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阪神・淡路大震災 消防職員手記(長田消防署)

最終更新日:2023年9月15日

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大火に挑む(1995年3月号掲載・魚住 好司)

はじめに

阪神・淡路大震災は、一瞬にして尊い多数の市民を犠牲にし、また長年培ってきた貴重な財産をも破壊し、まさに神戸の中心を廃墟と化してしまいました。特に長田区内では、地震直後に少なくとも10ヵ所を越える同時火災が発生し、更にその日に計17件の火災で50万平方メートルを超える面積を焼失した様は、終戦直後に疎開先から神戸に舞い戻ってきたときの焼け跡の姿を思い起こすものでした。

この震災は、先輩諸氏が戦後50年の歩みと共に築き上げてきた神戸消防の信頼が一瞬にして崩壊し、消防力の限界をまざまざと見せ付けられた思いでした。

ただ、この窮地に国内の多くの消防関係機関はもとより諸外国からも支援をいただいたことに深く感謝しているところです。

地震直後の状況

寝ていた体を「ドーン」と突き上げる衝撃、その後に引き続く複雑な揺れに「我が家は倒れる」と覚悟を強いられる想いでした。隣室の娘に「頭から布団を被っておけ」と言いながら自分はタンスが倒れないように両手で支えていました。

私は和歌山の疎開先で昭和21年の南海地震を子供心ながら初期の「ガタガタ」という揺れの後、暫くしてユサユサと大きな横揺れに「怖い」と言って母親にしがみついた記憶がのこっており、また消防に入る前に勤めていた東京で新潟地震(東京で震度3)を、昭和58年の日本海中部沖地震の直後に秋田の友人に「防災の参考になるのでは・・・」と誘われて秋田市を訪れた際にその余震の震度4に出くわしましたが、平成7年兵庫県南部地震はそれらと全く異なる揺れで、縦波と横波が同時に到来した、複雑な揺れを感じたところです。即ち、震源地の近い、『直下型』と呼ばれる特色を現していたようです。

揺れが治まってすぐに懐中電灯を取り出し、各部屋を点検したところ家具や什器類が床に散乱し、足の踏み場もないほどに壊れているのを確認しただけで「すぐに消防署に行くから後は頼む」と家内に言って、衣服を着替え、顔も洗わずにマイカーで職場へ向かいました。

街灯も信号機も消えた暗闇の道中、橋やトンネル等の崩壊による通行障害が頭をよぎりましたが、「行けるとこまで行こう」と自分に言い聞かせて西神から山手幹線をヒヨドリ方面に走らせ、長田区の高台、大日が丘付近に差し掛かると空も少しは明るくなり、紀伊半島の山並みの輪郭が見通せるようになり、さらに長田の市街地に目を移したときに七条ほどの狼煙が真っ直ぐに立ち上がるのを見たときは、「今のうちに消してくれ!」と心の中で祈りながら車を走らせていました。

市街地に差し掛かると道路のアスファルトは捲りあがり、倒壊した家屋が道路の半分を塞ぐなど、揺れの物凄さを目の当たりに見た思いでした。長田神社付近に差し掛かると二階の窓から煙を噴き出す火災現場に通りがかりましたが、住民が窓に梯子を掛けて向かいのビルから消火栓のホースを延ばしての消火作業中でしたので、後ろ髪を引かれる思いで車を消防署に進めました。

長田消防署の初期対応

長田消防署の本署に辿り着いたのは6時15分ごろだったと思います。消防車両はすでに出動しており、マイカーを地階の駐車場に止めて3階の事務所へ階段を駆け上がりました。平素は容易に開閉できる事務所のドアを慢心の力をこめて開けると、室内は書棚やロッカーが倒れ、机等が大きく移動し、更に書類等が足の踏み場もないほどに散乱していました、作業服に着替えるべくロッカールームに行きましても同様の状況でしたので隣室の署長室を借りて更衣したところです。

署長室の窓から消防署の西側を流れる新湊川の対岸に位置する工場(川西通)から黒煙が吹き上げており、丁度そのときに川に部署した可搬式動力ポンプのエンジンが作動したところでした。

また、北西約200メートルのところ(大道通2丁目)からも黒煙が立ち上がり、更に西遠方に目を移すと2箇所(鷹取商店街方面と西代方面)から黒煙が立ち上がっており、「須磨管内であって・・・」と不謹慎なことを願っていました。

作業服に着替えて1階の情報通信室へ降りていきましたが、ガレージに出るなり多くの市民に取り囲まれ「壊れた家の中に人がいる。助けに来てくれ」という救出要請情報が私のメモに30件以上記載されていました。

咄嗟に通信室に残留の通信勤務者に向かって「(水防)倉庫から道具を出せ!」と大声を発し、集まった市民の皆さんには「消防隊はすべて出払っています。道具は何でも持って行って、皆さんで協力して助けてあげてください」とお願いしました。ガレージに並べたスコップやバール、杭、ロープなどはほとんど持って行かれ、更に「バールをもう一本貸してくれ」との要望に、予備車のそれも貸し出した後だけに「通行中のトラックを止めて借りてください」と途方もない返事をしてしまいました。倉庫には水防用資機材が主に備蓄されており、救助用資機材となれば皆無に等しい状況でした。

その後、早々に出勤してきた職員を救出要請のあった現場へ出動させましたが、満足な道具も持たせることができなかっただけに彼が帰署するまで不安に駆られたところです。

火災についても「東尻池7丁目で火事だ」「重池でアパートが燃えている」と相次いで駆け込み通報があり、通信勤務者に「(消防)本部へ連絡せよ」と指示しましたが、彼からは「本部は『署所で対応せよ』との指令です」との空しい回答に、なす術がありませんでした。

作業途中に出勤してきた署長に状況を報告すべく署長室へ行き、報告を済ませて対応を検討しているところへ中隊長が現場から一時帰って部隊の活動報告を受けました。

彼の報告によると、地震の揺れが治まった直後に当直職員を屋外に退避させ、署前の広場に出たところで川西通と大道通から火炎が上がるのを発見、直ちに本署の4隊を二手に別れて出動させ、その後に通報のあった菅原方面の火災も本署からホースを延長して対応している、とのことでした。

また大橋出張所の職員も同様に近隣の火災を自ら発見し、同所の救急隊もポンプ隊に乗り換えて2隊で対応しているとのことでした。

現場に駆けつけた各隊は、当初水道消火栓に部署したが、数分で水が途絶えたため、河川や防火水槽に部署しているとのことでした。勿論、彼は火災発見当初に本部に第二出動(部隊の増強)を要請したが、本部からの『署所で対応せよ』の無線が最後で、その後の無線交信はできなくなったとのことです。

ただ、彼の報告が終えた後は、管内図に火災発生場所を記すのみで、現場へ出動させる部隊もなく、歯痒い思いをしたところです。

午前8時ごろから市内の他の消防署から支援を受け、更に10時ごろには消防艇の出動をも要請したところですが、それでも部隊を投入できない火災現場を抱えていました。

三田市消防本部からの応援隊を11時ごろに受け入れた段階で、所属内の中隊長クラス全員に火災現場ごとの方面指揮を指名しました。指示された中隊長の中には当該火災現場が鎮圧する翌未明まで食事もせずに頑張っていた者もいます。彼らには、現場での統括的な指揮と部隊の安全管理や延焼阻止線の設定等に加えて小隊長の指揮・判断を補完することを期待するものでした。

応援隊の活動

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地元隊は、防火水槽の水が尽きると転戦を余儀なくされており、更に「学校プールの水もあと僅か」との報告を受けたときは海又は河川からの中継送水しかないと思っていたところです。

昼過ぎに「大阪市消防本部からポンプ、タンク隊が10隊来ました」との報告を受けたときは、躊躇することなく『水利は海、○○方面の火災現場』にと出動をお願いし、その案内誘導に当署の職員にさせたところです。

また、その後に応援のあった他都市の隊にも長田港に停泊する消防艇を拠点とした中継送水体系をお願いしたところですが、消防本部が異なる混成隊が連携を組むとなりますと、いろいろと問題もあったようですが、落伍する隊もなく翌未明の鎮圧状態になるまで消火活動は続けられました。

勿論、タンク車で応援のあった他都市隊の中には、海岸と現場をピストン運転してくれていたとの報告も仄聞しています。

なお、大阪市消防局は、第二次の応援として更に10隊があり、彼らは署前の新湊川からの中継送水体系で消火活動に取り組んでいます。しかし、その下流に部署して消火活動を行っていた当署の大橋隊が「放水途中で水枯れをして、更に河口の方面に部署替えを余儀なくされた」と報告を受けるほど水量の乏しい河川であったことが伺えるところです。

西および北消防団からも応援を受けていますが、特に西消防団は西区内の七個支団が揃って応援に駆けつけていただき、その案内役に長田消防団自ら買って出てくれました。しかし、出動した現場で付近住民から「今頃何しに来た」と罵声を浴び、殴られそうになったとのことです。当該火災現場では、消防団員が駆けつける前に100名ほどの住民が協力して道路下に埋設の40トン防火水槽が空になるまでバケツリレーを行っただけに、「消防団の駆けつけが遅い」との怒りを受けたようです。住民の皆様はもとより不愉快な思いをさせた消防団の皆様には、不甲斐ない私どもへの『お叱り』であり、深くお詫びをする次第です。勿論、消防団の皆さんも翌朝まで消火活動を続けています。

ただ、火災は18日未明にはおおむね鎮圧状況を呈していますが、一部の地域ではその後も再燃を繰り返し、19日未明まで放水を継続しているところもあります。

震災当日を振り返って

この度の地震は、神戸市内で当初「震度6」と発表されましたが、市内の某事業所の震度計で400ガルから700ガルを計測されており、また長田区内の市街地の家屋の倒壊状況等からして後日に現地調査に来た気象庁職員に「これが震度6ですか」と素朴な質問をしますと、彼は「そのために調査している」旨の回答があり、その翌日に「長田区は震度7」との修正報道がありました。

その震源地につきましても「淡路島北部」から「長田区の可能性」をも示唆されるなど、情報が錯綜し、また、防災計画中にも震度7を予想していなかっただけに苦戦を強いられた思いです。

家屋を全壊した某長田消防団員が「ドーンと下から突き上げられ、寝ている体が宙に浮き上がり、畳に叩きつけられたときに家がグシャと潰れた。2階に寝ていたので助かった」と話してくれましたが、直下型地震の、縦揺れの特色を顕著に現していると思うところです。

今回の大地震による火災の出火場所及び原因等の特定は非常に困難な状況ですが、従来の地震による火災として警鐘していた「朝げ、夕げの火の不始末」や「暖房等の火種」等とは限らないことです。

すなわち、当日発生した長田区内の火災の多くは、一口に言って『都市エネルギーの爆発』と思うところです。

最初に立ち上がった炎が『ガス火』という情報が随所で聞かれましたし、その日の夜11時ごろに火災現場をパトロールした際に燃え尽きた現場で配管からガス火だけが無数に立ち上がっていました。

ガス会社の関係者の説明では「長田地区は17日の午前11時にガスを止めた」とのことですが、その12時間後も当該区域内を網の目のように張り巡らせている配管内の残圧が、折れた配管部から炎として立ち上がり、それが燃え尽きたときに大火が鎮圧状態を呈したと思うところです。ガス会社の説明では「一般家庭の引き込み管にはガスメーター内の感震装置が作動し、ガスの供給は自動的に止まる」とのことですが、確かに現場で配管の先にメーターが付いているものからは炎は立ち上がっていませんでしたが、炎を立ち上げる配管の先にはそれを見ることができませんでした。

また、消火用具を貸与されていない長田消防団員が「倒壊家屋から救出活動を行っていた午前10時ごろに街頭や自動販売機の照明が点灯した途端に近くの某作業所で『ボーン』という音とともに火がでた」と言うことでしたが、同じ時間帯に他の工場でも同様に街灯が点灯した途端に工場内から黒い煙が噴出し、関係者の駆け込み通報があったところです。

電気につきましては、その後の普及工事で、個々の家屋内の点検をされずに通電したために出火したことは新聞にも掲載されたところです。

ともあれ、長期かつ過酷な現場活動に早々に応援に駆けつけていただいた他都市の職員の皆さん、はじめ当署の職員には、改めてお礼を申しあげる次第です。特に、遠方からの応援隊には交代要員もなく長期間にわたって支援していただき、また職員の少ない消防本部では神戸に精鋭部隊を送り込んでいる間に地元で同時火災があり、残留部隊が難儀した等のお話を聞かされたときは、神戸の職員だけでなく派遣する側にもいろいろとご苦労があったことを改めて教えられたところです。

また、当署の職員は、大なり小なり被害を受けながらも「家族と数日間、連絡が取れなかった」との声が反省会の席で聞かされたところですが、現場活動に没頭してその方面への配慮が欠けていたことに深く反省した次第です。

初体験(1995年3月号掲載・人見 理行)

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地震だ!!消防署の待機室で仮眠中であった私は今までに経験したことがない強い衝撃を受けた。揺れが終わった直後、1階受付に駆けつけ無線機を持って玄関へ出た。

玄関から西方向を見るとビルの間から赤い炎が見えたので「神消長田54から神消本部へ長田管内川西通1丁目付近で火災発生第2出動を要請する」と無線送信した。

この時から一昼夜に及ぶ消火活動が始まる。

第1現場は、消防署から200メートルの距離に当たる長田区川西通へ急行する。

夜明け前の道路を200メートル走行しただけで大惨事であることが目に入ってきた。

道路は陥没し、建物は倒壊、僅かに残る耐火建物も傾斜した状態で、私にとって考えもつかない大地震が神戸を襲ったと直感した。

第1現場では3名を救出、消火活動を開始したが、すぐ消火栓から水が出なくなった。

自然水利を求め新湊川に転戦、このとき、長田区内では10数ヵ所で火災が発生した。

長田消防署の当直の現有力は署員24名、消防車5台、救急車2台の人材で一度に多発した火災に対処しなければならなかった。

私は、第1現場(5時51分到着)、第2現場(6時20分到着)、第3現場(9時40分到着)、第4現場(14時到着)と転戦、長田区内の火災は時間の経過とともに焼失面積が増加し、神戸消防発足以来最大の焼失面積を計上した。

今回の阪神大震災は、市民の社会生活を破壊し生命財産を奪った。現場での消防活動は、火勢におされた有効な消火活動ができなかったことは否定できない。

しかし、消防署員は、火災・救急現場で力の限り活動している。現場活動で弊害となったものは初めて体験するものばかりでいかに臨機応変に対処できたかである。

大震災の救助現場で(1995年3月号掲載・伊関 薫)

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「おじさん、早く出してっ!」
比較的、元気そうな声で女の子が呼んでいます。

地震発生後、私が出動した3件目の生き埋めの現場は、母親と姉妹3人の計4人が倒壊した建物内に取り残されました。

要救助者に不安を持たせてはいけないと思い、こちらも努めて明るく、「すぐに出れるから、もう少しだけ辛抱してな」と返事するが、倒壊建物は鉄筋コンクリート造の2階建、1階部分は押し潰され1メートルぐらいになっており、要救助者まではコンクリート壁、押し潰された家具等が障害になって救出が容易で無いことはすぐに想像がついた。

同僚二人と相談し、1階玄関付近から屋内への進入を試みるが内部は更に狭く、高さが50センチ程になり、木片、ガラス片、衣類、本等が進入を阻んでいた。

ほふくの姿勢で進みながら、手当たり次第に障害物を除去し、5~6メートル進入したところで二段ベッドが潰れ姉妹2人が重なって天井との間に挟まって易るのを確認。布団、毛布を引き抜き、僅かに間隔を拡げ約2時間後に救出に成功しました。

その後、同場所から母親と末妹の救出を試みましたが、障害物の除去が困難なため救助方法を変更、
2階床面を削岩機で破壊、鉄筋をボルトクリッパーで切断し開口部を作り、家屋内から引き出すことはできたが、活動を始めてから約7時間が経過、すでに息を引き取られていた。

活動中、何度かの余震の恐怖感に襲われながらも、自分自身を叱咤激励し、救出をやり遂げることはできましたが、妻と娘を亡くされたご主人の心情を考えると、決して満足できる結果ではない。

今回の震災で、私自身10数名の救出に立ち会ったが、生存は僅か4名。

大規模災害の脅威と人間の非力を思い知らされたが、救助活動の限界を感じることはない。

「もっと、多くの人命を救助(生存のまま)したかった」「きっと、救助するぞ!」の気持ちを持ち続け、今後も救助活動に邁進することを決意した。

腹立たしさ(1995年3月号掲載・谷 直樹)

須磨区の火災から帰って30分ほど仮眠した午前5時46分、今まで経験したことがない激しい揺れで目を覚ました。揺れが収まるまで恐ろしくて布団から出られなかった。

署の外に出ると、歩道を倒れた家が塞ぎ、炎が空を赤く染めていた。それでなくても恐ろしさで気が動転しているのに消火栓から水が出ないのがわかると頭はパニックになり、何をしていいのか訳がわからなくなった。防火水槽に部署し、放水しても日はいっこうに消えない。消えるどころか火は延焼し、またたく間に火の海になった。そんな時、無線であちこちで火災が起きているのを聞くと「神戸はどないなるんやろ」「地震はいつおさまるんやろ」と不安になった。と同時に寒さと疲労と空腹がピークに達し、気が狂いそうになったのは忘れられない。

あの震災を振り返ると自然の力の恐ろしさと人間の無力さというか、自分の無力さが身に染みてわかった。

少し落ち着いた今、通勤途中に瓦礫の中にたくさんの花束を見るとつくづく火が消せなかった、埋もれていた人を助けられなかった自分が嫌になる。

震度7の体験(1995年3月号掲載・杉浦 達雄)

震災当日は公休で自宅で読書していた。震度7の烈震が襲った時、幸運にも眠りが浅かったので、咄嗟に掛布団を頭のほうにたぐり寄せることができ、ガラスの破片を浴る事はなかった。しかしこの縦揺れの凄さから、家は壊れたと感じた。

出勤のため徒歩で東に向かった。家の倒壊で通れない道路が多く、山陽電鉄の軌道沿いに歩いた。風は東風で中央幹線の両側で火の手が数ヶ所上がっており、神戸消防の現有力では、能力を超える状態になってしまったと思った。

長田消防署に到着し、長田13の隊員として、新湊川で揚水し、長田2に中継した。国道2号線の山側を、西方向に向かってホース延長し、放水中も、延焼範囲は広く無力感を感じた。この3月に退職する者として昭和42年の集中豪雨災害以来の天災は、この神戸にはないと思っていた。以前に震度5の地震は経験したことはあったが、地震のため生活設計までつぶしてしまうとは夢にも思ったことはなかった。

待機寮で始まる災害活動(1995年3月号掲載・岩本 正吾)

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突き上げる揺れだった。目覚まし時計を見ると6時前をさしていた。

部屋の電気を引っ張っても電気がつかない、懐中電灯を掛けている場所を覚えていたので、備えあれば憂いなしと思いながらスイッチを押した。

スピーカーと加湿器が畳の上に落ちていた。もう一度電気のひもを引っ張ってみたがやはり電気がつかなかった。

そうしていると、隣の部屋の井上さんが懐中電灯で私を照らし「生きとるか」と部屋を覗いた。「べっちょありません」と答えると「そうか!」と、戸を閉めた。

廊下が騒がしくなり、何か火事が起きているらしい。そこで同期生と一緒に屋上に上がってみた。寮の屋上からは、長田と板宿の辺りが見渡せる。「いち、に、さん・・・」8ヵ所から火の手が上がっていた。悪い夢を見ているようだった。

すぐに、出勤する準備を始めた。パンツ、シャツ、靴下をカバンに押し込み車に乗った。まだ夜の明けぬ外は、底冷えする寒さだった。

ラジオをつけおよそ5キロほど離れた署に向かった。ラジオからは「ただいま地震がありました。各地の震度は次の通りです、西宮は・・・」それだけだった。神戸は出てこなかった。時計を見ると、6時30分ぐらいだった。

いつもなら街灯がついているところも真っ暗で気味悪い道だった。

道路に人が立っている。その横を見ると崩壊した家があった。よく見るとそこらじゅうの家や建物が潰れていた。ひどい状態だった。もうほぼ全焼しているものもある。道はよく見るといたる所に段差が出来ていた。

長田消防署に着いた。中はうす暗く、3階の事務所に上がると主幹と副署長が見えた。車両と消防係は誰もいなかった。

階段をおりていると、ステテコとシャツだけのおじさんが立っていた。「毛布をもらわれへんやろか」と泣くように言った。いつも昼御飯を消防署に出前してくれていた、おっちゃんだった。毛布はあげられなかった。今でもくやんでならない。

1階に下りると、「助けにきてくれ!家が燃えてる!早く消しに来てくれ!」と、大勢押し寄せて来ていたが、どうにもできなかった。ただ4階のホールに上がってくれというだけだった。けがをし、動けない人が大勢床の上に横になっていたが、病院に運ぶ救急車もなく、声をかける事さえままならなかった。

スコップ、バール、ある物はみんな貸した。

18、19歳の女の子がお父さんを助けに来てくれと掛けこんできた。話を聞くと、男手さえ有れば助け出せると訴えている。俺で間に合うのであれば行ってあげたかった。勝手に出ることもできず副署長に伺った。

副署長の「救助に行ってくれ」との命令により救助に出た。役に立つかどうか分からなかったが、スコップがあったのでスコップ2本抱えてその女の子について行った。最初の現場は、菅原商店街の通りにある家だった。商店街の東側はすでに火の海と化していた。

商店街の西側の通りの路地を入った所だった。要救助者は跡形もなく潰れた家の中らしい。人間が一人、這っては入れるくらいの隙間から見えたため、外にいた人に「火が近づいたら教えてくれ」と、期待できないがとりあえず頼んでおいた。

中には近所の人が2人すでに救助活動をしていたが、思うようにいかないらしく俺が入っていくと「どうにもならへんねん、道具がないわ」と、訴えた。

中が狭いため、とりあえず2人を外へ出し、現場の状態を確認した。お尻らしき物が見えているだけで、ほかは壁と柱で埋まってどの様な状態で埋まっているのか、見当がつかなかった。

1人呼び戻し2人で掘ることにした。幸か不幸か、壁が土壁だったため、後から誰か持ってきた包丁と鋸とで、土壁の竹と縄を切りながら少しずつ壁を崩していった。「息は出来るか!」と声をかけると、「息は出来るけど頭が何かに挟まっていて、抜けない」と答えが返ってきた。しかし、上半身は、壁の下に埋まっていて、頭がどこにあるのかも確認できない。しかし、とにかく掘った。

火の勢いが不安だったため、一緒に掘っていたもう一人の人に、火災の状態を確認してきてくれと頼んだ。「火がそこまで来ている」住民が叫んでいる。外を確認するため、一旦入ってきた隙間まで行き、外を覗いた。強い風が吹き火災が迫っていた。2軒挟んだその隣の家にはもう火が入っていた。

外を度々覗きながら、掘るのを続けた。一緒にいたもう一人の人はいつのまにか、どこかへ行ってしまっていた。奥さんらしい声で、「もう、助かった?」と声がしていた。やっと背中、首が見えてきた。もう少しだと自分に言い聞かせながらも、火の勢いがとても不安でつらかった。その上余震の度に上部から土が落ちてくるため、何度潰れてくるか非常に不安であった。

さっきまで、いなくなっていたその人が、1メートルぐらいの鉄の棒を持って入ってきた。

お父さんの頭は、床と柱に挟まれ、その床が抜け、頭が床に刺さった状態だった。この1メートルの棒がちょうどこの狭い空間に合っていて、柱と床の間に差し込み柱を少しだけ持ち上げることが出来た。次の瞬間「抜けた!」と埋まっていたお父さんの口から言葉を発した、私も「やった!」と言葉が出た。奥さんが外の隙間から覗いていたのが見えたため、「誰か男3、4人つれてきて」と頼んだ。奥さんが「お父ちゃん助かったん?」と聞いてきたので、助かったことを教えると大声で「お父ちゃんが助かった!助かった誰か手伝って」といいながら人を呼びに行った。

お父さんを運び出し、商店街の北側の方を見ると火が回っていたのでJR高架まで背負って下りた。おばあちゃんが泣きながら「ありがとう、ありがとう」とすがってきた。「よかったなあ」と声をかけた。救急車はないのでだれか車に積んで病院まで運ぶよう伝えた。何とか助けだせて本当によかった。時計を見ると9時前位だった。とりあえず署まで走って帰ることにしたが、途中、倒壊した建物の前の人盛りから、「おまえ消防か、消防ならこの中の人助けんかい!」と言われた。弁当屋さんのようだった。取敢えず中に入ってみることにしたが、さっきの救助場所のちょうど裏側くらいに当たるため、急ぐ必要があった。

倒壊した建物に入ると強いガスの臭いがし始めた。

1階は、潰れてきた天井と、床一面にこぼれた油、潰れたステンレスの棚でぐちゃぐちゃだった。ガスの臭いは不安として、常につきまとった。要救助者は、潰れてきた天井とステンレスのテーブルの間に挟まれていた。

救助にあたり、こぼれた油が非常に障害となった。力を入れても引っかかりができず、つるつる滑るため、力が入らないのである。30分くらいだと思うが、私1人では、どうにもならない。と判断し、一旦署に戻り応援を頼む事にし、その旨を伝え、署に急いだ。

署に帰りこの救助事案の内容と応援が必要の旨を副署長に伝えた。

副署長の命により2人の応援と救助に必要な装備を救急車に積み込み再度現場に向かった。

再び中に進入し、挟まった部分があまりにも狭く、挟まった手とテーブルが、崩れた天井を支えていたため、挟まったテーブルを除去できても、天井が崩壊し落ちてくる可能性が非常に高かった。エアマイティで挟まった部分を広げれば、抜き出すことが出来るのではないかと言う事になり、私が署に行き、持ってくるよう頼まれたため署に急いだ。しかしどこを探しても機材がなく、ちょうど兼任救助隊の車両が見えたため、必要な機材を乗せ再度現場に向かった。

自分の目を疑った。現場に着くとすでにそこは、火の海だった。泣きそうになった。

救急車をそこに向けようとすると道の反対側で手招きする人がおり、よく見ると、2人の職員と要救助者ともすでに脱出していた。神さまに感謝する気持ちだった。

そのまま救急車で救助した女性を病院に運んだ。

一息いれ、今度は大橋町の辺りで生き埋めがあるとの事で、体制を整え4人の隊で現場に向かった。

現場に着くと、すでに崩壊した建物には火が入っていた。

「この中に、じいさんが居るはずなんや」と言うが、呼びかけにも反応がなく倒壊の状態があまりにもひどく、生存の可能性が非常に低いと思われた。近くにクレーン車があったため、建物の角にワイヤーを掛け、持ち上げることを試みたが無惨にもワイヤーは惨めな音を立て切断した。倒壊した建物は、ピクリともせず、燃え尽きた。

駒ヶ林町で生き埋めとのことを、前の現場で言われていたため、そちらに向かった。

倒壊した建物内に3人の要救助者がいるとのことであった。呼びかけに反応するものは2人。まずこの2人から救出することにした。

1人は、外部から容易に確認できた。もう1人の方も何とか救助資器材を使用することにより救出可能であったため、二手に分かれ救出に当たった。ここもガスの臭いが強くエンジンカッターなど使用不可能なため金鋸等で切っていったが、間に合わない。一旦署に帰りエアソー等を運んできて対処、無事2名を救出した。しかし、残った1人は居場所の見当もつかず、呼びかけに対しても反応なし。約1時間程度捜索を続けたが、発見できず次の現場に向かった。午後の1時頃だった。

久保町で生き埋め。倒壊家屋の中で足を挟まれ出られなくなっていた。

3時間を費やした。上下は布団であったため、その綿をちょっとずつとって隙間を作り引っ張り出した。既に、夕方になっていた。

署に帰った。おにぎりをほおばり、一息つく間もなく他都市応援隊の車両に、緊急の燃料補給の仕事が待っていた。それを1時間程度したくらいであろうか、苅藻通2丁目の共同住宅で生き埋めとのことで、桑名消防の専任救助隊の方と2名で現場に向かった。(他の隊員は西市民病院の救助活動にいっていた)

現場には警察官、消防団、重機の運転手など10人程度の人が待っていた。

現場を確認したところ1人は確認できた。エアマイティ、スーパーカッター等を使用し救助に当たった。やっと1人を無事救出することができた。

この建物に、他に何名か要救助者が居るとの事であったが、呼びかけにも応答がなく、2名では対応しきれないと判断し、一度署に帰り他隊に引き継いだ。

署に帰るとすでに0時を回っていた。救急の燃料補給の仕事は昼夜を問わず行われ、日を増すごとに応援隊の車両は増えていった。長田区だけでも200台以上の他都市応援隊の車両が活動。燃料の消費量も短時間ですさまじいものとなった。

消火・救助活動と燃料補給。この災害活動に終わりはないのだろうか。

倒壊家屋からの救出活動 -家族の励ましが救出成功のカギ-(1995年3月号掲載・熊野 修充)

平成7年1月17日5時46分、阪神地方を突然襲った地震は、死者5千名以上という戦後最大の大惨事となってしまった。しかし、その反面我々消防職員を始め警察官や自衛官また一般市民の懸命な努力により一命を救われた人々も少なくはない。そんな中の一例を紹介します。

幾つかの現場で救出活動を行った後の12時30分頃、大橋町7丁目6番地で「意識はあるが首から下まで埋まり全く動けない人が居る」という情報が入った。救急隊の秋吉士長と共に現場に向かった。

現場には要救助者の家族や近所の人が何人も集まっている。我々の姿を見た家族の人が「お父さん消防の人が来てくれたよ。もう大丈夫やからしっかりしいよ」と励ますように声をかける。生き埋めになっている人は、意識はしっかりしているものの、肩から下が完全に埋まり全く動けない状態であった。

瓦礫を取り除き救出しようとしたが、柱等が折り重なり救出は困難を極めた。体の回りには崩れた壁や家具等がびっしり詰まりルーカスやレスキューツールなど救助器具も使えない。それら詰まっている物を手で少しずつ取り除いていくしかない。時間だけがどんどん過ぎてゆく。時折水などを与えながら作業を続けるが、要救助者の体力は目に見えて消耗してゆく。家族の人たちも我々の側で「お父さん私ら皆ここにおるよ。頑張るんやで」と必死に声をかけている。

間もなく本署の救助隊も到着。人数が増えたので瓦礫を取り除くスピードもグンとアップした。体の上に乗っている柱にロープを掛けて上から引き上げる者と、柱を持ち上げる者とに分かれ一斉に柱を上に持ち上げる。

「動いた!!」

少しだが柱が上がり体との間に隙間ができた。すかさず体を支えていた隊員が引き出す、僅かだが引き出す事ができた。それを何回も繰り返しついに17時頃、救出に成功した。要救助者は長時間生き埋めになっていたため体力はかなり消耗していたが、両足が開放性骨折のみで救出する事ができた。

この事案では、家族の人たちが近くで常に声をかけて励まし続けた事が、結果的に要救助者を精神的に元気づけ、救出に成功した大きな要因の一つになったと思われる。

1.17 震度7の体験から(1995年3月号掲載・鍵本 敦)

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5時46分「ドーン、ガタ、ガタ、ガタ」大きな音と激しい揺れが待機室を襲った。すぐに、全員を出動させ、1階へ降りた際にはすでに署の西方に2本の火柱を確認。さらに現場から2箇所、4箇所・・・・・・と増え、あっという間に管内には十数本の黒煙が視野に入ってくる。他署管内でも火災が多発しており応援隊は期待できない状況であった。

神戸消防は近年様々な市街地火災を体験してきた。近年の市場・商店街の火災や病院火災をはじめゴム工場火災などが大火の代表として対策を講じられてきた。また、防火建築物の少なかった過去には市街地大火も数多く体験してきたことも既知のことである。

長田管内で発生した十数本の火災エリアの大半は、危険物を含め火災加重の大きいケミカル産業や市場・商店街などが木造住宅の密集地区の中に混在するといった極めて延焼しやすい都市構造となっていた。また、中には病院施設も存在した。さらには、震度7という想定外の烈震は殆どの防火木造の建物を裸木造に変え、防火帯となるべき生活道路にはこれら建物が倒壊し全く区画のない街区をつくってしまった。その結果、一度発生した火災は、4.6メートルの北東風により一瞬により延焼拡大し市街地大火へと変貌していった。神戸消防が過去半世紀にわたり体験してきた種々の大火が、1月17日5時46分の直後に、それも長田管内で一斉に起こったのである。

また、これに加え、これまで想定していた集団救急や大規模災害などとはケタ外れの数の要救助者が倒壊家屋の下敷きになり救助を求めているのである。

神戸消防の全戦力を合わせても対処できないほどの同時多発火災、そして集団災害、これらに長田地区隊のみで対応せねばならないとは・・・・・・中隊長という立場でありながら一瞬、頭の中が真っ白になった。まさに修羅場そのものである。

しかし、少ない部隊を有効に活用し、一人でも多くの命を助けねばならない。応援隊が来るまで、できる限りやるしかないのだ、今こそ冷静に判断しなければならないと気持ちを切り替え、次のような活動方針を立てた。

  1. 可能な限り、部隊を分散させ火災現場へ1台でも消防車両が配備されるようにする。そしてできる限り市民の協力を得て活動効果を高めることが必要である。
  2. 消火栓断水という厳しい現実に対しては、可能な限り防火水槽等で繋ぎ、人手が集まれば、その時点で自然水利を確保し、大量放水につなげる。
  3. 要請のあった救助事案に対しては、市民の中でのリーダーになれる人物を見つけ、その者を中心に人手を集めてもらい活動を頼む。資器材は消防署にあるものにこだわらず使える物は全て活用する。
  4. 現場間移動や傷病者搬送の手段としては、通行中の車両を停車させ、協力依頼する。使えるものは何でも使うという緊急避難的行動である。
  5. 可能な限り、管内の火災現場の掌握に努める。特に、延焼方面の状況を重視し、延焼阻止可能な線をどこに置くべきかを考慮する。

しかし、これら方針が全てうまくいった訳ではなく、今、思えばつぎのような問題点が思い浮かぶ。

  • 1.については、火災現場は当初の部隊数を遥かに上回っていたし、現場周辺にいる市民は逃げるのに精一杯、つまり皆避難者であり、中には靴も履けず、着のみ着のままの者もいる。また、大半の人は皆、避難や家財の持ち出しに必死で、協力どころではない。
  • 2.については、人手の集まるスピードが火災の延焼に追い付かない。つまり、どの時間断面で切ってみても、火勢が消防力を遥かに上回っているのである。
  • 3.については、人名救助に必要な資器材が全く不足しており、署にあったスコップやバール、鋸などはすぐに底をついてしまう。
  • 4.については、比較的うまくいったが、説明等に時間がかかった。
  • 5.については、中隊長一人でつかめる情報には限りがあり、全ての現場など到底掌握できなかった。

当日の中隊長として、自分なりに振り返ってみたが、当時、こうすれば良かったなどといった反省点は今、ほとんど何も思い浮かばない。あれが精一杯だったというのが正直な感想である。私の反省不足なのだろうか。

今、我々が神戸消防はこのヒューマンスケールを遥かに超えた「天災」と戦うべき、新たな第一歩を踏み出している。多くの貴重な人命、そして莫大な社会資本を一瞬にして無くしてしまったこの無惨な体験を決して無駄にしてはならない。21世紀の未来へ、そして日本はもとより世界へと発信できる震災対策を神戸消防の責任の基に築き上げなかればならない。

大震災での救急活動(1995年4月号掲載)

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1月17日朝、夜が明けるにつれ大地震の被害が次第に明らかになり、火災と救助を求める駆け込み通報が錯綜し混乱する最中、「トラックが湊川に転落している」との通報を受け救急車で現場へ急行すると、安全だとされていた阪神高速道路が倒壊し下り入口が道路ごと湊川へ落下しており、トラックも阪神高速とともに約5メートル下の川底に転落し運転手は運転席でぐったりしており動けない状態であった。

普段であれば救助隊も要請でき相当の人員で対応できるはずだがと思いながら、隊員に川底に降下するよう指示した。運転手を救出するとともに携帯担架に傷病者を乗せて固定した。見物していた何人かの住民の協力を得て引き上げることができた。

救急車に収容し観察すると意識はあるものの、脊髄損傷の恐れがあり重症である。病院交渉も救急車で交渉し病院へ搬送したが、病院収容後、人命を救助したという充実感は全くなく、すでに失われたであろう尊い命の数や今救助を待ち焦がれている大勢の人々のことを思うと、自分の無力さを思い知らせれるとともに、今までの大規模災害に対する認識の甘さを痛感した。しかし、今はたとえ一人でも多くの市民を助けることが自分に課せられた責務と思い深い喪失感と闘いながら現場へと再び救急車を走らせている。

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