神戸市-KOBE-


歴史資料(市指定) 1件

最終更新日
2019年3月6日

・市指定の歴史資料は、「神戸外国人居留地計画図」の1件です。

神戸外国人居留地計画図 3幅(ぷく)

 「神戸外国人居留地計画図」は、J.W.ハートによって作成された、近代神戸発展の基礎となった都市計画図です。現在、3幅の計画図が保管されています。
 神戸外国人居留地は、当初、イギリス人測量技師C・ブロックが設計を担当しましたが、明治新政府と初代兵庫県知事・伊藤俊輔(博文)との協議を経て、イギリス人土木技師であるJ.W.ハートが設計を見直し、基本計画を行うこととなりました。
 ハートはリバプール出身で、居留地の設計だけでなく、造成計画に関わり施工監督にあたるなど、技師として神戸外国人居留地の形成に大きな役割を果たしました。
 下記の資料1が神戸市立博物館で、資料2及び資料3が神戸市立中央図書館で所蔵されています。これら3幅の計画図は、タイトルと左上にある2つの表の配置関係、描かれた街区・街路等の内容からみて、ほぼ同一のものと考えられています。
 「神戸外国人居留地計画図」から見た設計上の特徴は、下記のとおりです。
1.全体が22の街区(ブロック)に分けられ、さらに、それを2つから9つに細分化し、全体で126の区画(ロット)に整然と分割されています。
2.居留地の中央に幅90フィート(約27メートル)のメインストリート(現在の京町筋)が南北に貫通していました。
3.車道と歩道が区別されていました。
4.海岸通には緑地帯(グリーンベルト)が設置され、遊歩道(プロムナード)を兼ねていました。
5.排水を海に流す下水道が南北に通ずる道路に埋設されていました。
6.各通りには街路樹やガス灯が配置され、公園の一角には、鉄製の火の見櫓(やぐら)が建てられていました。
7.レクリエーション・グランド(多目的広場)が、旧生田川の河川敷を含む場所に設けられました。
・時代 明治時代
・指定年月日 平成29年3月21日
・所有者 神戸市

1.居留地のはじまり

 「居留地とは、貿易を行うために一定の境界を設けて、外国人に居住・営業を許可する地域で、日本政府が許可するものである。」(「参考文献1」16ページより引用)
 江戸時代末、アメリカをはじめ、諸外国からの貿易に関する強い要求に応じる形で、鎖国状態にあった港と市街地を開くこととなりました。市街地だけを開く場所を開市場(かいしじょう)、港と市街地を開く場所を開港場(かいこうじょう)と呼んでいます。
 1858(安政5)年、アメリカとの「日米修好通商条約」をはじめ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと同様の修好通商条約を締結しました。
 この条約に基づいて、1859(安政6)年、箱館(函館)、神奈川(横浜)、長崎が開港しました。
 やがて、1868(慶応3)年、神戸(兵庫)、新潟、川口(大阪)が開港することとなりました。
 結局、2か所の開市場である東京(築地居留地)・大阪(川口居留地)、5か所の開港場である函館・横浜・神戸・長崎・新潟で、居留地が整備されることとなりました。(新潟は、外国人の居住者が少なかったため、居留地は設置されず、市街地に雑居していました。)

2.神戸外国人居留地とは?

神戸居留地の区画を示す番号 神戸開港に際しては、当時、人口約2万人が居住し、繁栄していた兵庫の港から少し離れた東側の神戸の地で、開港しました。
 開港当時、各地において、商業や生活習慣上の違いから、日本人と外国人の間で、様々なトラブルが生じてきました。そのため、開港地の近くに、外国人居留地を設置することになりました。
 神戸外国人居留地は、現在の区画でいえば、東側は旧生田川(現在のフラワーロード)から、西側が鯉川筋まで、北側は大丸百貨店北側の西国街道から、南側は海岸通までの範囲に該当します。
 東西約500m、南北約500m、面積は、約25.7ヘクタール(25万7千平方メートル)の規模で、22の街区(ブロック)に分けられ、さらに、126区画(ロット)に整然と分割されていました。
 居留地においては、永代貸借地権の売却と領事裁判権が認められていました。
 1868(明治元年)から居留地の競売が開始され、計4回にわたって126区画の競売が行われ、1873(明治6)年に完了しました。
 126区画の内、落札者を国別に見ると、半分にあたる64区画がイギリス人で、23区画がドイツ人、15区画がオランダ人、11区画がアメリカ人、同じく11区画がフランス人、1区画がイタリア人となっています。また、居留地行事局が、1区画(38番)を落札し、その土地に建物を新設しました。
  

3.雑居地と異人館

 神戸では、居留地以外に、雑居地(ざっきょち:外国人が日本人とともに居住を許可される地域)がありました。
 現在の区画でいえば、東側は旧生田川(現在のフラワーロード)から、西側が宇治川まで、北側は山麓から、南側は海岸までの範囲に該当します。
 旧トーマス住宅(風見鶏の館)や旧ドレウェル邸(ラインの館)、旧小林家住宅(旧シャープ住宅)等の多くの異人館が点在している北野・山本地区も、雑居地の範囲内にあります。
 雑居地では、居留地と異なり、単に、土地または建物の賃借のみを許可していました。1874(明治7)年には、52区画でしたが、1886(明治19)年には、140区画に達していました。

4.居留地の返還と消滅

 1899(明治32)年、居留地の返還と治外法権の撤廃が行われましたが、返還後も「永代貸借地権」という問題が残っていました。
 永代貸借地権は、貸与期間について記載がないため、無期限貸与(永久貸与)とみなされていました。
 結局、永代貸借地権が消滅するのは、1942(昭和17)年のことです。
 その後、第2次世界大戦の神戸空襲をはじめ、時代の流れと共に、居留地内の当時の建物は、ほとんど失われ、現在では、「旧居留地十五番館」(国指定重要文化財:1881(明治14)年頃建設)が、唯一現存するのみです。
 このように街区内の建物は、建て替えられていますが、街区や地名はほとんど残されており、往時の面影を伝えています。

参考文献

・参考文献1:神戸外国人居留地研究会編 『神戸と居留地 多文化共生都市の原像』 2005年4月発行 (神戸新聞総合出版センター)
・参考文献2:ジャパン・クロニクル紙ジュビリーナンバー『神戸外国人居留地』(堀博・小出石史郎共訳、土居晴夫解説) 1993年3月 (神戸新聞総合出版センター)
・参考文献3:『旧神戸外国人居留地遺跡発掘調査報告書』 2011年3月 神戸市教育委員会文化財課発行




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