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垂水日向遺跡の発掘調査現場を公開

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垂水日向遺跡

記者資料提供(2023年7月20日)
文化スポーツ局文化財課
垂水区にある垂水日向遺跡で行っている発掘調査で、平安時代~鎌倉時代の建物群を検出しました。
その成果を一般公開します。

1.発掘調査現場の所在地

  • 神戸市垂水区神田町地内(旧:垂水廉売市場)
  • JR垂水駅より北へ徒歩2分
現地説明会会場

2.現地説明会の開催要項

  • 開催日時 令和5(2023)年7月22日(土曜日)13時00分~15時00分 ※雨天中止の場合は、当日の問い合わせ先へ照会ください。
  • 参加費 無料
  • 諸注意 足元が悪いため、汚れてもよい服装でお越しください。
  • 当日の問い合わせ先 垂水日向遺跡発掘調査現場 080-1510-2830

3.垂水日向遺跡の概略

 垂水日向遺跡は、現在の垂水駅の北側一帯に拡がる東西約600m、南北約340mの規模をもつ縄文時代から中世にかけての遺跡です。これまで44回の本発掘調査が行われており、縄文時代の人々の足跡や弥生~古墳時代の竪穴建物跡、古代~中世の掘立柱建物跡などが確認されています。既存成果の中でも特筆されるのは、平安時代~鎌倉時代の遺構と遺物です。建物跡や井戸、建物を囲うための区画溝、苑池(えんち)などがみつかっており、墨書土器(ぼくしょどき)や銅鏡、動物の歯や骨なども出土しています。

4.調査の成果

  • 調査の原因 令和5(2023)年1月より垂水中央東地区第一種市街地再開発事業に伴い発掘調査を行っています。
  • 発掘調査の結果 平安時代後期から鎌倉時代前期の堀(=区画溝)に囲まれた屋敷跡を検出しました。この堀の外側に建物跡はほとんど検出されていないことから、この堀が屋敷地を区画する役割を果たしていたと想定されます。区画された屋敷地の面積は推定2700平方メートル以上で、堀の内側には、掘立柱建物が15棟以上存在したと考えられます。
  • 石硯 A区のSD32006からは、文字が刻まれた石製の硯が出土しました。文字は、硯の裏側に先のとがった道具で「尓時舎利弗 舎利弗(ときにしゃりほつ しゃりほつ)」[1]と刻まれています。
  • 遺構の時期 屋敷地を取り囲む堀からは、須恵器の鉢・椀・皿や瓦器椀とともに、巴文(ともえもん)の瓦当(がとう)文様をもつ軒丸瓦、鉄鍋の鋳型などが出土しています。出土した土器の中には、墨書で文字が書かれた須恵器の鉢もあり、その墨書の一部には、「東分□」と書かれていると考えられ、荘園(しょうえん)[2]の施設を指している可能性があります。この須恵器の時期は、12世紀前半ごろ(平安時代後期)と想定されます[3]
  • まとめ 垂水日向遺跡東側の福田川流域一帯は、平安時代に東大寺の荘園「垂水荘」があったと「東大寺諸荘園文書目録」[4]などの古文書に記載されています。垂水小学校(第42次調査)やレバンテ垂水(第1、3次調査、第6、7次調査)などで行った発掘調査では、平安時代~鎌倉時代の建物跡が複数棟見つかっており、今回の調査成果と合わせてみると、この地に在地領主(ざいちりょうしゅ)[5]の屋敷地があった可能性があります。先に挙げた石硯や墨書土器などの遺物も当時の一般的な集落から出土することが稀であることから、垂水日向遺跡に平安時代の有力者が暮らしていたと考えられます。今回の調査は、中世「垂水荘」時代の景観を考える上で大きな成果となりました。

[1] 舎利弗とは釈迦の十大弟子の一人で、智慧第一と称された。
[2] 寺社や貴族などが領主として支配した農地、山野、未開発地などの私有地を指す。
[3] 日本中世土器研究会(編)2022『新版 概説 中世の土器・陶磁器』のⅠ-2期に比定
[4] 「東大寺諸荘園文書目録」では「垂水荘」の絵図の存在が示されている。
[5] 荘園や公有地の管理や経営を行ったその土地の有力者。

 

5.学識経験者のコメント

神戸市文化財保護審議会委員 神戸大学名誉教授 黒田  龍二(くろだ りゅうじ)氏

 堀で囲まれた屋敷地内の北西部で発見された総柱の掘立柱建物3棟は、その規模や規格がそれぞれに異なり、配置も古代の居館に比べれば整然さを欠いている。その点では、典型的な中世の居館の景観が想起できる。この時代の武士などの居館を描いた絵巻物から類推する馬屋や芝小屋、器材を納める倉庫などが考えられ、これらは性格(機能)が異なる倉庫(蔵)であったと推測される。

 幅4メートルほどの堀で囲まれた広大な敷地を有する屋敷地内には、15棟程度の建物が存在したと推定されることから、有力者の屋敷地であることが伺える。

 神戸市内では、平安時代後期で同規模の堀で囲まれた屋敷地の事例は、兵庫区楠・荒田町遺跡で検出されているが、屋敷地の規模や屋敷地内の建物等の状況が分かる事例としては初めての貴重な発見となった。今後の調査の進展が期待される。

神戸市文化財保護審議会委員 神戸大学大学院人文学研究科 教授 市澤 哲(いちざわ てつ)氏

 本遺跡に関してまず注意すべきは、その立地である。垂水の海岸部は海に面した南側に砂帯が、その内側には潟が形成されていた。海岸部の施設は、海水の影響が比較的少ない砂帯の上に造られるのが一般的である。尼崎南部の遺跡分布などにこの傾向は顕著に見られる。垂水の場合も海神社は砂丘上に位置している。しかし、本遺跡は安定した砂丘上ではなく、砂丘と安定した陸地の間にある潟に立地する。つまり、わざわざ低い湿地を選んでいる。このような場所を選んだ理由を考えることが、この遺跡の性格を考える上で重要であると考えられる。

 今ひとつ注意すべきは、同時代の周辺遺跡との関係である。垂水小学校から出土した遺構は、池を伴い宴会で使われる京都系土師器が多く出土していることから、「ハレの場」であったと考えられる。このような施設と一体のものとして本遺跡の性格は考えられるべきであろう。

 以上の諸点から考えると、倉庫と推測される建物跡が見られ、あえて低湿地を選んだ本遺跡は、海路を使って物資を出し入れする拠点であったと推測される。周囲にめぐらされた堀は、プールされた物資を守る役割を果たしていたのであろう。中央部の発掘が行われていないので、断定的なことは言えないが、文化財課が推定するように、垂水小学校に位置した「ハレの場」に対する、日常的な執務が行われる「ケの場」であったと考えられる。また、本遺跡の東側に位置する遺構も、同じような倉庫を伴う流通の拠点であったと推定され、山側、海側で機能を分けながら、複数の建物群が展開していた様子を想像することができる。

 本遺跡の立地は、このような機能的な面から選択されたと考えられるが、派生する重要な問題がいくつかある。第一は、潟の開発技術の問題である。承和5年(1175)年頃、尼崎では京都の賀茂社の投資によって、砂州の後背地の潟を干拓し田地化する工事が企図されていることが知られる。この時期の潟開発の進展とその背景をなす自然環境の変化を考える上でも、本遺跡の立地は興味深い。さらに、開発に際して相応の労力と資金が投下されたことも推測される。

 これと関連して第二の点として、本遺跡が12世紀中に放棄され、その後同じ場所が利用された形跡がないことをどう考えるかという問題がある。これは本遺跡最大の謎である。垂水から北上する名谷筋は転法輪寺などの古刹や中世の石造物が残され、豊かな農村と垂水を結ぶ幹線路であり、垂水には通時代的に海港的な機能を持つ施設があったと考えられる。その歴史の中で、本遺跡の意味を考えなくてはならない。この点でやはり注目すべきは、本遺跡が立地条件が決してよくない場所を開発したうえで、大きな規模の施設を構え、出土した輸入陶磁を扱うような場であったことである。これらを踏まえるなら、かつてあった海港的機能と一線を画す規模と機能を持った、新たな政治的な拠点として本遺跡は構築されたと考えるべきかもしれない。とすれば、その放棄はその路線が放棄されたことを意味する。ちょうど12世紀は東大寺領であった垂水荘をめぐる領有関係が転変し、国衙領になる時期でもあるし、平家領が東播磨西摂津に設定される時期でもある。この遺跡の担い手については、12世紀の政治状況と関連させて今後さらに検討していく必要がある。