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合戦と武具
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源平時代の戦闘
5.源平時代の戦闘
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(執筆・ 近藤 好和)

 弓射騎兵の戦闘と『前九年合戦絵巻』

 前節でふれたように、源平時代の戦士は弓射騎兵と打物歩兵であり、その佩帯する攻撃用の武具は、 弓射騎兵が弓箭・太刀・腰刀、打物歩兵が太刀や長刀に腰刀であった。かれらの戦闘には、そうした佩帯する武具に応じた戦闘法と流れがある。 特に弓射騎兵の戦闘は、騎射戦、太刀による打物戦、腰刀による組討戦となる。こうした弓射騎兵の戦闘は『平家物語』に記されているが、 その戦闘の様相をもっとも忠実に描いている絵巻が、『前九年合戦絵巻』なのである。
 この絵巻は現在二本が伝世している。国立歴史民俗博物館蔵本(一断簡は五島美術館蔵ーあわせて歴博本)と東京国立博物館蔵本(東博本)である。 ともに完存本ではなく、一部分だけが残っている残欠本(零本(れいほん)という)であり、歴博本のほうが残存部分が多いが、両本は構図的に共通部分がある。 これは、どちらかが原本で、どちらかが模本というよりも、ともに共通の祖本(そほん)(元本)から模写されたもののようで、模写の時代は、東博本がやや遅れるものの、 ともに一三世紀末頃と考えられている。
 ところで、『吾妻鏡』承元四(一二一〇)年十一月二十三日条によれば、源実朝が京都から『奥州十二年合戦絵』を取り寄せて、鑑賞したという。 確証はないが、この絵巻こそ現存本の祖本であった可能性が高いと考えられる。事実、現存本の武装描写を詳細に分析すると、稚拙な描写ながら、 十三世紀初頭以前に遡りうる古様な様式が多く認められ。祖本がその頃に制作されたことをうかがわせる。
 とすると、現存本の戦闘描写も祖本からの継承の可能性が高くなる。しかもそれが『平家物語』の戦闘描写によく合致するということは、 『平家物語』のうちで最古態と考えられている延慶本でさえ、その成立は源平時代よりも百年近く後であるが、その戦闘描写は、 源平時代の戦闘の面影を伝えていると考えてよいことになろう。そこで、『前九年合戦絵巻』と合わせて考えることで、『平家物語』の戦闘描写は、 中世前期の戦闘を考察するためのより生きた史料となると考えられるのである。
 以下では、そうした『平家物語』や『前九年合戦絵巻』(特に歴博本)等を参考に復元した、源平時代の戦闘を騎兵中心にみていこう。
    

騎射戦
 弓射騎兵の戦闘の中心はやはり騎射戦である。飛び道具である弓箭と、衝撃具である打物を比べた場合、やはり飛び道具をまず使用し、 ついで衝撃具に移るのが自然の流れであろう。まして弓射騎兵のように、弓箭と太刀を同時に身につけていると、太刀などを先に使用することはなかなか難しく、 まず弓箭を使用し、ついで太刀などに移行することになろう。
 ところで、騎射というと現在の我々は、どうしても神社などで行われている流鏑馬(やぶさめ)を思い浮かべるであろう。 しかし、現在の流鏑馬は、けっして中世から連続しているものではない。中世の流鏑馬は室町時代には衰退してしまい、現在の流鏑馬は徳川吉宗が再興した様式の継承にすぎない。 したがって、そうした流鏑馬で中世の騎射戦を考えること自体に問題が残るわけだが、それはともかく、現在の流鏑馬は、馬の進行方向に対して左横の的を射る。 また、左横の的を射るという点では弓道でも同じである。そこで現在の我々は、騎射というと、どうしても疾走する馬上からの左横への弓射(これを弓手射(ゆんでしゃ)とよんでおく)を 考えがちになる。しかし、中世(あるいは明治時代以前)では、それは騎射のひとつの方法にすぎない。
 つまり騎射と一口にいってもその内容はじつに多様である。騎射という用語のそのものが、ここで使用しているような馬上からの弓射全般をいう場合と、 宮中の年中行事として五月に行われていた流鏑馬に似た競技をいう場合があり、後者は「うまゆみ」と訓読する。
 また、馳射という用語もある。これは広い意味では「はせゆみ」と訓読し、馬を馳せる騎射のことである。 ところが、源順(みなもとのしたごう)が十世紀に編纂した『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』という当時の漢和辞典というべき文献では、馳射を「於无毛乃以流(おむものいる)」と訓読している。これは追物射(おものい)のことである。 つまり『和名類聚抄』の理解では、馳射=追物射なのであり、馳射がより限定された意味で理解されている。 そこからは、馳射(馬を馳せる騎射)の本質が追物射という理解も導き出せよう。
 このように同じく馬上からの弓射でも、すでに騎射・馳射・追物射という三つの理解がでてきたわけだが、広い意味での馳射には、 前方射・押し捩り(後方射)・馬手射(めてしゃ)などもあり、馳射に対して馬静止射もある。


追物射
追物射 『前九年合戦絵巻』より (国立歴史民俗博物館蔵)  追物射は狩猟の騎射術(馳射術)の基本で、騎馬で獲物を追い掛けながら、前方または前方下方に矢を射る。 その際に重要なのは弓射姿勢で、鐙を踏ん張り、鞍壺から立ち上がり、左腰を前に捻った前傾姿勢を取る。
 こうした追物射の体勢は前方射にもそのまま応用できる。同様の弓射姿勢で、相手を追えば追物射、向かってくる相手を射れば前方射になるのである。
 追物射のように、鞍壺から立ち上がった姿勢を立鞍(たちぐら)という。これに対し、鞍壺に腰を下ろした姿勢を居鞍(いぐら)という。 舌の長い袋鐙や舌長鐙は立鞍に向くわけだが、立鞍で重要な点は、馬が疾走する振動を体に伝えにくくする点と、腰を捻ることができるという点である。 特に立鞍で腰を捻るから追物射や前方射、さらに馬手射つまり馬の首の右側に弓を構えて射ること(これも前方射になる)も可能になる。
追物射
『前九年合戦絵巻』より
(国立歴史民俗博物館蔵)
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 ところが、現在の流鏑馬は立鞍ではなく居鞍である。居鞍では、弓手射や押し捩りはできても、前方射や、ましてや馬手射はしづらい。 立鞍で腰を捻る、これこそ中世の騎射戦での弓射を考える際に、今まで見過ごされてきた重要な点である。
 追物射や前方射、ましてや馬手射に対しては、懐疑的なひとが多い。しかし、それは現在の流鏑馬や弓道のイメージから抜け出せないからであって、 同時に立鞍で腰を捻るという弓射姿勢をまったく考慮に入れてないからである。



 常歩理論

 ところで、「立鞍で腰を捻る」という点については、もう少し体育学の立場からの説明が必要である。 つまり「捻る」といっても、それは文字通りに背骨を軸に腰を旋回させることではない。それでは腰への負担が大きくなる。 「捻る」といっても、それは体の左右に平行する二本の軸を想定し、その二本の軸を前後にスライドさせる感覚である。
 近年、日本のスポーツ界では、古武術的身体運用法というのが注目されてきている。これは明治以降の近代化の過程で失われていった動きの復権であり、 古武術的といっても、なにも武士や武術家だけが実践していた動きではなく、江戸時代までの日本人がふつうに実践してきた動きを含んでいる。 その基礎が「ナンバ」といわれる走歩行である。

 現在の走歩行は左右の手足が交互に出るのがふつうである。しかし、江戸時代までは左右の手足が同時に出ていた。これをナンバというのである(語源は諸説ある)。 これは、絵巻物などの絵画史料をみれば明らかであり、管見の限りでは例外なくそうなっている。 また、このナンバ的動きというのは、相撲のすり足、空手の蹴りと突き、能・狂言・歌舞伎・日本舞踊などの伝統芸能の所作などにそれが今も残っている。 しかもこれは日本人だけでなく、古代ギリシャ人もそうであったことが、確認できる遺物も残っている。 このナンバについてはこれまでも注目する人がいたし、ご存じの方も多いであろうが、左右の手足を同時に出すということばかりが強調され、誤解される面が多かった。 それが近年、科学的(体育学的)に解明されてきた。それを「常歩(なみあし)」理論という。常歩とは、馬の歩き方からの命名である。
 それはおおよそ次のような理屈である。つまり現在ふつうの走歩行は、身体の中心に一本の軸をおき、その軸を中心に骨盤を捻る走歩行である。 そのためには爪先で地面を蹴り、左右の手足は交互に出ることになる。逆にいうと爪先で地面を蹴って足を前に出しているのである。
ナンバの一例『前九年合戦絵巻』より (国立歴史民俗博物館蔵)
ナンバの一例
『前九年合戦絵巻』より
(国立歴史民俗博物館蔵)
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 これに対して、常歩は身体に左右二本の軸をおき、二本軸への重心の移動を意識した背骨を捻らない走歩行である。 その際の足はいわゆるガニ股で、爪先ではけっして地面を蹴らず、爪先と踵で地面をつかむ感じで走歩行することになる。 ガニ股となるのは外旋位(がいせんい)といって人間の股関節の外に開こうとする自然の動き(それは力の出しやすい動きである)を利用し、それと骨盤の動きで足を前に出すからである。
股関節の外旋位を活かした立ち方 『前九年合戦絵巻』より (国立歴史民俗博物館蔵)  つまり常歩では、片方の足を出した時には、すでに逆側の骨盤が前に出ており、骨盤が前に出るとそれと同じ側の肩胛骨も自然と前に出る。 肩胛骨が前に出ると、その側の腕も自ずと前にでるから、以上の動作のくり返しのなかで、左右の手足が同時に出るという理屈になる。 また、スムーズな重心移動のために膝をやや曲げて腰は落としぎみにし、さらに肩胛骨の柔軟性を保つために顎をやや上げる。
 こうした常歩の動きは立ち方にも密接に関わり、ガニ股で、膝はやや曲げて腰を落としぎみにし、腕は自然に垂らし、顎をあげた立ち方となる。 立ち方は走歩行の始点であり、こうした立ち方でないと常歩にはならないのであるが、絵巻物などの絵画史料にみえる立ち方は、こうした立ち方に当てはまる。 しかもそれはナンバとともに、身分(階層)や年齢を問わずに確認できる。つまり絵画史料にみえる走歩行や立ち方は、いずれも常歩理論で説明できる。 前近代の日本人にとって、常歩は当たり前のことだったのである。
股関節の外旋位を
活かした立ち方

『前九年合戦絵巻』より
(国立歴史民俗博物館蔵)
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 才能と訓練

 したがって、騎射術や打物術などの戦闘技術はもちろん、前近代の動きはすべて二軸感覚で考える必要がある。 常歩つまり二軸感覚は、現在では修得するものであるが、それが常態であった時代の人々にとっては、それを利用したより高度な訓練にはじめから進める。 特に、常歩が馬の歩き方からの命名であることからもわかるように、四つ足動物は常歩である。つまり騎兵にとって、騎乗者も常歩が常態ならば、人馬一体の動きができるわけである。 騎射術などの馬上での戦闘技術はそうしたところから生まれるのであり、現在の我々では信じがたいこともできてしまうであろう。 だからこそ、戦闘論のような問題では現在感覚は排すべきなのである。
 それにしても、強調したいのは訓練・鍛錬の必要性である。武士という存在は、騎射などの武芸を家職(家業)として代々継承している点に、他の諸家と区別される重要な特徴がある。 だから、武士の家に生まれた者が、幼い頃から武芸の訓練をしないはずがない。逆にいえば、いくら才能があっても訓練しなければそれを伸ばせない。 まして戦闘技術などは幼い頃からの訓練によって、まさに体で覚えてこそ実戦で活かせるのである。
 このことは現在のスポーツに通底する。しかし、スポーツはスポーツである。これに対して、戦闘は殺し合い、生きるか死ぬかである。 はるかに厳しい訓練が必要となってこよう。戦闘論を説く場合には、こうした視点をたえず持つことが必要であろう。
 ところで、騎射(弓射術と馬術)の訓練としては狩猟が一番である。これまでは騎射の訓練といえば、流鏑馬・笠懸・犬追物などが考えられてきた。 しかし、流鏑馬や笠懸のように不動の的を射る訓練では、戦闘訓練としては限界は目に見えている。特に流鏑馬は神事であって、日常の訓練のためのものではない。 やはり実戦的な騎射の訓練は標的が臨機応変に動く必要がある。その点では、犬追物は標的(犬)が動く。 しかし、犬追物が競技として整備されるのは鎌倉時代以降であるし、犬や馬場などの特別な準備もいる。だから、普遍的な日常の騎射の訓練は狩猟が一番なのである。 ただし、狩猟でも甲冑による防御の訓練はできない。防御の訓練は実戦よりないのであろう。



押し捩り
押し捩り(下)と射向の袖による防御(上)『前九年合戦絵巻』より (国立歴史民俗博物館蔵)  さて、また騎射の諸相にもどろう。馬上で腰を大きく捻り、後方に射ることを押し捩りという。 追物射に対抗する射法でもある。紀元前三世紀〜三世紀、メソポタミヤを支配した古代帝国パルテイア(アルサケス朝ペルシャ、中国名は安息国(あんそくこく))の弓射騎兵が得意とした射法で、 退却するとみせかけて追ってくる敵をこれで射たという。そこでこの射法をパルティアンショット(安息式射法)という。鞍橋も鐙もまだ成立していない時代の話である。 また、この射法は正倉院に伝世する獅子狩文錦(ししかりもんきん)などにも図案化されている。
 『延慶本平家物語』(巻九)に「木曽射残タル矢ノ一アルヲ取テツガヒテ、ヲシモヂリテ、馬ノ三ツシノ上ヨリ兵ドイル」とあるのが典型例で、 「馬ノ三ツシ」とは馬の三頭(そうづ)で(「シ」は衍字と考えられる)、尻尾の根元の上の部分をいう。 押し捩ってその三頭の上から射たというのだから、後方射であることは明白であろう。
押し捩り(下)と
射向の袖による防御(上)

『前九年合戦絵巻』より
(国立歴史民俗博物館蔵)
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射向の袖
 楯越しに矢を射合う戦闘ならば、防御は楯に頼ればよいが、楯を出て馬を馳せ合う戦闘ならば、防御は大鎧などの甲冑で行わなければならない。 その際に重要な役目を果たすのが大鎧の左肩に垂れている射向の袖である。大鎧の左右の袖は肩上(わたがみ)や総角に結びつけるが、騎射戦では、射向の袖は、 弓射方向が前方・左横・後方のどの方向であれ、弓を構えている時は、弓射方向からの矢の防御にはならない。 前方ならば、左横に垂れているだけだし、左横や後方では左手で袖を後ろに払いのけるかたちになるからである。
 防御になるのは弓を構えていない時である。特に注目されるのは、やはり『延慶本平家物語』(巻九)などにみえる「射向ノ袖ヲ甲ノマコウニアテヨ」という表現である。 これは射向の袖を冑の真向(正面)に当て、前方から射られる矢から内冑を防御することを促す言葉である。
 射向の袖で内冑を防御するためには、やはり腰を捻らなければ(二軸をずらさなければ)ならない。逆に腰を捻れば大鎧の左肩に垂れている射向の袖でも前方の防御ができるのである。 腰を捻ることで射向は左横ではなく、まさに弓射の方向つまり射向となる。騎射戦では攻撃とともに防御でも馬上での腰の捻りが重要なのである。


馬静止射
写真 馬静止射 『前九年合戦絵巻』より (国立歴史民俗博物館蔵)  馬を疾走させる弓射だけが騎射ではない。馬を留めての馬上からの弓射もある。馬静止射である。 屋島合戦での那須与一の「扇の的」は『平家物語』の逸話として有名であるが、海の中に馬を乗り入れて行った与一の射芸は、馬静止射で行われている。 また『平家物語』(巻十一)によれば、壇ノ浦合戦で和田義盛が、「馬にうち乗ッてなぎさにひかへ、(中略)鐙のはなふみそらし、よッぴいて射ければ」とあり、 陸上から平氏の軍船に矢を射掛けている。これも馬静止射である。
 さらに源平時代の城郭戦や渡河戦は、通行遮断施設や河川で一時的に騎兵の進行が止められるわけだから、攻撃側の騎射は馬静止射にならざるをえない。 しかもこうした馬静止射もやはり腰を捻った前方射になるであろう。
馬静止射
『前九年合戦絵巻』より
(国立歴史民俗博物館蔵)
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 なお、『太平記』では弓射騎兵が弓射の際に下馬する描写が多くなる。これを「下馬射(げばしゃ)」とよぶことにするが、これは打物騎兵が成立し、 弓箭がむしろ歩兵の武具となっていく過程で生じた弓射騎兵の変質を示す事例であり、『平家物語』ではいまだみられない。


打物戦
 源平時代の打物といえば太刀と長刀である。太刀は騎兵・歩兵ともに使用し、長刀は主に悪僧や歩兵が使用する。 使用法は、歩兵の場合は、打物を徒歩でしか使用しないのだから分かりやすいが、騎兵の打物使用は馬上と徒歩がある。この点、太刀の馬上使用は源平時代に増加したらしい。 『平家物語』(巻九)では今井兼平の最後の戦闘がその一例だが、騎射の後に太刀に移行している。弓射騎兵にとって、太刀が二次的な武具であることを示している。
 また、『平家物語』では、馬を射られるなどの理由で落馬してはじめて太刀を抜く記述も多い。これを「落馬打物(らくばうちもの)」とよぶこととする。 落馬打物は太刀の徒歩使用を前提とした行為といえる。
 一方、長刀の馬上使用は『平家物語』にはみえない。長刀の馬上使用は、延慶二年(一三〇九)の目録が付属する『春日権現験記絵巻』に一例みえるのが管見での初見であり、 『太平記』で多くみられるようになる。

組討戦
 取っ組み合い、互いの生首を腰刀で取り合う戦闘が組討戦である。これは主に騎兵同士の一騎討で始まる。 一騎討というと騎射戦を考えるが、じつは『平家物語』で一騎討が顕著なのは、むしろ組討戦である。 一騎討で決着がつく場合もあるが、組み合っている間に敵・味方の騎兵・歩兵がともに集まり、重層的になる場合が多い。
 腰刀による戦闘は組討戦にならざるをえないが、相手の首を取る組討戦は源平時代に大幅に増加した。 『平家物語』(巻十一)の一ノ谷合戦でも、平忠度・敦盛・知章等平氏の武将の多くが組討戦で首を取られている。これは首が恩賞と結び付くようになったからである。 なお、負ければ死に直結する組討戦は、弓射騎兵にとって騎射戦や打物戦後の最終的な戦闘となり、はじめから組討戦となることはほとんどない。
馬上での組討戦(下)、落馬後の組討戦(上右)、落馬打物の騎兵(上左) 『前九年合戦絵巻』より (国立歴史民俗博物館蔵)
馬上での組討戦(下)、
落馬後の組討戦(上右)、
落馬打物の騎兵(上左)

『前九年合戦絵巻』より
(国立歴史民俗博物館蔵)
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一騎打
 うえでもふれたように、一騎討というと騎射戦を考えるのがふつうであろう。しかし、騎射戦イコール一騎討では決してないし、また、一騎討は騎射戦だけで行われるものでもない。 騎兵に限らず、一対一で戦われる戦闘が一騎討であり、打物戦でも、またうえでふれたように組討戦にも一騎討は存在する。
 しかし、一対一で戦える状態は戦場ではなかなか作りにくい。その意味で、一騎討は特殊な戦闘といえる。一騎討ではじまった組討戦が重層的になっていくのはそのよい例である。 逆に一対一で戦える条件が整えば、一騎討はいつの時代もありえる戦闘である。
 そこで、騎射戦イコール一騎討という誤解から、一騎討が源平時代の戦闘の特徴のように説かれることがよくあるが、それは間違いである。 一騎討そのものが時代の特徴なのではなく、一騎討で戦われる内容が時代の特徴となるのである。つまり源平時代の組討戦などがそれに相当する。 一騎討は特殊な戦闘であるために、それで戦われる内容が、時代の象徴として誇張されるという理解である。


船戦
 戦闘の最後に船戦つまり海戦についてふれよう。源平時代の船戦といえば、壇ノ浦合戦である。といっても、海戦についてはその具体像を考えるための手掛かりは少ない。
 とはいえ、船戦の戦闘法としては、やはりまず船上から矢を射合い、相手の船に乗り込み、太刀や長刀による打物戦や組討戦になるというのが一般的なのであろう。 相手の船に乗り込む時には、鉄熊手(てつくまで)で相手の船を引き寄せるといったことも行われたであろう。
 また、当時は軍陣用の特別な構造の船などはなく、年貢などを運ぶ輸送船がそのまま使用されたらしい。 それは準構造船といって、船底部は木をくりぬいた刳船で、船体の幅か狭いために、両舷にセガイとよぶ張り出しを設けて、櫓を漕ぐ水手(かこ)や舵取(かんどり)はその上に座ったらしい。 つまりかれらは完全に無防備な状態にあった。
 そこで、壇ノ浦合戦では、義経がまず相手の船の水手や舵取を殺させ、船の自由を奪い、その上で船に乗り込むという独自の戦法を取り、 それが源氏の勝因のひとつであったといわれてきた。
 そうした戦法が義経の独自のものであったとは考えられないし、またそのことが源氏の勝因とも考えられないが、船戦ではそうした戦法も取られたことは確かであろう。