のち大嘗祭・新嘗祭に行われるのが例となったが、 奈良時代にはそれ以外の日にも行われ、天平15年(743)5月5日には、皇太子安倍内親王(のちの孝謙天皇)が聖武天皇と光明皇后の前で五節を舞ったという記録がある。 平安時代には公卿2人・受領2人(大嘗祭では3人)が舞姫を献上することが規定されており、舞姫には本来その子女がなっていたが、10世紀以降、 遊女などが舞姫として献上されるようになっていた。新嘗祭では丑の日に予行演習として天皇が舞を見る帳台試、寅の日には御前試、卯の日には童女試などが一連の行事として執り行われた。

新嘗祭
 毎年11月下旬の卯の日に行われ、米穀の収穫を祝う儀式。古代から天皇の行う最も重要な儀礼の一つで、天皇は入浴斎戒したのち、深夜、 神嘉殿において新穀によってつくられた神酒・神饌を神々と共に食する。翌日の辰の日には豊明節会と呼ばれる宴があり、群臣が参列し、五節舞が行われた。 天皇が即位の年に大々的に行われる新嘗祭が大嘗会である。

北陸の戦
 寿永2年(1183)、平氏政権崩壊の直接のきっかけとなった戦いのこと。信濃国(長野県)で挙兵した木曾(源)義仲に対し、 平氏は越後の白河を本拠とする城助職に命じ、義仲を攻撃させた。しかし、助職が横田河原の合戦で敗北し、義仲はさらに北陸道に勢力を広げた。これに対するため、 平氏は寿永2年、清盛の孫維盛を総大将に4万の大軍を北陸道に派遣。同軍は4月中に越前に入ったが、 5月11日、加賀(石川県)・越中(富山県)国境の砺波山(倶利伽羅峠)の戦いで大敗し、さらに加賀篠原の合戦でも敗れて、京都へ落ちのびた。

都落ち
 寿永2年(1183)、木曾(源)義仲入洛にともなう平氏政権崩壊と平家一門の西走のこと。この年5月、平家が派遣した官軍が義仲に大敗すると、 7月、義仲は近江国(滋賀県)にまで進出する。これに対し平氏は平資盛を大将とする官軍3千騎を宇治に派遣、比叡山延暦寺を氏寺に位置づけてその離反を食い止めようとしたが、 延暦寺大衆は義仲を支持。7月25日、内大臣平宗盛以下平家一門は六波羅・西八条の邸に火を放ち、 安徳天皇建礼門院徳子をともなって西国へ出奔した。 このとき平氏は後白河や摂政近衛基通をも同行させる予定であったが、後白河は比叡山に難を逃れ、基通は途中からひそかに京都に引き返した。

平宗盛(1147〜1185)
 平安時代末期の武将。平清盛の三男で、母は正妻時子。伯母である建春門院の養子となって、 兄重盛を上回るスピードで出世を果たし、一門ではじめて近衛中将から大将に昇進した。治承3年(1179)、 兄重盛の死により重盛にかわって清盛の後継者として位置づけられ、治承5年、清盛が没すると一門の惣領となった。 官職も養和2年には内大臣になり、また養和元年には五畿内及び近江(滋賀県)・伊勢・伊賀(ともに三重県)・丹波(京都府・兵庫県の一部)の総官に任じられて、 自ら兵糧米徴収の指揮をとり、新たな軍制の確立につとめた。しかし、寿永2年(1183)、木曾(源)義仲の軍勢によって京都を逐われ、 その後再起を試みるが、一ノ谷・屋島の敗戦で九州方面にまで後退、元暦2年(1185)、壇ノ浦の合戦で敗北した。宗盛は入水を試みたものの捕らえられ、鎌倉に送られた後、 息子清宗とともに、近江国篠原駅(滋賀県野洲町)において斬首された。
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(やぐら)跡と推定される特異な掘建柱建物跡
 二〇〇三年、民間資本を導入して神戸大学病院構内の西北隅に立体駐車場を造ることになり、県埋蔵文化財調査事務所によって、1区・2区、二度の事前調査が行われた。 1区では東西二間、南北一間の掘立柱建物跡が検出された。櫓跡と推定されている遺構である。この建物と切合関係にある土坑からは、大量の土師器皿が出土した。 製作手法や口縁部の特徴より、京都系の土師器皿とされるもので、年代的にはほぼ一二世紀後半、 降っても一三世紀初頭の幅に収まり、まさに福原遷都の時代のものである。

2本の壕遺構
 二〇〇三年、民間資本を導入して神戸大学病院構内の西北隅に立体駐車場を造ることになり、県埋蔵文化財調査事務所によって、1区・2区、二度の事前調査が行われた。 2区は1区のすぐ南にあたり、東西方向三九メートルにわたって平行する二本の壕遺構が出土した。1区と一部重なる隣地の八一・八二年の調査で、 その存在・規模が正確に予測されていたものである。二本の壕のうち、北側は幅約二.七メートル、深さ約一.七メートル、断面がV字形(薬研壕)をしており、 南側は断面がU字形(箱壕)で、幅約一.八メートル、深さ約一.六メートルあった。ところで、二本の壕は、広いところでも間が一メートル程度、併せて壕幅五メートル程度なので、 防御機能を想定するには規模が小さい。 区画溝ではないか、また二重壕のように見えるが、館をとりまく北側の壕と、都市区画用の南側の溝が、たまたまこの場所で重なっているだけではないのか、 などの意見が出されている。さらに後者は、壕の方位が近辺の条里状地割の方位と顕著に違っているので、源平内乱の最中に行われた福原宮を中心とする都市造り事業との関連も問題になるだろう 。
 2区の壕底から土師器皿が出ている。製作手法や口縁部の特徴より、京都系の土師器皿とされるもので、年代的にはほぼ一二世紀後半、 降っても一三世紀初頭の幅に収まり、福原遷都の時代のものである。二重壕はおそらく北が内側で、八一・八二年調査で出た大規模な掘立柱建物の一部との関連が注目される。 瓦がほとんど出土していないことから、檜皮葺あるいは板葺の建物だったらしい。頼盛邸は、福原に到着した安徳天皇が入り、 すぐに高倉上皇の御所になった。 この邸で和田京建設計画が検討されたこともあり、同地における平氏邸宅中最重要のものの一つであろう。遺構の西には有馬街道(国道四二八号線)が走り、 約六〇〇メートル北上すると、祇園遺跡にいたる。

京都系の土師器(かわらけ)
 平安時代以降の手捏(づく)ねで成形された素焼きの焼き物で、一般には皿を言う。色は明るい褐色〜白色に近いものが多く、大きさは直径9〜15センチが中心である。 最も簡単に作ることのできる焼き物であるため、古代以来全国各地でつくられてきたが、おおむね10世紀から17世紀初め頃までの期間、 京都で使われていたかわらけと類似した形の土器が京都以外の遺跡でみつかる場合があり、その時、地元のかわらけと区別する意味でこの用語が用いられる。 地元で製作されたかわらけが基本的にろくろ作りであるのに対して、明らかに異なった特徴的な製品であることと、未使用一括大量廃棄といった特殊な見つかり方が多いことから、 その場で、この土器を利用した京都を源流とするなんらかの儀式がおこなわれた可能性が高く、当該遺跡と京都との強いつながりを示す資料とされている。 実際には、京都のかわらけに似せて地元で製作されたものと、京都から運ばれた可能性の高いものがみられるが、胎土分析などにより明らかに京都から運ばれてきたことがわかる場合は、 この用語は使わない。代表的な遺跡は、平安時代終わり〜鎌倉時代が平泉・韮山・鎌倉、室町時代後半から安土桃山時代が各地の代表的な城館跡などであり、 中世の前半と後半で使用の背景が異なっていたことが考えられる。

土坑
 考古学で、地表面を掘りくぼめて造られた穴をさす用語。土壙とも書かれる。

軒瓦
 建物の軒先や棟の装飾に用いられた瓦。軒平瓦と軒丸瓦があったが、軒平瓦は唐草文を飾ることが多かったので唐草瓦、軒丸瓦は形が馬具の鐙に似ていたために鐙瓦と称された。

長江(ちょうこう)
 青海省南西部に水源をもち、東シナ海に注ぐ中国最大の大河。揚子江とはこの川の下流一帯をさす。なお、「河」といえば黄河を意味するように、 たんに「江」と称して長江を意味する場合がある。

吉州窯(きっしゅうよう)
祇園遺跡出土の吉州窯玳玻盞天目小碗
(神戸市教育委員会提供)
 中国・江西省吉安市永和鎮にあった窯。唐末五代のころから越州窯風の青磁や定窯風の白磁・黒磁がつくられた。 宋代には磁州窯風な白地黒花文の精緻な作品も知られ、抹茶法による喫茶の流行に伴って天目茶碗も多くつくられた。 南宋以降、江西省景徳鎮窯に大きな影響を与え、青花磁器が興隆する背景となった。  


博多
 古代より大宰府の外港として用いられ博多津と称されたが、平安時代中期、日宋貿易が盛んになると宋人の居留地がつくられて発展した。 宋商人の中には権門寺院の神人となる者まで存在し、宗像社の大宮司宗像一族は、何代も宋人王氏・張氏と婚姻関係を結んでいた。 また、博多市内には聖福寺・承天寺といった宋風の禅宗寺院が建てられるなど、国際色豊かな都市であったことが知られる。

鎌倉
 古代より郡の役所などが所在する相模国鎌倉郡の中心地で、源頼義が相模守として赴任した際、この地を領した平直方の婿となったことから河内源氏の拠点となった。 平氏に対して挙兵した頼朝はこの場所に居を定め、大倉にあった頼朝の御所を中心に発展した。 近年の発掘で武士の邸宅や寺院の遺構が多く見つかっており、とくに今小路西遺跡からは中国製の陶磁器が大量に出土している。

軒平瓦
 →軒瓦

築島寺
 兵庫区島上町にある浄土宗の寺院。正式には経島山来迎寺。寺伝によれば、平清盛経の島を築いた時、 人柱となった松王丸という少年の菩提を弔うために建立されたとされる。江戸時代、この寺の前には小船の避難場所となる船入場があり、 寺の門前から船大工町の間に築島橋と称する橋が架けられていた。

能福寺
 兵庫区北逆瀬川町にある天台宗の寺院。山号は宝積山。寺伝によれば、延暦24年(805)、最澄によって創建され、仁安2年(1167)、清盛は当寺で剃髪し、 治承5年(1181)に清盛が没すると、その遺骨は円実法眼によって兵庫に埋められたとされる。平氏政権の崩壊に伴って荒廃するが、清盛の弟教盛の子・忠快が再興を果たし、 文治2年(1186)には一ノ谷合戦の戦死者追悼のための千僧供養が行われるなど、平氏との関係は深い。現在では境内の毘慮舎那仏像が兵庫大仏として知られているが、 これは明治になって建立されたもので、今の大仏は平成3年(1991)に再建された。

清盛塚十三重塔
 兵庫区切戸町にある石塔で、もと現在の場所より10メートル程南西に位置していたが、 大正時代、道路拡張工事にともなって現在地にうつされた。 伝承では清盛の遺骨を供養するためにつくられたともいわれるが、 台座に「弘安九年」(1286)の年号が刻まれており、 この時期、西大寺の叡尊が兵庫で石塔供養を行ったという事実が記録に見えることから、 このときに建立されたものである可能性が指摘されている。


元禄の「兵庫津絵図」
摂州八部郡福原庄兵庫津絵図 元禄9年(1696)
(個人蔵・神戸市立博物館寄託)
  正式には「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」といい、江戸時代、兵庫津を支配していた尼崎藩に、兵庫津奉行が提出した絵図の控え。 兵庫津を描いた現存する最も古い絵図で、元禄9年(1696)、兵庫南仲町の絵師紺屋安右衛門が兵庫津奉行坂田又右衛門の命によって描いたことが記されている。 西国街道の宿場でもあった兵庫岡方の名主をつとめた正直屋に伝えられ、現在、神戸市立博物館に寄託されている。

 
兵庫津
  現在の神戸港の前身となる港湾都市。「兵庫」の名が文献上に見られるのは、平安時代末期の応保2年(1162)に記された橘経遠寄進状に、八条院[](日へんに章の字)子内親王の所領として 「兵庫庄」が見えるのが最初だが、平氏によって整備された大輪田泊を継承し、さらに重源が東大寺再建にあたって港の修築をおこなったため、 鎌倉時代以降、瀬戸内海航路の重要拠点として発展した。兵庫津には港湾管理のために関があり、入港する船から升米・置石料と称される港湾税が徴収されたが、 兵庫関は鎌倉時代末期の延慶元年(1308)、公家政権によって東大寺に寄進され、その収入は東大寺の重要な財源の一つとなった。

以下は系図上のみに出てくる名前解説

平忠盛
  平安時代後期の武将。正盛の子で、清盛の父。白河上皇に北面の武士として近侍したあと、鳥羽上皇の近臣として昇進した。父正盛は海賊の追討や、 反乱を起こした源義親(義家の子)を追討したことで名を挙げ、諸国の受領を歴任してその地位を確立したが、 忠盛はそれを継承するとともに鳥羽上皇の院庁経営にあたっても実務能力を発揮、鳥羽の厚遇を受けて清盛登場にいたる平氏権力の基礎を築いた。
→関連リンク 源平特集-人物解説

平時忠(1128〜1189)
 平安時代末期の貴族。「平氏にあらざれば人にあらず」(『平家物語』原文では「この一門にあらざる者は男も女も尼も人非人たるべし」)の言で有名だが、 かれ自身は武家平氏の出身ではなく、代々文筆官僚をつとめた公家平氏(桓武平氏高棟流)の出身。父の時信は鳥羽法皇の近臣として権力をふるい、死後左大臣を贈られている。 時忠も父と同じく文筆官僚・院近臣としての道を歩んだが、妹の滋子後白河上皇の寵愛を受けて 憲仁(高倉天皇)を出産、姉の時子が平清盛の正妻となって宗盛 ・重衡・知盛・徳子らを生んだために、とくに後白河上皇や平氏と密接な関係をもち、平関白と称された。 平氏政権下では検非違使別当に三度も任じられて、京都の市政を掌握したことで知られるが、高倉院政では院別当として、高倉上皇と平氏との間の連絡役をつとめ、 政権運営に重要な役割を果たした。寿永2年(1183)の平家都落ちでは、子息時実とともに平氏一門に従った。壇ノ浦合戦で捕らえられたが、死罪に処されず、文治元年(1185)、 能登国に配流となり、配所で没した。

平重盛(1138〜1179)
 平安時代末期の武将。清盛の長男で、保元平治の乱で活躍。 父清盛の出世とともに、蔵人から遠江守・伊予守を経て長寛元年(1163)には公卿に列し、承安4年(1174)には上流貴族の指定席であった近衛右大将に、 安元3年(1177)には内大臣にまで昇った。この間、仁安2年(1167)には清盛が太政大臣を辞任するが、その直前、重盛に対し海賊追討の宣旨が下され、 清盛が有していた国家的な軍事警察権の重盛への移譲が明示されている。 これにより平氏は、対外的には重盛が一門を統率する氏長者としての位置を占めることになった。しかし、実質は清盛が家長として強大な発言権を保持していたため、 後白河上皇と清盛の対立が明らかになると、後白河に近かった重盛は、父と後白河の間に挟まれて対応に苦慮した。 武門である平氏一門の中にあって「心繰甚だ穏やか」と評され(『百錬抄』)、他の貴族からの評判もよかったが、治承3年(1179)、病のために出家し、その直後42歳で死去した。
→関連リンク 源平特集-人物解説